15



「お前が、お前なのか、分からないって?」
「うん……」
 学校を引けた後、彼は友達の誘いを断って、僕と一緒に学校に残ってくれた。トタン屋根の校舎は過ごしやすいとは言いがたい。けれど、トタンの庇の下に並んで座ると、涼しい風が僕らの間を通っていった。
 足元には赤土を踏み固めた地面がある。彼は笑うだろうか、と僕はうつむいたまま思った。どれだけそれが現実離れした言い草かどうか、僕には十分分かっていたからだ。
 けれど。
「―――鏡をみても、駄目なのか?」
「うん。……なんだか鏡に写った顔を見ても、それが僕なのかどうか確信がもてないんだ」
 もっと言うと、『違う顔』が、そこに見えるような気がするのだ。ふわふわともつれた薄茶色の髪、アーモンドアイの、僕に良く似た少女の姿が。
 彼は真剣な顔で僕のほうを見た。しばらく考え込むようにりりしい眉を寄せていた。それから、言った。
「それ、何が原因なんだ?」
 どきり、とした。
 原因は分かってる。言うまでも無い。僕のポケットの中にある、あの、レンズだ。
 昨日、僕は、あの後、結局あのレンズをまた拾ってきてしまった。
 陳列棚のガラスを割って、親には驚かれ、そこであのレンズを捨てることだって出来ただろう。いや、僕はそうすべきだったのだと分かっていた。でも僕はあのレンズを捨てられなかった。もっと言うなら、『恐ろしい』から『捨てられなかった』のだ。
 もしも、あのレンズを捨てて、この感覚が錯覚だと思って――― そして、どうなる?
 万に一つ、那由他に一つの可能性として、もしも、レンズに写る世界のほうが真実だとしたら?
 だとしたら、僕は、真実につながるたった一つのドアを失ってしまうことになる。そして、現実感を感じることが出来ないこの世界で生き続けていかなければいけない。今となってはそれはすでに逼迫した恐怖だった。現実感を取り戻すまで、もう一つの世界へのたった一つの覗き穴であるこのレンズを失うわけには行かない。
 ……あれ?
 そこまで考えて、僕は、ふいに自分の想像のおかしさに気づいた。
「もしも、この世界が現実じゃないとしたら―――?」
 ふいに、彼が、言った。
 僕は弾かれたように振り返った。信じられない思いで彼を見た。黒糖のように真っ黒い眼がまっすぐに僕を見ていた。その唇が動くのが、まるで、水を通してみたようにゆがんで見えた。
「この島がただの夢で、おまえ自身もただの夢で、この現実が何かの間違いで、もっと恐ろしい何かが現実だとしたら」
「……した、ら」
「おまえは、どうするんだ?」
 黒糖のように、闇のように真っ黒い眼だ。底が見えない。彼が何を聞いているのか理解できない。僕の頬を伝った汗が、拭うことすら忘れられて、顎から一滴落ちていった。
 彼が口にしたことは、僕が考えていたこととまったく同じだった。さながら、考えを読んだかのように。さもなければ、彼というスピーカーを通して、僕の脳内から言葉が零れ落ちたように。
 もしも・この世界が・夢だとしたら?
 ぐにゃり。世界がゆがむ。赤土の踏み固められた校庭が、校庭を囲んだ木々の赤や黄色の花々が、涼しい影を作ったガジュマルの木が、ゆがむ。
 なんで彼は僕の考えを知っている? ……いや、今考えるべきことはそれじゃない。
 もしもこれが現実ではなかったら、夢だったら、僕はどうしたいのか、ということだ。
 この現実に不満があるのか――― 
 無い。
 何一つとして無い。
 やさしい両親、頼りになる友達、そして、瑞々しい自然。穏やかに、やさしく過ぎていく日々。
 まるで『絵葉書の中のように』『夢の中のように』うつくしい日々だった。たとえどんなに現実感が無くても、それが僕の現実だった。黄金の日々。そこにはかなしみや苦しみのかけらすらない。
 たとえ現実感のかけらすらないとしても、僕は、それを信じるべきなんじゃないのか?
 僕は、それを愛するべきなんじゃないのか?
 まるで僕のために作られたかのようなこんな日々を、僕は、大切に思うべきなんじゃないのか?
 彼はまっすぐに僕を見詰めていた。僕は頷こうと『した』。
 
 ……出来なかった。

 遠くで鳥の声がした。近くの農家が飼っている地鶏の声だった。はっと我に返る。僕は一体、何を聞かれていた?
 彼は、にやり、と笑った。
「じょーだん、だよ」
「え」
「何マジな顔してんだ。そんな話、あるわけないじゃん」
 足を大きく振って、座っていたブロックから飛び降りる。くるりと身軽にターンするとこちらを見る。そしてまたにやりと笑ってみせる。その笑顔に僕は呆けた。呆けた僕の額をぱちんと弾いて、彼は白い歯を見せて笑った。
「寝ぼけてるんだよ。昨日、頭打ったりしたからさ」
 海に行こうぜ。彼は言った。僕はぼうっとしたままそれを見ていた。そんな僕がちょっともどかしくなったのだろう。怒ったような顔で近づいてくると、ぎゅっと頬をひっぱる。その痛みに我に返る。
「あ痛!」
「ほら、痛い。夢じゃねーって言うだろ。ほっぺた引っ張って痛かったらさ」
 にっと笑うと彼は日の中に飛び出す。真っ白い日差しの下で、その顔が陰になる。黒糖のような眼だけがこちらを見る。笑いながら手招くから、僕は慌てて立ち上がり、傍らにおいてあった麦藁帽子を取った。
「ちょうどいいや、今日、みんなで海行って魚取るって約束してたんだ。お前も来ねえ?」
「で、でも僕あんまり泳げないし……」
「おぼえりゃいいんだよ! こういうチャンスでもなきゃ、お前、めったに泳いだりしないだろ?」
 彼は笑う。彼は振り返る。走っていく。僕は慌てて追いかける。日差しが手足に刺さって痛い。けれど、その鋭い痛さが、『現実感』めいたものを僕にもたらしてくれる。
 走りながら僕は思う。絵葉書? 哀しげな眼の少女? 僕は何を考えていたんだろう。だって、現実が現実じゃないなんて、そんなことありえないじゃないか。

 ―――でも、夢の中でそれが夢だと気づくことは無い。

 どんなに現実感が無くたって、それは一瞬のまぼろしだ。僕のふるさとはここだし、僕はずっとここで暮らしていくだろう。彼や両親や、『電球』先生や、学校のみんなや、それに……
 彼は走っていく。僕は慌てて追いかける。足元は焼けた赤土だ。こんな真昼に外を出歩いていたら、手足が赤く日焼けしてひどい目にあう。でも、それでも今日は外に出たい気持ちだった。精一杯に日差しを浴びて、そのまぶしさに目を焼かれ、突き刺さる光の棘の痛みを享受したかった。
 そうして暮らしていれば、まぼろしなんて忘れる。全部元通りに戻ってくる。現実感だって戻ってくるさ。僕はそう思いながら、走る彼を追いかける。日焼けした肌を太陽にさらし、短い髪を心地よさそうに風に吹かせる彼を。
 
 ―――でも、夢の中でそれが夢だと気づくことは無い。
 ―――でも、夢の中でそれが夢だと気づくことは無い。
 ―――でも、夢の中でそれが夢だと気づくことは無い。







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