13



 翌朝、朝食も食べずに、僕は早くに家を出た。
 もともと夜はほとんど眠れなかった。だから、頭をはっきりさせたいと思って、浜辺を散策しようと思い当たったのだ。この島の夏は熱くて仕方がないけれど、朝方には海からさわやかな風が吹いてくる。
 珊瑚の砕けた砂がさらさらと風にこぼれ、浜辺に咲いた草をなびかせた。透き通った波が浜辺を洗う。遠くから吹く風が、どこか、知らない国の香りを運んでくるような錯角を感じさせて、僕はわずかに目を閉じた。
 足元は砕けた珊瑚だから、はだしで歩けばすぐに傷だらけになってしまうだろう。僕は足元に目を落としながら歩いた。昨日は風が弱かった。漂着物は少ない。まあ、いい。今日の目的は何かを拾うことじゃなかった。
 澄明な朝の光が、僕の頬をさらっていく。僕は海に背を向けて、島の光景を見る。そこに広がる、明るく、うつくしい光景を。
 赤い花、黄色い花が潅木に咲いていた。陋屋に絡みついた蔦があざやかなピンク色の花を咲かせている。けれど、そんな鮮やかな色彩をも飲み込むのは、生き生きとした緑の色だ。
 大きなガジュマルの木が、広い葉の下に、根のような蔦のようなものをたらしている。絡み合いねじりあった幹。空に向かって伸びていく梢。そして梢の向こうに広がる空。あざやかでフラットな青の上に、大理石を彫りぬいたような雲がそびえたっている。
 この島はいつも晴れだ――― と、ふいに僕は気づく。
 ときおり通り雨が降る。黒雲がたちまち空を多い、スコールのような豪雨が島の木々を洗っていく。でも、それだけだ。それ以上の雨が降ることがあっただろうか。でも、水源の少ない(珊瑚の島なんだからあたりまえだ)この島で、雨も降らないのに、どうして水不足が起こらないんだろう。
 心の中を、すっと、冷たいものが過ぎった。
 フラットで青い空。土耳古石を磨いたような空。そこを過ぎていく雲。太陽の表を通り過ぎ、縁取りが淡い紫に燃え立ち、太陽を大きなオパールの珠に変える。
 うつくしい、うつくしすぎる光景。……まるで他人事のような、光景。
 ぼんやりと立ち尽くしたまま、僕は思っていた。なんでそんな風に思うんだろうと。他人事みたいだなんて。この島は僕のふるさとなのに。
 でも、きれいだ。きれいすぎた。まるで作り物みたいだった。そんな想像が冷たい針を心に刺した。僕は胸を押さえる。しゃがみこんだ。地面についた手に、白く荒い砂の感触を感じる。
 僕は砂にまみれた指で顔を抑える。なんでこんな奇妙なことばかり考えるんだ。頭を打ったからか? 
 ―――あの岬から落ちてから、僕は、おかしい。
 この島の光景がまるで絵葉書の写真のように、人々がまるで操り人形のように、見える。
 こういう精神病とかってのがあるのかな、と僕はぼんやりと思った。僕は頭がどこかおかしくなってしまったんじゃないだろうか。だから回りが偽者みたいにみえる。全部全部、偽者みたいに、見える。
 じゃり、と指が砂を探った。その指先に何かが触れた。何の気もなしに見下ろして、僕は一瞬、息が止まるのを感じた。
 それは、硝子のかけら。
 直径三cmほどの、ちいさなレンズだった。
 半ば砂に埋もれている。あわてて掘り出した。見覚えはない。ないはずだ。珍しい落し物でもない。
 震える指に拾い上げたレンズは、淡い虹色を表面に浮かべていた。周りは磨耗して欠けているから、真円というわけでもない。おそらくはCDか何かの接触面のレンズだろう。そのはずが、僕はそのレンズをまじまじと見つめた。まるで信じられないものをそこに見つけてしまったかのように。
 見覚えが、ある。
 僕は確かにこれを知っている。
 そんな不可解な確信とともに、僕は空にレンズをかざした。見上げると陽光が目に付き刺さって激しく痛んだ。この島の光は僕には苛烈すぎる。けれど僕は見た。たしかに見た。
 レンズの中に、薄く、写りこんだように
 淡く、藍色の空が、見える。
 そこに、ほろほろと、雪が、降っている。
『スノウ・ドームだ』
 僕はそう思った。思った瞬間、腹の底に氷の塊のようなものが凝ったような気がした。こんな思いを僕は一度抱いたことがある。
 間違いなく、このレンズと出会ったことが、ある。
 ……これは、マインド・ミラーだ。
 その人の記憶を映し出すという特殊な能力を持った素材。錯視や妄想を見せることなく、真実の記憶だけをより分けて、本人に見せる。本人にだけ見せる。心理検査などに用いられることがあり、さらには犯罪捜査などに用いられることもある。まだ開発されて間もない素材。それがこんな場所で入手されるなんて、どれだけ珍しいことなのか。
 白く粗い砂の上に座り込んだまま、僕は呆然と思った。なんで僕はこのレンズについてを知っているんだろう?
 レンズの中に、誰かの影が見える。それはふわふわとした薄茶色の髪をした少女の姿だ。
 こちらを見つめていた。
 薄青く隈の浮いた、かなしそうな眼。青ざめた頬。
 僕は彼女を知っている。
 僕は、それを、確信した。




 家までの道を一気に駆けていくと、肺が破裂しそうになる。
 荒い息をつきながら家の中に飛び込むと、サンダルを脱ぎ捨てることすらもどかしい。僕は砂まみれの足で家の中に駆け込んだ。目指す場所は父さんの書斎だ。家族のアルバムが置かれている場所。
 確かめたかった。僕にはたしかにここで生きてきた歴史があるということを。たかが小さなレンズの見せる幻なんかよりも確かなものが、僕にはあるはずだ。この島で生まれ、この島で生きてきた11年の歴史。そこが僕の家族のアルバムには写っている筈だった。それを確かめて、レンズに写る幻を否定したかった。
 何冊もの本を乱暴に本棚から引っ張り出し、床に投げ捨てる。やがて合皮の装丁をされた大きなスクラップブックが見つかった。表紙にはエンボスでアルバムと書かれている。僕は乱暴にアルバムを引っ張り出した。何冊も、何冊も。
 アルバムを、めくる。
 そこには何枚もの写真が、整然と、張り込まれている。
 初めのころは普通の写真だ。赤ん坊の僕に頬を寄せた母さん。病院での写真。やがて初めてこの家に、この島にやってきたときの写真。今と変わらない姿の庭のガジュマルの下で笑っている父さんと母さん、それに、僕の写真。
 当時から真っ白い肌をしていた僕は、多くの写真で大きなつばの帽子をかぶせられていた。浜辺で遊び、貝や海草を拾う僕。幼稚園へと入学する僕。木登りを覚えようとしている僕。自転車に乗り始める僕。たくさんの家族の風景。微笑みあい、頬を寄せ合う、幸せな家族の光景。
 けれど、僕は、……愕然と、した。
 こんな写真に、見覚えは、無い。
 そこに写っているのは確かに僕だった。薄茶色の髪。アーモンド・アイ。真っ白い肌。確かめようも無いほどに確かに僕だ。なのに、この写真の一枚にも見覚えは無い。まるで他人の写真を見るかのように余所余所しい。そんなわけがない。僕の家族のアルバム、僕の生きてきた歴史の写真であるはずなのに。
 それでも必死に確かめようとして、僕は、何冊ものアルバムを乱暴にめくっていった。一枚でいいから、記憶に残った写真がほしかった。これは僕の思い出だと、僕の写真だと信じられる写真がほしかった。写真は何枚でもあった。父さんはどちらかというとカメラが好きだったから、さまざまな場面で写真を撮ろうと考えたんだろう。中には乾いた押し花が挟まれているページや、何かのメモ、僕が書いたらしい書きなぐりの絵がスクラップされているページもあった。あたたかい家族の歴史。何冊ものアルバムたち。そこに映し出された幸せな光景。
 僕は、周囲にアルバムを散らばせたまま、呆然とした。
 ―――そこには、ただのひとつも、僕の記憶が無かった。
 ただ忘れているだけなのか? 僕は自問自答する。ただ記憶があいまいで、思い出せないだけなのか。この写真たちは確実に僕の写真だ。でも、それを僕が忘れてしまっていて、思い出せないから、まるで他人の写真のように思えるだけで…… 
 違う、違う、違う!!
 そんな誤魔化しにはなんの意味も無い。たしかにここにある写真に、僕は、何一つとして見覚えを持たない。これは僕の記憶じゃない。このアルバムに写っているのは僕じゃない。たしかに僕の姿、僕の見た目、僕の笑顔をしていても、ここにいる『僕自身』ではありえない。
 床に座り込んだまま呆然としている僕へと、開いたままだった窓から、涼しい風が吹いた。レースのカーテンがゆれて、光のレースを床に散らばせる。きらめかせる。散乱した無数の本を。
 風がぱらぱらとアルバムのページをめくった。そして、ふと、一枚の写真がアルバムからこぼれる。写真――― いや、絵葉書だ。
 僕は、その絵葉書になんの気もなしに眼を向けて…… 視線を、釘付けにされた。
 それは、なんの変哲も無い、ただの絵葉書だった。
 古い絵葉書なんだろう。絵が黄色く変色しかけて、周囲が擦り切れていた。写真絵葉書だった。そこに写っているのは、島の光景だった。
 僕は震える指を伸ばし、その絵葉書を拾い上げる。
 そこに写っているのは――― 岬だ。見覚えのある白い崖。石灰岩の低い崖に、草が伸びている。
 崖の向こうに紺碧の海が広がっていた。そこに一人の少年が腰掛けて、釣り糸を海に垂れている。何気ないワンショット。被写体の少年は、たぶん、撮影者にすら気づいていない。大きなつばの麦藁帽子の影に、顔が半分隠れていた。
 それでも分かった。
 この健康的に引き締まった手足、日焼けした肌、潮焼けした髪は――― 彼だ。
 僕の友人の、彼、だ。
 ぽた、と涙が一滴、絵葉書に落ちた。僕はひどく驚いた。あわてて目元に触れる。濡れていた。僕は泣いていた。どうして?
 理由は分かった。……その絵葉書が、『懐かしかった』から。
 そう、僕はたしかに知っていた。一度も見たはずの無いその絵葉書を。
 浅瀬の碧。深みの紺碧。空は磨いた土耳古玉。そして、白い岬に座って釣り糸を垂れる少年。僕の島の光景。何気ないワンショット。どこにでもあるような日常の一角。
 写真は半ば黄ばみ、周りが擦り切れていた。何回も取り出し、眺めては、また、仕舞いこんだように。
 くらり、現実感が喪失する。散乱したアルバムの中で、僕はぺたりと座り込む。頭がぐらぐらと揺れた。まるで酔ったように。何かが自分の中から引きずり出される。内側から、僕の耳に、何かをささやく。

『こんな島に行きたいね』
『ううん、こういう場所で暮らすんだよ』
『ほんとう?』
『うん。大人になったら、こういう場所に行くの。そして、僕と君で、ずっと、ずっと一緒に暮らすんだよ』

「誰だ!?」
 僕は、とっさに、叫んでいた。
 立ち上がる。アルバムを蹴散らして。僕はがむしゃらに手を振り回し、怒鳴りちらした。回りに向かって。
「誰だよっ! 誰だよ、僕の頭の中に入ってくるのは!!」
 返事は無かった。窓では白いレースのカーテンがゆれて、きらめく光がまぶしい粉を撒き散らす。部屋の中には涼しい島の風が入り込んでくる。レースのカーテンから見え隠れする土耳古玉の空。
 声は消えた。一瞬だった。錯覚だ、と思えるほどに。
 けれど、僕は確かにその声を聞いた。知らない声だった。誰かが僕の内側から僕にささやいた。……いや、違う。これ以上自分を偽ることなんてできない。
 あの声を、僕はたしかに知っている。
 あまりに懐かしい…… あの、声。
 呆然と見下ろすと、足元にアルバムが散乱していた。僕の家族のアルバムが。
 一度とて見覚えの無い、僕自身のアルバムたちが、そこに、あった。





 マインド・ミラーは、記憶を映し出すという。思い込みによって湾曲されることの無い、真実の記憶を。
 だとしたら、ここに映し出されるものはいったい何なのだろう。降りしきる雪の景色。ふわふわとした茶色い髪の少女。僕に似た、僕の知らない、少女。
 散乱したアルバムの中で呆然としている僕は、結局、買い物から帰ってきた母さんに発見された。母さんはひどく驚いて、僕に真意を問いただしたけれど、僕はなんとも答えようが無かった。アルバムに写っている記憶が事実僕自身の記憶だったと確かめたかったとでも言えと? さすがに自分の家族に正気を疑われるような言動をする勇気は僕には無かった。
 その日、僕は夕食を断り、部屋に閉じこもった。誰とも話したくない気持ちだったのだ。ただベットに横になり、僕は、あの絵葉書とレンズとを、ぼんやりと眺めていた。
 懐かしい絵葉書。レンズの中の懐かしい景色。
 郷愁などというものには、なんの根拠も、無い。
 もしかしたら僕は、この島に、どこかで不満を感じているのかもしれないと僕は思った。たしかにこの島は僕には暮らしにくい。日光に弱い僕は、たぶん、雪の降るような、日光の弱い国のほうが平和に暮らすことができるだろう。けれど、だからといってアルバムに写る過去の記憶を否定したいと思うのか? そんな仮定は馬鹿げていた。
 絵葉書を取り出した。寝転がったまま目の前にかざした。そこに写っているのは『彼』だ。僕の友人だ。
 うつむき加減にさおの先を見つめているから、横顔は半分隠れていた。それでも、日焼けした頬の輪郭と、のどの辺りのまろやかな線で彼だと分かった。
 彼はこんな写真を取られていたことに気づいていたんだろうか、と僕は思う。
 釣りに熱中している様子だと、たぶん、気づいてなんていないだろう。それでも、彼はこの景色にこの上もなく溶け込んでいた。美しい南国の島。南国の島に暮らす素朴な少年。まるで、一枚の絵のような景色だ。
 絵葉書を裏返しても、そこには何も書かれてはいなかった。たぶん、どこかで入手して、ずっと大切に仕舞いこんできた絵葉書なんだろう。仕舞いこんで、ときおり取り出して、眺めていた。この美しい光景を。
 胸が締め付けられる。それは懐かしさだ。なんの根拠も無い懐かしさ。旅愁、とでも言うべきもの。
 どこか遠いところをふるさとだと思う。そんな感覚。でもそれがおかしいということは僕には百も承知だった。この絵葉書に写っているのは『どこか遠く』ではない。僕のふるさとだ。
 黄ばんだ絵葉書の中の、まるで異国のような、僕のふるさと。
 僕は絵葉書を枕の横に置くと、今度は、レンズを取り出した。
 レンズを灯りにかざすと、相変わらず、藍色の空に雪が降っていた。『スノウ・ドーム』だ。しんしんと降り続けて止むことのない雪。懐かしい雪の景色。このうつくしいふるさとより、はるかに懐かしい雪の景色。
 けれど、その日だけ、そのレンズは――― わずかに様子が違っていた。
 僕は眼を瞬いた。レンズの写す方向が、『動いた』のだ。
 映し出されたのは、まるで病院の中のような、無機質なコンクリートの廊下だ。そこを映像は進んでいく。ドアがいくつも並んでいる。無機質な冷たい光景だった。そこに一枚のドア。わずかに隙間が開いている。
 レンズはその中を映し出す。まるで、誰かがドアの中を覗き見しているように。
 僕はひどく混乱する。なんだ、これは? なんの景色だ?
 部屋の中には――― あの、少女がいた。
 ふわふわともつれて顔を縁取った薄茶色の髪。折れてしまいそうに細い手足。華奢な輪郭と、薄茶色のアーモンド・アイ。それを、地味な紺色のワンピースで覆っている。彼女は青ざめていた。手にしているものは…… 一リットルの牛乳パックだった。
 誰かがほかに部屋の中にいる。それが気配で分かる。僕は呆然とレンズの中に見入っていた。ひどく嫌な予感がした。背骨の中を小さな虫が這いずり回るような違和感。
 やがて、彼女は、決心を決めたように、牛乳を飲み始めた。
 パックを直接口に当てて、細い喉を上下させながら、牛乳を飲み始める。だが、一リットルを一気飲みするなんて最初から無茶な話だ。やがて彼女の顔は苦痛にゆがみはじめる。顎から数滴の牛乳が滴り落ちる。けれど、彼女は飲むのをやめない。そして。
 とうとう、一リットルの牛乳を、飲み干した。
 音を立てて空になったパックが落ちた。少女は苦しそうに咳き込む。口を押さえた。薄茶色の眼に薄く涙が浮かんでいた。だが、そこに浮かんでいるのは、紛れも無いおびえと恐怖の色だった。
 彼女は、それから起こることを、理解していたのだ。
 誰かが椅子から立ち上がった。
 それが誰なのかは、死角になっていて分からなかった。だが、男であることは分かった。背の高い、上等の服を着た、白髪が混じって灰色の髪の男だ。男は少女の前に立つ。ねぎらうように肩に手を置いた。
 少女の目に、悲しげで無力な色が宿った。
 男は手を振り上げ――― 
 そのこぶしが、少女の腹に、食い込んだ。
 体を二つに折るような強烈な一撃だった。彼女はなすすべもなく吹き飛ばされて、床に倒れた。そして口元を押さえる。眼が裂けんばかりに見開かれた。だが、抑えられるはずがなかった。

『ぐぇ…… おぐぅあっ……!!』

 聞こえない。聞こえるはずが無い。だが、僕には確かに彼女の声が聞こえた。
 彼女は、体をびくびくと痙攣させる。口元を押さえた。だが、そこから白いものが、ぼたぼたと滴り落ちた。
 それは、さっき飲んだ牛乳だった。彼女は体を激しく痙攣させ、必死で口元を押さえる。だが、嘔吐された牛乳が、抑えた指の間からぼたぼたと垂れた。耐えようとしていた。だが、はかない抵抗だった。彼女は涙を流し、鼻水までたらしながら、一リットルの牛乳を残らず嘔吐した。紺色のワンピースが吐き戻した牛乳にまみれた。背中が激しく震えていた。
 口からよだれの糸を引きながら、彼女は、全身を震わせながら、激しくえずいた。口からよだれと牛乳の交じり合ったものが垂れた。
 男は彼女に歩み寄ると、その髪を、無造作にわし掴んだ。
 顔を上げさせる。涙と、鼻水と、吐き戻した胃液と牛乳の交じり合ったものにまみれた顔。男は笑っていた。ひどく可笑しそうに。楽しそうに。
 やがて男は何かを命じた。そして、掴んだ顔を再び地面に押し付ける。彼女が吐き戻した牛乳の溜まりの中へと。
 何を命じたのかは、すぐに、分かった。
 彼女は、涙を流しながら、そっと舌を出す。そして、薄いピンク色をした舌で、ゆっくりと、自分の吐き戻した牛乳を舐め始める。命じられたとおりに。『床をきれいにしろ』と命じられたとおりに。
 髪をつかまれ、自らの吐瀉物へと顔を押し付けられた少女の、その眼。
 まるで無力な家畜のように、諦めきって悲しげな、その、眼。
 僕は、その瞬間、レンズを力いっぱい投げ捨てていた。
 がしゃん、と激しい音がして、陳列棚の硝子が割れた。だが、そんなものに構っている余裕は無かった。僕は口元を押さえた。激しい嘔吐感が胸の奥からせりあがってくる。
 なんだ、今のものは!?
 少女に一リットルの牛乳を無理やり飲ませ、腹を殴って嘔吐させる…… しかも、それをやった男は、間違いなく、それを『楽しんで』いた。
 おぞましい。
 そうとしか形容の仕様が無い、光景。
 硝子の割れた音に気づいたのだろう。ばたばたと下から足音が駆け上がってきた。ドアが激しく開かれる。母だった。口元を押さえてうずくまっている僕を見て、驚愕の表情になる。
「どうしたの!?」
「……かぁ、さん」
 駆け寄ってきてくれた母のエプロンに、僕は、震える手ですがりついた。
 抱きつく。少しふっくらとした体つきの母。暖かい体温。がたがたと震えながら抱きしめる。母は何が起こったのかわからないまま、けれど、僕の背中に腕を回してくれる。「どうしたの? どうしたの?」とおろおろと問いかけてくる。
 恐ろしさに体がガタガタと震えて止まらなかった。なんだアレは。あの異常な光景は。
 だが、何よりも僕にとって恐ろしかったのは―――

 ―――あれが、実際に見た光景であるという、確信、だった。







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