17
その夜は、満月だった。
両親が寝静まったのを確認して、僕はこっそりと家を抜け出した。
家から出ると、そこには大きなガジュマルの樹がシルエットになっていた。僕はゆっくりと近づき、幹に触れる。ざらざらとした感覚。湿った樹皮や垂れ下がった気根。
いとおしい、『僕の樹』。でも、それをガジュマルと呼んでいても、事実それがガジュマルなのかどうかが分からない、と僕は思った。その樹をガジュマルと呼んではいるけれど、なんとなく、そのイメージにはコラージュめいた奇妙さが付きまとっている、と今の僕は思う。この幹、この枝、この葉は、それぞれどこか別の何かから持ち寄ったようなイメージを持ち合わせていた。そして、その見た目が明瞭であるのほどには、触覚や嗅覚の面が詳細であるわけではない。
さらさらと音を立てる木の葉。緑の匂い。まるで僕を抱きしめるかのような枝。その枝に座れば、どんな上等の安楽椅子に座っているよりも快適な心地を味わうことが出来る。僕は自分の身体感覚を意識しながら、ゆっくりと樹の幹を抱きしめる。リアリティが詳細になっていくのを感じる。この樹の周りには、『リアリティ』が非常に詳細に書き込まれている。それは『海』や『彼』と同じだ。
手を離し、ゆっくりと樹から離れていく。リアリティがはらはらと離剥しはじめる。たとえばPCのモニターの色彩数のビットを落としていくように、ピクセルの数を減らしていくように、リアリティが薄くなる。
なぜ今までこれに気づかなかったんだろう、と僕は思った。
漫画なら、必要な場面には詳細に背景が書き込まれる。そうじゃない場面だと背景は空白になることすらある。そうやって緩急をつけるのだ。あるいは単に手順を簡略化するためだけに、必要ではない場面の背景を省略することもある。
今、丁寧に書き込まれたガジュマルの樹を離れて、僕の世界から急速にピクセル数とビット数が下がっていった。リアリティが減退し、皮膚感覚が、温度感覚が、自分の中でぼやけていく。それでもあいまいにならないのが空気の匂いだ。かすかに混じった潮の匂い。どこか遠い国から吹き寄せてくるような、不思議な香りを含んだ匂い。僕は赤土の道を走り出した。
左右にはサトウキビの畑が広がっていて、満月の白い光に照らされている。僕の背よりも高く伸びた葉がさらさらと海のように揺れていた。僕の背負ったバックパックの中には、あのレンズやセピア色になった絵葉書が入っていた。目指す場所はたった一つ。僕が落ちた岬、あの、美しく切り立った白い岬だ。
たったひとつ、考えた末に僕が思いついたこの『現実』を打破する方法――― それは、想像では再現の出来ないことをやる、という方法だった。
想像すら出来ないもの、空想では作りえない何かを体感する。そのとき、想像の限界を超えたところから現れたものこそが、『現実』であるはずだ。
たとえば、僕は自分のアルバムのなかに、リアリティを見つけることが出来なかった。そこにはたぶん空想の詳細が及んでいなかったのだ。おそらく、この想像の限界はこの島の中だけに限られている。もしもこの島から出ようとしたら、簡単に空想の果てにたどり着くことが出来るだろう――― けれど、それは不可能なのではないかという予感がした。たぶん港からは船は出ないだろうし、定期便は永遠に現れない。その程度のエラーは勝手に修復するという機能は装置されているはずだ。
ひとつひとつ、この世界の詳細ではない部分を探していく? たとえば話したことのないクラスメイトの家に勝手にあがりこんだりすれば、舞台装置の裏側のベニヤが露わになっているかもしれない。けれど、そんな細かいパーツを積み上げていく作業自体が今の僕にはもどかしい。幸福な幻影に周りを包囲されて、今では、その甘く幸せな香りに窒息しそうだ。それに、そんなことをしてこの世界の舞台裏を暴いたところで、なんら解決にはならない。この世界の出口はそんなところにはないんじゃないかという気がする。
ここは僕のいるべき場所じゃない。そんな感覚が僕を襲い続けている。レンズの中に降り続ける白い雪のもたらす郷愁に、体が切り刻まれていくようだ。
それに、もう一つ。
僕は、あの少女のところに、行かなければいけない。
このままだと彼女は泣くことも出来ず、むごい虐待を受けながら、哀しい瞳でたたずみ続けることになってしまう。そんなことには耐えられなかった。なんとかして、彼女に直接会いたかった。会って、慰めてあげたかった。
長い道の途中で僕は立ち止まる。荒い息を吐き、膝に手を突いて肩を上下させる。道はゆるい坂道になって海へと続いていた。高く伸びたサトウキビに挟まれた道の向こうで、月光を浴びた海が、一本の長い銀色の道を通していた。藍色の空に銀砂が光っていた。息を吐くのも忘れそうになる。僕は大きく息を吸い込む。その景色に見とれる。
泣きたいくらい、美しい。
ここが僕の、本当のふるさとでは、ない、なんて。
しばらく道の途中で一息をついて、それから僕は再び走り出した。道はシャッターを下ろした商店街を通り過ぎると、むき出しの土ではなく砂利に覆われた道になり、やがて、海の傍で道が曲がる。白い砂浜が続く道を通り過ぎて、再び赤土の細い道。その向こうに遠く張り出した岬。
高さならほんの数メートルしかない。彼がいつも釣り糸を垂れている岬。そのすぐ傍で渦巻いている海。僕が落ちた海。
ううん、違う。
何かの理由で、自ら身を投げた海。
―――岬に立つと、正面から風が吹きつけた。
前髪が風にふわりと舞い上げられ、やわらかく耳をくすぐった。満月に照らされて、銀の波頭がきらめく海。僕は振り返りもしないで言った。
「近寄らないで」
後ろで、足を止める気配がした。
僕はゆっくりと後ろを向く――― そして、そこに、予想通りの姿を見つける。
彼、を。
日焼けした、精悍な顔立ちの、黒糖のように黒い瞳の少年を。
「なんでここが分かったの」
「……」
「僕をどうするつもり。連れ帰すの?」
彼の表情には焦りがにじんでいた。なぜ僕がここにいるのか分からない、けれど、ここに来たことを知ったというそれだけの理由で止めに来た。そんな様子だった。彼には僕がこの『島』の決定的な欠点に気づいたということが分かっていない。リアリティの変容という奇妙な現象に気づいたことが理解できていない。
僕はゆっくりと後退し、崖のぎりぎりまで後ずさった。彼が近づいたらすぐに岬から身が投げられるように。彼はあせった表情で近寄ろうとし、けれど、足がためらったようにたたらを踏む。僕に飛び込まれてしまったら、彼にはもう、なすすべはない。
「おまえ、どうするつもりなんだよ」
彼は言った。泣きそうな声で。
「何が不満なんだよ。この島のどこが不満だ? なんにも嫌なことなんてない場所じゃないか。辛いことも、苦しいことも一つもない。ここにいれば幸せに暮らせるんだ。それじゃ駄目なのか?」
「そう――― かも、しれない」
「だったら、どうして!!」
僕は泣き笑いを浮かべた。
そのとおりだ。ここにいれば幸せに暮らせる。それは間違いない。でも僕は気づいてしまった。この島はただの舞台装置、空想の産物に過ぎない。そしてそれを僕に気づかせたのは、辛くて苦しい、そして哀しい、雪の降り続ける景色だった。
もしかしたそのすべてが妄想なのかもしれない。僕はどこか頭がおかしくなってしまって、それで、ここにこうして迷い込んできただけなのかもしれない。でも、斑になったリアリティという奇妙な現象はどうやって説明をつければいい? そして、もしもレンズの…… マインド・ミラーの中身を真実僕の記憶だと解釈するのだったら、ここの世界は矛盾の産物でしかない。
そして、それを確かめるための簡単な方法が、僕には、あった。
「見てて」
僕はバックパックを肩から下ろし、そして、中に手を入れる。
つかみ出す。
一本の、カッターを。
彼が息を呑んだ。僕は深く息を吸い、吐き出した。ためらいはここにくるまでに断ち切っていた。カチカチと音を立てて刃を出していく。段ボール用の大振りなカッターの刃が、月光を受けて、白々と光った。僕は着ていたTシャツを捲り上げた。日に焼けない真っ白い肌が、青白い月光に露わになる。彼が息を呑んだ。僕はうっすらと微笑んだ。
現実では味わったことのない感覚を味わう。
そのもっとも簡単な方法。
それは。
僕は、かすかなためらいを振り切るように――― カッターを、自分の胸につきたてた。
「ぐ」
痛み。
瞬間、灼熱するような熱が、皮膚を、切り裂いた。
だが、それは、一瞬―――
この世界で決して味わったことのないと分かるもの。
それは、僕の皮膚を見れば分かる。
傷。
それも、致命的なレベルの損傷。
痛みは感じた。けれどそれは、紙の切り口で指を傷つけるような、そんな、異様なほどに軽い痛みだった。
手はなめらかに動いた。カッターの切れ味を考えると、奇妙なほどに抵抗がなかった。僕の左胸から腹にかけて、縦に、バターを切るようになめらかに裂けた。まるでファスナーを開けるように、傷口が開いた。
彼は呆然と僕を見ていた。カッターが手から零れ落ちた。僕はかくんと地面に膝を突く。腹を押さえた。その傷跡を。
まるで紙を切ったような切れ口。傷口から内臓がはみだすことも、脂肪や汚物が流れ出すことも、血が吹き出すことすらも、無い。肺や心臓や腸や肝臓。僕の中にあるはずだった臓器たちが、ただのひとつも見つからない。
その内側には、何も、無い。断面は皮膚と同じだった。白い、なめらかな皮膚と同じ質の断面が、ぱっくりとそこに開けていた。
僕に内側は無かった。
僕もまた、はりぼてだった。
「あはは…… ははは…… あはははは……」
僕は笑い出した。笑うしかなかった。笑いながら、僕は、自分の頬を涙が伝うのを感じた。
足元の白い砂に、涙が落ちる。
彼は立ち尽くしていた。眼が見開かれていた。何を見たのか、理解していないわけではない。僕の傷口から血が流れないことを驚いているのではない。
僕が、そこまでの決心を固めていたという事実に、ただ、呆然としている。
「ごめん」
僕は左胸を押さえて立ち上がった。指を紙で切ったような軽い痛みに思う。この世界の水準には、最高でもこのレベルの痛みすら書き込まれていない。
それは、なんて、幸福な世界。
「僕、この島が大好きだったよ。……でも」
声は透き通り、風に吹き散らされた。
「嘘はもう、いらないんだ」
彼は何かを叫んだ。走ってくる。まるでスローモーションのよう。精一杯に両手を伸ばして。僕を抱きしめようと。この島に引きとめようと。
だが、僕は、ゆっくりと背後に倒れていく。
ほんの一歩後ろに下がると、そこには、崖。絵葉書の中で彼が釣り糸を垂れていた崖。そして全身を包み込む、不思議なほどに精度の高いリアリティ。
僕はもう気づいていた。絵葉書に写るこの岬は、この島の中でもっとも、リアリティの精度が高い。
海から吹き付ける風。皮膚を抱く暖かい空気。新鮮な潮のにおい。波のうたう子守唄。そして、広い、広い、水平線のかなたまで続く海。僕のことを誰よりも愛してくれる友、黒糖のような眼をした彼。
なんてうつくしい、幸せな、島。
僕はわずかに笑い、泣きながら、目を閉じて。
ベットに倒れこむように、背後へとたおれて―――
軽い、浮遊感。
そして、後は、ただの闇。
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