14
何を信じればいい? いったい何を?
僕自身の直感か? それとも、『現実』をか? それともあのレンズの見せるまぼろしだろうか。けれど、そのどれもがあまりに頼りなく、曖昧模糊としていて、信頼するに足りるように思えなかった。もはや僕には何一つとして信頼できるものは存在しないように思えた。現実感が崩落していく感覚。世界がまるで一枚の絵のように薄っぺらになっていくという感覚。
島の学校は、ひとつしかない。小中が合同になり、それでも、生徒は10数人しか存在しないという小さな学校だ。
トタン屋根のちいさな校舎は昼間には信じられないほど暑くなる。扇風機は設置されているけれどただの気休めにしかならない。授業は小中の教職免許証を持った先生が一人で行っている。けれど、どの学年も合同で授業を進めるのだから、半分、授業といっても児戯のようなものだ。
僕の席は光の当たらない奥の席にある。それでも窓は見える。土耳古玉の色をした空が。今日は大きな雲が空を覆っていた。太陽が燃え立ち、照らし出された雲のふちどりが、真珠母の万色に、光る。
テキストは与えられていたが、授業をまともに受ける気持ちにはならなかった。先生は高校受験を控えた(と、いっても、このあたりだと高校には何もしなくても行けるのだが)中学生たちや、小学校の低学年の生徒たちの指導に忙しい。僕はぼんやりと机に頬杖をついて、遠くの空を眺めていた。
青い空を、雲が往く。白い雲、まるで、大理石を彫り上げたような実体感のある雲が。
錯覚だ。雲は微小な水滴の集合体に過ぎない。そんな事象。けれど、それがなんの信頼に足るというのだろう? 僕にとってはこの現実そのものが異常でしかない。今、ここに座って授業を受けているということすら、なんの現実感も感じられないという事実。
まるで悪い夢の中にいるようだ、と僕は思う。
美しい南の島で、のどかな田舎の学校で、授業を受けていて、けれど、僕自身はほかのどこかにいるかのような感触。しかもそれがただの錯覚だという確信がもてない。
もしも僕が大人で、そして、きちんとした医師のいる都会に住んでいたのだったら、精神科医に受診することを考えただろう。でも僕は11歳の子供で、この島にいる医者の先生といえば『電球』先生ただひとりだ。それでも、何もしないよりはましだろうか。『電球』先生に相談したほうがいいんだろうか。僕は気が狂ってしまったのでしょうか、と。
―――気が狂うといわれて、思い出すのは、昨晩レンズで覗き見た光景だった。
か細い体つきの少女。ふわふわともつれた細い髪に顔を縁取られた、哀しそうな眼の少女。
彼女が牛乳を一リットル飲まされて、その後、腹を殴られて嘔吐させられる。飲まされたそのこと自体が嘔吐させることを目的としていた。その異様さ。残酷さ。頭の中にこびりついて、僕は、今日満足に朝食を取ってくることすらできなかった。おかげで頭がふらふらする。
何よりも恐ろしいのは、あれが――― 現実だと確信できている、という事実だ。
錯覚だろうか? そう信じたい。けれど、僕はあれが現実だった、事実、僕の記憶の中にある光景だったと信じている。今僕がここにいて、机に座って授業を受けているという事実よりもはるかな強度で信じている。尋常ではない。僕はきっと気が狂ったのだ。そうとしか思えない。
僕はぱたりと鉛筆を倒して、机に倒れるようにつっぷした。
誰も僕を見ていない。ほかの生徒たちはふざけあうか、あるいはテキストを解くのに忙しい。横目で見た空が青い。うつくしく、青い。
そこに、こつん、と何かが触れた。
頭に当たった。なんだろうと思って見ると消しゴムだった。振り返ると、そこに彼がいる。ちょっと怒ったような顔で僕を見ていた。そして外を指差す。どういう意味か。
そう思っていたとき、振り鈴が鳴った。
「食えよ」
僕を校舎から外に連れ出した彼は、開口一番そう言った。
僕に向かって突き出したものは、缶詰の豚肉をはさんだおにぎりだった。海苔が巻いてある。たぶん彼の昼食だ。わけがわからなくて彼を見ると、りりしい眉を怒ったようにひそめて、「食え」とさらにおにぎりを突き出してくる。
しかたなく、僕は食べた。おいしかった。昨晩から何も食べていなかったせいだったんだろう。僕らは校庭に置かれた土管の上に並んで座っておにぎりを食べた。そこは校舎の陰になっていて、目の前に影と光との稜線がくっきりと落ちていた。
「お前、どうしたんだよ?」
食べ終わった僕に水筒のお茶を差し出しながら、彼が言う。受け取りながら僕はためらった。こんなことを言って信じてもらえるものだろうか。
「……ねえ、君、さ」
「なんだよ?」
「僕の頭がおかしくなったっていったら、どうする?」
何もかもに現実感が無い。何もかもが夢のようだ。今、たった今目の前に座ってご飯を僕に差し出してくれた彼のことすら。
さすがにそんなことはいいあぐねて、僕は空を見上げた。真っ青な、黒いほどに青い空に白い雲が流れていく。真珠母色の美しい雲。そして、まぶしい光の球体である太陽。
「おかしい? お前が?」
彼はさすがに怪訝そうな顔をしたが、けれど、僕の話を聞いてくれるらしい姿勢だった。僕はためらいながら言葉を選んだ。
「その…… まるで、この世界が全部夢みたいに思えるんだ」
「全部?」
「空とか、風とか、島とか、両親とか……」
最後の一言は、さすがに僕もためらった。
「……君とか」
彼はやっぱり眉をしかめた。黒糖みたいに真っ黒い眼が、怪訝そうな色を浮かべる。僕はあわててごまかし笑いを浮かべ、ぱたぱたと手を打ち振った。
「ははは、やっぱおかしいよね? 頭打ったせいかなあ。なんか昨日からずっとそんな感じなんだ。どっかの病院で見てもらったほうがいいのかなあ。『電球』先生に診てもらったほうが……」
僕の台詞は、途中で断ち切られた。
彼が、僕の手を、握ったのだ。
僕は唖然として言葉も出なくなる。彼は真剣な眼で僕の眼を見つめていた。黒糖みたいに真っ黒な眼。日焼けした精悍な顔立ち。
「お前、何か、変なものでも見たのか?」
どきり、とした。
「たとえば…… そう、なにか幻みたいなものでも見せられたとか」
僕は思い出した。
自分のポケットの中に入っているものを。
それは一枚のレンズだ。薄く虹色をまとった分厚いレンズ。波に磨耗して円形ではなくなったレンズ。『マインド・ミラー』。
そう、僕はたしかに幻を信じている。たった今眼で見ている、僕の手を握り締めている『彼』よりも、レンズの見せる幻のほうに説得力を感じている。ふわふわとした茶色い髪の少女、悲しげな眼をした、虐待された少女の存在のほうを、僕自身の存在よりもはるかな確かさで信じている。
でも、そんなことを彼に告げたって、どうなるだろう?
「なんでそんなこと言うのさ?」
僕は笑いながら眼をそらした。乾いた笑い。でも、彼はまっすぐに僕を見たままだった。
「あのさ、友達だと思うから言うけど」
彼は言い、それからわずかにためらう。舌で唇を湿らせる。
「―――オレは、お前がなんかの問題を抱えてるんじゃないかと思ってる」
再び、どきり、と鼓動が跳ねた。
「だって、昨日からお前の様子はおかしいよ。妙な目つきしてみたり、へんなこと言い出してみたりさ。今日の授業中だってずうっとぼーっとしてたじゃないか。なんか悩みでもあるんじゃねぇのか? それも、人に言えないような悩みとか」
彼は鋭かった。鋭すぎた。まるで僕の考えを読んでいるかのようだった。それが逆に―――
僕を警戒させた。
そんな僕に気づかないんだろう。彼は熱心に続けた。僕の手を握り締めて。その手はかすかに汗ばんでいた。
「なんか心配があったら言えよ。相談してくれよ。オレたち、友達だろ?」
「うん……」
僕が思い出したのは、あの絵葉書だった。
あの絵葉書は、彼を写したものだ。彼は気づいていないうちに撮られたものなのかとも思った。けれども、それよりもはるかにおかしいことがひとつある。
あの写真の彼は、『今の彼から成長していない』のだ。
あの絵葉書は古いものだった。周囲の擦り切れ方、絵葉書の黄ばみ方から見て、何年も前のものだということはあきらかだった。なのに、今目の前にいる彼はあの絵葉書に写っていた『彼』とまったく同じ姿をしている。何年も経過しているんだったら、彼は、大人になっていてしかるべきなのに。
そういう風に考えて、僕はふと、絵葉書のほうを基準にして『彼』のことを考えている自分に気づいた。おかしい。そもそも目の前にいる『彼』ほど確かなものはないはずなのに、どうして僕は絵葉書の『彼』のほうを先に優先して考えているのだ? だって、たとえばあの写真の彼は、誰か別人だという可能性だってあるというのに?
黙りこむ僕を見て、彼はどう思ったんだろう。黙り込み、おずおずと手を引いた。僕の手の上から。
「……悪ィ。なんか、出すぎたこと言った」
「そ、そんなことないよ!」
僕は慌てる。逆に手を伸ばし、引こうとした彼の手を掴み取った。
「心配してくれてすごくうれしい。でも…… その、今の僕はすっごく頭が混乱してるんだ。上手く今の事情を説明できる自信がないんだ」
「そうなのか? そんなにやっかいなことになってんのか?」
「うん……」
思い出す。パラコート。蟻の群れ。ふわふわともつれた茶色い髪の少女。糸を引いて嘔吐される白い液体。
無力な、哀しい、うつろな眼。
「全部しっかり頭の中で整理できたら、きっと君に言う。だから今は黙ってて。誰にも言わないで。先生にも、僕の両親にも、『電球』先生にも」
「……」
彼は僕をじっと見た。何かを確かめようとするように。僕はその視線の強さに負けそうになる。ポケットの中が意識される。そこに入れたレンズを。
ここでレンズを出して、彼に相談してしまったら、どんなに気持ちが楽になるだろう?
でも、それは、『間違った解答』であるような気がした。それをやって、何の解決にもならなかったことがあったような気がした。只の錯覚だった。けれど、その錯覚は確実に僕の言葉を封じ、僕の手を引きとめた。
風が吹いた。校庭の片隅に植えられた彼岸桜の枝が揺れた。遠く、海の匂いがした。
彼は黒糖のような眼でじっと僕を見つめていたが、やがて、眼をそらした。
「信頼、してくれよな」
ぼそり、と彼はつぶやいた。
「オレはお前の友達だ。お前のためなら、なんだってする」
「……うん」
うれしかった。その一言が。泣きそうなほどに。
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