16




「あら、おかえりなさいー。どうしたの?」
「ただいま、かあさん。これ、おみやげー」
 夕方、僕が家に帰ってくると、台所から出てきた母さんはびっくりしたような顔をした。僕が真っ赤になった手足をして、片手に網袋をぶら下げていたからだ。
 肌は日焼けして真っ赤だ。熱を持ってひりひりする。今日お風呂はいる時とかひどい目にあうだろうな。母さんも同じことを思ったのだろう。居間に入ってきた僕のことを、驚きの目で上から下まで見回した。
「今日、友達と一緒に海で遊んでたんだ。これ、おみやげ」
「え、あなたが取ったの?」
「ううん、貰った」
 僕の収穫は――― ゼロだった。
 まあ、予想できた事態だ。僕は笑うしかない。母さんはそれでようやくほっとしたように笑い、片手を伸ばして網袋を取った。中身は貝のたぐいや、岬ではがしてきたフジツボとか。水につかった船とか、岩肌とかからフジツボを剥がすにはへらが必要だが、味噌汁とかに入れると潮くさくて割と美味しいのだ。
「化粧水をつけるといいわ。あとでひりひりしちゃうでしょ」
「うん。ありがと」
「冷蔵庫で冷やしてあるからね。次からは気をつけてね?」
 僕は冷蔵庫へといって、そこから化粧水を取って二階に上った。僕はよく日焼けにやられるから、ローションはあらかじめいつも冷蔵庫で冷やしてあるのだ。僕は部屋に入ると潮臭い服を脱ぎ捨てる。短パン一つで泳いでいたから、服には塩の結晶がたっぷりとついてしまっていることだろう。乾いた皺が白い粉を吹いていた。
 浜辺のシャワーで塩は落としてきたから、あらためて風呂に入ることは無いかなあ。それともきちんと風呂に入って髪とかも洗ったほうがいいだろうか。そんなことを思いながら僕はごろりとベットに横たわる。タオルケットは洗いたてで、清潔に乾いていて、太陽と石鹸の匂いがする。
 僕の部屋は潮くさい匂いがするはずだけど、今日ばかりはそれも気にならない。僕自身が潮臭いからかな。そう思ってちょっと笑う。見上げた天井の木目模様。
 体がタオルケットとこすれてひりひりした。おきあがった僕は服を脱ぎ、新しいランニングシャツを箪笥から出してくる。そのとき地面に脱ぎ捨てた短パンのポケットから何かがこぼれた。レンズだった。
 僕はレンズを見下ろした。
 こうやって見ると、ただの古ぼけたレンズにしか見えない、と僕は思う。
 レースのカーテンごしに、茜色の光が差し込んでいた。僕はカーテンを開いた。そこに輝くのは朱色と茜色の夕焼けだった。僕はしばし、夕焼けに見とれる。
 部屋の中のすべてが長く影を伸ばす。カーテンのレースのひだが、テーブルの細かな表面の隆起が、家具の取っ手の真鍮色が、すべて、あざやかな赤と黒の陰影に変わる。まるで写真のように一瞬の陰影が目に焼きつく。胸が苦しくなるような、明瞭そのものの鮮やかさだった。
 うつくしい一日。
 うつくしすぎて胸が苦しくなる。
 哀しい予感がする。
 僕は床にごろりと横になった。机の上からひらりと落ちてきたのは一枚の絵葉書だった。セピア色に変色し、片隅の擦り切れた絵葉書。そこに写った彼の姿。
 僕はレンズを拾い、大の字になってそれをかざした。真っ赤な夕暮れの光の向こうにちらちらと雪が降る。僕のスノウ・ドーム。辛く、痛い、苦しい、哀しいほどに懐かしい光景。
 辛い、痛い、苦しい、懐かしい。
 すべてが、ここにつながっている。ひとかけらのマインド・ミラーに。
 僕は床に寝転がったまま、部屋の中を見回した。たくさんの陳列棚に並べられた漂着物たち。壊れた懐中時計や、波に洗われた硝子のかけら。ブイや機械のパーツ。外国の文字の印刷された空き缶やパッケージ。
 ここまでして、いったい何が欲しかったんだろう、と僕は思った。
 僕は、きっと、ずっと探していたのだ。『懐かしい』ものを。
 高くかざして覗き込んだレンズのなか、藍色の空に雪が降る。藍色と茜色が重なり合い、紫になる。現実とまぼろしの溶け合った淡い紫。けれど、どちらが『現実』で、どちらが『まぼろし』なんだろう?
 彼が僕に気を使ってくれたのとは反対に――― 今日の一日は、僕の確信に決定打を打っていた。
 これは、『夢』だ。
 この世界は、僕にあまりに都合が良すぎる。優しい両親。親切な友達。うつくしい島。何一つ辛いことなんて無い。苦しいことなんて無い。
 『僕』は、『僕』じゃない。
 ほかの『誰か』だ。
 僕は確信をしていた。ここにいる僕――― 色白く、髪や目の色素が薄い、やせっぽっちの10才の少年――― は、『僕』ではない。
 なぜ? なんの理由があって。日差しに当たれば肌が赤くなるというリアリティ。冷たい水の中に飛び込んだときの肌が感じる涼感や、水の中で感じる圧迫感、それすらすべてリアルだった。けれど、その『リアル』が逆に僕に疑いをもたらしたのだ。この一つ一つの異様なまでの精密なリアリティは、『現実的ではない』のではないか、と。
 あまりに『リアル』すぎる。『明瞭』で『詳細』すぎるのだ。たかが水にもぐるだけ、風を受けるだけ、陽を浴びるだけで、ここまでのリアリティを感じるということがありえるんだろうか? ありえない。それはあらかじめ想像によって支えられた時にのみ、あらかじめ記述されていたときにのみ保障されるリアリティ、『想像の中のリアリティ』だ。
 僕は今日、ずっとそれを考えていた。
 この世界の詳細さについて。
 普通、人間は、自分の意識しない部分の感覚は、感じないでいる。
 呼吸する時に肺の存在を感じないように、自分の鼓動をいつも忘れているように、感覚というのは通常忘れ去られているものだ。たとえば水に入る時のように、刺激のあるときにだけ意識の上に上って、他の時には消えうせる。視覚も同じだ。人間の視野は広いけれど、実際に焦点をあわせて意識することが出来るのは、そのなかのほんの一部分に過ぎないらしい。
 けれど、この島では、違う。
 常に、感覚を感じ続けるのだ。常に肌に感じ続ける風や、常に肌に感じ続ける水。そのリアリティは人間の感覚が通常持ち合わせているものとは違う。
 肌に感じる日光。手をひたす水の冷たさ。風に混じる潮のにおい。
 ずっとそれを感じ続ける。たとえそれを意識しなくても、すべては詳細に書き込まれている。それは何かに似ていた。そう…… たとえば絵画。どこに焦点をあてて見ていたとしても、他の部分が消えるわけではない。たとえ意識に上る部分がほんの一部だとしても、ほかの部分は存在し続ける。それは人間の意識のあり方とは形が違う。どちらかというと、詳細に描きこまれ、すべてのディティールを作り上げた箱庭の世界、想像の世界に近いものがある。
 しかも、その詳細さには、温度差が存在している。
 家にいる時、学校にいる時、そこまでの詳細さは感じない。リアリティの精度がまだらになっているのだ。そこが僕が一番不審に思った点だった。
 海にいる時、彼といるとき、異常なまでに詳細なリアリティがそこに存在する。なのに、こうして家に帰るためにたどる旅路の途中などでは、そこに自分がいるということを実感する程度の、いわば、普通レベルのリアリティしか感じない。
 おかしいじゃないか? どうして『海』や『彼』だけがこんなに詳細なんだ? まるで、そう、『絵葉書』を見るかのように、自分の意識を向けない方向に対してすら、保障されている高精度のリアリティ。
 つまり…… いわばここは、『想像』の世界なのではないのか?
 そして、そこに投射された『想像の中の主体』であるに過ぎない僕は、したがって、『僕自身』ではありえないのではないのか?
 ―――かといって、レンズに写るあの少女が『僕』なのかというと、それもまた確信がもてなかった。
 疑う理由はある。だって、僕は彼女の『背中』を見た。よしんば、鏡に映った自分の姿を見ていると仮定しても、人間は絶対にい自分の『背中』は見られない。まして彼女はひどい虐待を受けてまともに周囲を認識することも出来ない状態だった。それがマインド・ミラーに写るということは、僕の中には彼女が虐待を受けている現場を覗き見していた、あるいは見せ付けられていたという事実が存在することになる。
 それは、グロテスクで、異常な事実だ。おおよそ『自分』の体験だと認めたいようなものじゃない。だからこの想像は保留にしておいたほうが良いかもしれない。マインド・ミラーに写った景色を見ている『僕』こそが真実の『僕』なのではないかという想像は。
 でも、僕は多分『僕』じゃない。この世界は本物じゃない。そんな確信は奇妙な安堵を僕にもたらした。
 守られている僕。愛されている僕。そんな僕は絵空事にしか思えない。それは僕に哀しさと、安堵を同時にもたらした。
 僕は、愛されるべき人間じゃない。
 愛される価値のある人間じゃない。
 そんな確信のほうが、哀しく、辛く、痛いことではあっても――― 僕にとっては馴染み深いものだった。
 なんで馴染み深いの? おかしいじゃないか。『この世界』の僕は愛されて暮らしてきた。なのに、僕はどこかで愛されている自分に違和感を感じている。僕は愛されてはいけない人間なのだ。そんな確信は深い安堵を僕にもたらす。―――たとえそれがどれほど哀しいことであっても、僕にとっては偽りよりは遥かにマシだ。
 覗き見ていたレンズの、藍色と茜色のフィルターを重ねた景色の向こうに、誰かが動いた。僕は体を緊張させる。何かが現れる。誰かが。僕にとって重要な『誰か』が。
 それは、予想していたとおりの人物だった。
 ―――淡い茶色の、ふわふわともつれた髪を肩で切りそろえた、14・5歳の少女。
 彼女は僕を見て、微笑んでいた。目の下には薄い隈が浮かんでいた。やつれて顔色が悪い。けれど、彼女は微笑んでいた。
 唇が動いている。何かを言っている。何を言っているのか分からない。けれど、彼女はきっと、僕に何かを言ってくれているのだ。僕を安心させようとするような、慰めようとするような、そんな言葉を。
 手を伸ばす。細い手だ。やせ細って骨が浮いていた。僕の頭に手を載せる。そうなのだろうと僕は思った。感じるはずも無いのに、僕は、頭を撫でてくれる彼女の手を感じた。ひんやりと冷たくて、やさしい、小さい、手を。
 彼女を守りたい。僕は、心の底からそう思った。
 哀しそうな、痛々しい笑顔。そんな笑顔なんて見たくない。僕は彼女を守りたい。泣きたいなら泣けばいい。無理をして笑うよりずっとマシだ。苦しいと、哀しいと、辛いと叫べばいい。なのに彼女はそれをしない。耐え続けている。むごい虐待を受けても抵抗一つせず、哀しげな表情でそれを受け入れている。
 なんのために? 誰のために?
 僕は、それを、確かめないといけない。

 




BACK NEXT
TOP