19
目を覚ますと、そこは病室だった。
頭が混乱する。僕は白い布団を押しのけて起き上がる。閉ざされた淡いクリーム色のカーテンが周囲の視界をさえぎっていた。何かの影がそこに揺れる。カーテンを開く。窓が見える。
大きな窓の向こうに浮かんでいるのは、巨大な、明るい、隈ひとつない満月。
僕は誰だ? ここはどこだ? 暗いガラスに写ったのは、やせた、14・5歳ほどの少女の顔だった。ふわふわともつれた細い髪が肩で切りそろえられ、月光を浴びて金に近い色に光っている。月光を浴びて青白い肌。薄茶色のアーモンド・アイ。見覚えのある顔なのはたしかだ。けれどそれが僕だという自信がもてない。頬に触れてみる。冷たい指の感触。
わからない。けれど、なぜか予感に駆られてポケットを探ると、そこに一枚の絵葉書と、ゆがんだ形のちいさなレンズがあった。
振り返ると、ベットの傍らのテーブルに、ガラスのコップが置かれている。
他の患者たちが眠っている気配が聞こえてくる。深夜だ。もしかしたら看護婦が外を巡回しているかもしれない。けれど確かめる方法は他に無かった。僕のおぼろげであいまいな記憶のなかの何者かが、薄れ消えていこうとしながら、必死の警告を発している。
確かめろ。確かめないといけない。さもないと、また飲まれてしまう。
僕はガラスのコップを布団に包み、そして、力いっぱいこぶしで叩いた。何度か叩くと、ちいさな音と共に、ガラスのコップのつぶれる感触が伝わってきた。僕は布団を開き、一番鋭い破片を選んだ。破片はかるく弧を描いていて、まるで、カミソリのように鋭い。
鋭い破片が、月の光を受けて、尖った光の粒を宿す。
僕の腕は白く無機質で磁器のようだった。そこに破片を当てた。ためらいは一瞬だった。力を込めて破片を腕に押し付け、引いた。
バターでも切るように滑らかに、抵抗無く、腕が、切れた。
まず、薄桃色の肉の断面が見えた。
そこからつぶつぶのような血のつぶが盛り上がり、合わさりあい、血が盛り上がってくる。鮮血の色。それは一瞬の間に起こったことだ。血は大きな玉となると、ぬめる尾を残しながら腕をゆっくりと這い降りていく。
鋭い痛み。じんじんとする熱。これはリアル。たしかな痛み。粘度の高い液体が腕を滴り落ちて、赤黒い血が、ぼた、ぼたぼた、とシーツに落ちていった。
僕はじっとそれを見つめた。
では、これは、現実なのか?
ベッドの下を見ると、スニーカーがあった。スリッパではないのは幸いだった。これなら走ることも出来る。
ガラスで切った傷には布を巻きつけて止血をしておいた。ベットの傍らのテーブルの中から、薄桃色のニットのカーディガンを見つけ出して羽織った。手にしているものはセピア色にあせた絵葉書とレンズ。それだけ。武器なんて一つも無い。あったとしても意味がない。
なんの目的があったわけじゃない。危機感だけがあった。僕はベットから立ち上がる。冷たい空気にちいさく身震いをした。
記憶はひどくあいまいだった。大きな月。夜の海。潮の匂い。驚愕と月とを写しこんだ黒糖の瞳。これは誰の記憶だろう? 記憶だというからには僕のものなのだろうが、今、僕はこの病院にいる。病院にいる以上は南の海など見ることは不可能だということくらい理解は出来る。
どこへいけばいいのだろうか。けれど、少なくともここにいてはいけないということだけは理解できた。もしもこのベットに居続けていたなら、僕は現実を疑う心すら失ってしまうだろう。それは一度すでに体験した事態であるような気がした。すべておぼろげな記憶。何もたしかなものは無い。
僕の記憶は雲母の切片のように薄く重なり合っている。半透明の薄い層が重なり合い、それぞれの層に書き込まれた情報同志が接触することは無い。それを成し遂げる唯一の方法は、雲母を錐か何かで貫くこと――― すべての記憶の断層を貫くものを手に入れることだ。あるいはその層を剥がしていって、ばらばらに分解し、もっとも奥に隠されて見えないものを取り出さなければいけない。
僕はスニーカーをはき、カーディガンを羽織って、そっと病室を抜け出した。
空気が頬に触れる空気は涼しかった。消毒薬のにおいと共に、薄く引き延ばしたような人間の体臭がした。灯りは消されているが、足元では常夜灯が点って、クリーム色のリノリウムの床を照らしていた。窓から差し込む月の光もある。十分だ。
ふいに、ぺたぺたという足音に気づいてハッとする。壁に張り付くようして死角に隠れた。まもなく誰かが道の交差の向こうを歩いていった。看護婦だった。息を潜めていると、こちらに気づく様子もなく歩き去っていった。僕は胸をなでおろした。
なんでこんな風に病室を抜け出しているのか、自分でも良く分からなかった。腕を見る。長さが十センチもあるような傷の上には血が滲み出して、巻きつけた布が真っ赤に染まっていた。じんじんとした痛み。これはまぎれもない『現実』の証明なのだと僕は思った。けれども、なのにこんなに現実感が無いのか分からない。そもそもこうして真夜中に病室を抜け出しているということ自体がどうかしている。僕はいったい何を考えているのか。
消火器の影にしゃがみこんだまま、僕はポケットからレンズを取り出す。このレンズについてはしっかりと記憶が残っていた。これはマインド・ミラー。誰に明示されたわけでもなく知っている。これは、真実の記憶を映し出してくれるレンズだ。
そしてもう一つ僕の持っているもの。セピア色に変色した、古い絵葉書。
青白い月光の下では、その絵葉書は、さらに青白く色あせて見せた。まるで無彩色のようにすら見える。けれどそこに岬があり、誰か少年が座って、釣り糸を垂れているという様は分かった。碧い海と青い空の狭間で、麦藁帽子をかぶり、日焼けした少年が、ややうつむきかげんに釣り糸の先を見つめている。
彼は…… 僕の、『弟』か?
そんな思考が紛れ込む。それはまるで書き込まれた情報のような記憶。実感は無い。そう知っている。彼は僕の『弟』。少なくともこの世界では。
もしも次に彼が僕の前に現れたなら、彼は僕を『姉』と呼ぶはずだろうという確信があった。この世界では彼は僕の弟。そして僕は薄茶色の髪と瞳を持った色の白い少女。そしてここは病院。
おちつけ。おちつくんだ。
僕は柔らかい髪の間に指を差し入れ、頭を強く手で抑えて、ゆっくりと記憶の糸を解きほぐしていこうとする。頭がズキズキと痛んだ。僕は弟と一緒に孤児院に暮らしていた15歳の少女。孤児院が火事で焼け、そのときに煙を吸って、この病院に入院することになった。
そして同時に、僕は南の島に暮らしている11歳の少年で、元気のいい友人と一緒に、青い空と碧い海の狭間で暮らしている。―――これは、何の記憶だ?
それでは、本来の僕とは、いったい何者だ?
そのヒントは。
……僕はゆっくりと手のひらを開き、そこにあるレンズを見た。
表面は油膜を薄めたような虹色に覆われ、波や砂に磨耗し、真円よりもいくらかゆがんだ形をしたレンズ。マインド・ミラー。僕のスノウ・ドーム。この中にあるものは雲母の層を貫く一本の錐。いくつもの階層に存在する、何人もの僕に、統一された『真実』を見せてくれる。
僕はレンズを目に当てる。レンズを月に向ける。覗き込む。
そこには、雪が、降っている。
ちらちらと降り続く粉雪。藍色の空。触れれば凍てつきそうな空気を感じる。吐く息は凍り、指先は冷え切ってしまうことだろう。そんな冷たい空気の気配を感じる。
懐かしい。僕は初めて、そんな感情を抱く。
いくつ、ただの記録としての記憶を重ねても、この感情だけは得られない。この雪は僕には懐かしい。この雪の降る場所が僕の帰る場所、本当の意味で僕を待っていてくれる『誰か』のいる場所だ。
涙がにじみそうになったのを、慌てて、薄桃色のカーディガンの袖でこすった。レンズと絵葉書を大切にポケットにしまい、僕はそろそろと立ち上がる。
淡い記憶が、やがておぼろげに、心の中から浮かび上がってくる。それは狂気をはらんだ危険な記憶。開封するだけでウイルスに感染する危険なメールのような記憶だったのだけれども。
……地下……一万階。……無数の男たち。苦痛と虐待……絶望。
僕は窓を見た――― 暗い空に満月一つだけが明々と輝いている。
その窓に手をかける。冷え切ったサッシ。けれど鍵は硬く、開かない。窓を開けることは出来ない。
外に出たい。
そう思い、僕は、ふらふらと立ち上がり、歩き出した。
エスカレーターを下ると、下の階層に出た。そこには道が入り組んでいて、階段を下るとさらに階層を下った。階段はたったの一フロアで途切れ、そこから先にはいくつもの角をめぐる回廊が続いていた。傍らの壁に規則正しく並ぶドア。そこに印字された部屋のナンバー。何号室? 千何号室。この病院には千以上も病室が存在しているというのだろうか。
誰もが寝静まった深夜の病院で、ときおり、ナースステーションや受付の窓だけが、深夜のコンビニのようにぼんやりと光っていた。僕は足音を潜めて明々としたそんな場所たちを迂回した。誰にも見つけられたくない。そんな気持ちが先にたっていたから。
やがて、何階層降りたかも分からなくなったころ、僕は呆然と立ち尽くすこととなった。
なぜなら。
―――僕の目の前に現れたのが、僕の出てきたその病室だったから。
「なんで……?」
声が漏れる。
おかしい。だって僕は、ひたすら階段を降りてきたんだ。もう何階層も降りたか分からない。なのにここに戻ってくるなんてありえない。
僕の左腕から血が滴っていた。ガラスで切った傷跡から血が吹き出し、布を真っ赤に染めて、さらに、手から滴り落ちていく。僕はふらふらと窓に近づく。窓を開けようとした。とにかく外に出たい。僕は必死で鍵を開けようとする。けれど、鍵は溶接されたかのようにびくともしない。
血が、滴る。クリーム色のリノリウムの床に点々と落ちる。僕は思わずこぶしで窓を叩いた。けれど、手に伝わってきたのは、まるでコンクリートの分厚い壁を叩いたかのような感覚だった。
「なんで?」
窓には僕の顔が写っていた。蒼白になった、色の白い、ふわふわとした髪の少女の顔が。外は暗くガラスはまるで鏡のようだ。下を見下ろすとここは三階くらいの高さだろうと推測される。何故? 僕はもう、何階層も階段を下ってきたのに。
僕は最初遠慮勝ちに、やがて、力いっぱいに、窓のガラスを叩いた。割れるどころかびくともしない。まるで壁に書かれた絵を叩いているかのようだった。両手の指をかけ、爪を立ててむりやりサッシをこじ開けようとする。びくともしない。揺らぎすらしない。
どんどんどん。
大きな音が聞こえる。誰か来やしないだろうか、という警戒心すら失われていった。僕は力いっぱいにガラスを叩いた。その音に気づいたのか、ふと、病室の中が明るくなる。誰かが顔を出す。角のほうから看護婦が顔を出す。
どうしたの、と誰かが控えめに声をかけた。けれど、僕は答えなかった。振り返ると廊下に消火器が置かれていた。もはや僕はためらわなかった。消火器をつかみとり、壁から剥ぎ取ると、全身の力を込めて振り上げた。
力いっぱい、窓に、たたきつけた。
けれど。
ごつん、と鈍い音を立てて、消火器が地面に落ちた。
僕は呆然とした。
窓のガラスには傷一つついていない。たしかに消火器で殴りつけたのに。重さは数sはあったはずだ。強化ガラス? そんな莫迦な!
「……なんで!?」
僕は叫んだ。集まってきた人たちが慌てて僕を押さえつけようとする。看護婦さんが誰かを呼び、ナースコールが鳴り響いた。僕の手から血まみれになった布がむしりとられる。僕は地面に押さえつけられる。誰かが背中にのしかかり、腕を引きとめようとする。善意の人たち。僕を気遣う声。
「おちついて! どうしたんだい!? なにがあったんだい?」
「今看護婦さんを呼んだからね。しっかりしなさい」
「こら、あばれるんじゃない!!」
みんなが、僕を押さえつける。僕を止めようとする。僕は叫んだ。怒鳴った。
「なんで? なんで!?」
なんで誰も驚かない? なんで誰も疑問に思わない? 開かない窓を。消火器で殴りつけても、傷一つつかないガラスを。
ガラスは傷一つなく、明るく照らし出された廊下を写す。次々と灯りがついていく。窓ガラスが鏡のように廊下を映し出していく。長い廊下。長い長い廊下。どこまでも続く長い廊下を。
「なんでなの!!」
なぜ、なぜ、この窓は開かない。なぜ、なぜ、このガラスは砕けない。なぜ、なぜ、この病院の階段は下っても同じところに戻ってくる。なぜ、なぜ、なぜ……
誰も答えない。誰も疑問に思わない。誰もが善意に満ちている。善意の腕が僕を押さえつける。
僕は、肺の底から空気を搾り出して、全身の力を込め、絶叫した。
「こんなの、嘘だ!!」
……けれど、誰も、それに答えなかった。
笑顔。伸ばされる手。手。けれど、手は僕を傷つけようとしない。あくまで保護するように、抱きとめるように伸ばされる。僕は―――
目の前に伸ばされた手に、思いっきり、噛み付いた。
「ぎゃあ!」
悲鳴を上げてのけぞる。その拍子に、驚いたのか、押さえつける手が緩んだ。僕は全身の力を込めて手足を振り回した。手が緩んだ。僕は、立ち上がる。さらに追いすがろうとする手を振り払い、蹴り飛ばす。老人の手、男の手、女の手、若者の手。
僕は、走り出した。
目の前で灯りが次々と点いていく。廊下が明るく照らし出される。窓の外は真っ暗。それと対照的に廊下は白い。壁も、床も、白に近いクリーム色に塗られている。そこに僕の血が滴った。止血に巻いた布はすでにもぎ取られていた。見る間に息が上がる。目の前で扉が開き、患者が数人飛び出してきたので、僕は慌てて角を曲がった。そこは階段だった。僕はつんのめりながら階段を駆け下る。
階段は短かった。たったの数フロア。下った下は廊下。そこも、僕が現れた瞬間、ナースコールが響き渡る。灯りが点いていく。見る間に廊下が照らし出される。僕は驚愕した。
この廊下は、一体、どれだけの長さがあるんだ!?
廊下はどこまでもどこまでも続いていた。遠近法の消失点まで延々と。そして、網の目のように角が入り組んで、そこには窓、また窓、そしてドア、またドア……
だが、廊下を見上げると、誰かが走ってくる気配がする。躊躇している暇なんて無い。僕は廊下に飛び出した。そして、再び全力で走り出す。
ドアが開く。次々と開く。中から患者たちが現れる。次々と現れる。包帯を巻いた患者、ギプスをつけた患者、点滴を引きずった患者、やせ衰えた患者、老若男女さまざまな患者たちが現れる。そして、僕のほうへと走ってくる。あるものは足を引きずり、点滴を引きずり、あるものはおぼつかない足取りで。
病室の無いほうへ逃げないと駄目だ。僕はとっさに案内板を見て、病棟の方向から、診察室の方向へと方角を変えた。ナースステーションから次々と看護婦さんたちが飛び出してくる。伸ばされる手、手、手。もはや容赦はしていられなかった。僕は壁に設置されていた消火器を、ふたたび、もぎとった。
「うああああああ!!!」
絶叫しながら、おもいきり、消火器を振り回す。看護婦の一人の腹に消火器が当たった。中年の看護婦さんはふっとび、他の何人かを巻き添えにして倒れる。僕は振り回したままの勢いの消火器を他の看護婦に投げつけた。そして、そのあたりに立てかけられていたモップを掴み取ると、それを振り回しながら、絶叫し、患者たちの群れの中に突っ込んだ。
僕のやっていることは狂気じみたことなのだろうか? 看護婦さんたちにも、患者さんたちにも罪は無いはずだ。それをこんな風に傷つけてどうする。
でも、この世界は、狂っている!
消失点まで続く廊下。消火器で殴りつけても割れない窓ガラス。僕一人を追いかけるために次々と現れる患者たち。看護婦たち。
力いっぱいに振り回したモップが、誰かの顔を殴りつけた。突き出した柄でなぎ払った。さらに足に掴みかかる手を蹴飛ばした。僕はたしかに暴力を振るっている。モップの先端の金具に血がついている。消火器をぶつけられた看護婦さんが体を奇妙な角度に曲げて呻いている。僕は凶暴で混乱した患者に見えるはずだ。錯乱して暴力を振るい、あばれまわっている。そう見えるはずだ。なのに……
「大丈夫かい?」
「怖がらなくても良いんだよ。ほら、おいで、おちついて」
「その手を離しなさいよ。落ち着いて、落ち着いて」
なんで誰一人として怒り出さないんだ!?
人々の伸ばす手はあくまで善意に満ちている。誰も僕を傷つけようとしない。力ずくで押さえつけようとしない。僕の分はそこにあったということは分かった。そうじゃなければとっくの昔に僕は捉えられてしまっているだろう。
けれど……
「なんで本気にならないんだよっ!? 怒れよ! 怒れよっ!!」
誰一人として怒りを見せない。僕を保護しようとするだけ。それが違和感を持たさす。背筋を冷たいものが這い上がっていくような違和感。
伸ばされる、手、手、手。
僕を保護しようとする、手、手、手、手、手!!
「いやああああっ!!」
その手をモップでなぎ払い、僕は、再び走り出す。暗いほうへ。暗いほうへ。だが、僕の目の前で灯りが点いていく。次々と明るく照らし出され、窓のガラスが鏡のようになり、僕の姿が映し出される。髪を振り乱し、片手を血まみれにし、モップを掴み、死に物狂いで走っていく僕の姿を。
狂気としか思えない。狂ってる。僕は狂ってしまったのかもしれない。でも、狂っているのはどっちだ? この世界と僕と、どっちのほうが狂っているんだ?
階段が見えた。下に下る階段。僕はすぐに飛び込んだ。足がもつれて階段から落ちそうになる。転がり落ちるような勢いで駆け下る。そうすると、ロビーに出た。無数の椅子が並び、ステンドグラスが高いところにあるロビー。幾何学模様のステンドグラス越しに満月が見え、青白い光が降り注いでいたが、それも一瞬だった。あっという間に灯りが点いた。いくつもいくつも並んだ蛍光灯が、次々と点っていく。広い無人のロビーが明々と照らし出される。
並べられた待合室のソファの間で、僕は一瞬立ちすくんだ。
ナースステーションから、看護婦さんたちが走ってくる。目の前には自動ドアがある。外が見える。どこに逃げるべきか判断に迷った。自動ドアをモップでぶち破って逃げ出すか? でも、窓のガラスは消火器で殴っても割れなかった。それがモップ一つで開けられるなんてことがあるだろうか。 ―――それに、そもそもあのガラスのドアが、『本当にドアである』という保障があるのか?
この世界はこの病院の中だけで完結していて、外の景色はただの絵――― そんな可能性がちらりと頭の中をよぎり、僕は、目の前が真っ暗になるのを感じた。だとしたら逃げ場なんて無い。異様に広大な迷宮のような病院の中を、永遠に逃げ続けることなんて出来るはずが無い。
けれど、僕の記憶のどこかを、何かが、よぎった。
この病院には、**が、ある。
僕はとっさに身を翻すと、ソファの間を走り出した。
看護婦さんたちが口々に僕を呼びながら追いかけてくる。僕は廊下の角を曲がり、左右をめまぐるしく見回した。そして見つけた。壁と同じクリーム色に塗られ、目立たない、金属製のドア。業務用のスタッフルームか、あるいは、機関室にでも続くように見えるドア。
僕はそのドアに飛びついた。開いてくれ。祈るように思う。引っ張って抵抗を感じ、絶望しかけたのは一瞬だった。
ドアは、きしみながら、開いた。
足音が聞こえてくる。看護婦さんたちが、患者たちが、廊下の左右から殺到してくる。迷う暇は無かった。僕はドアの中に飛び込み、ドアを閉めた。
鍵がついていた。内側から鍵をかける。まだ足りない。持っていたモップをノブにくくりつけて閂にした。さらに辺りを見回して、そこに放置されていた鉄の棒を見つける。何重にも閂をかけると、僕はやっと安堵した。これでもう安全だ。その瞬間膝から力が抜けて、僕はへたへたとその場に座り込んだ。
どんどんとドアが叩かれている。誰もが口々に僕に呼びかける。何をしているんだ。出てきなさい。大丈夫よ。何があったの。怪我をしているの? 大丈夫? 大丈夫? 大丈夫? ……
僕は耳をふさいだ。やさしげな声たち。僕を気遣う声たち。誰も僕を傷つけようとしない。ただ心配しているだけだ。つかまっても病室に連れ戻されるだけだろう。患者をモップで殴りつけ、消火器を看護婦さんにたたきつけた僕でも。異様だった。なんで誰も怒りださない。僕を責めない。その異常さに、気が狂いそうだった。
「やめて、やめて、やめて……」
自分の声で、聞こえてくる声を掻き消そうとする。自分の背中でドアを押さえつけ、なんとか誰も入ってこないようにする。無数の手がドアを叩いていた。その音が響いていた。無数の声。無数の音。
それが、ふいに、途切れた。
そろそろと顔を上げた。何が起こったんだろう? 信じられない思いで背後を振り返る。
そのとき、ドア越しでくぐもった声が、ちいさく、聞こえてきた。
「ねーねー、ねーねー!」
僕は、はっとした。
聞き覚えのある声だった。日焼けした肌に潮焼けした髪、そして、黒糖のような瞳の笑顔が、瞬間闇に浮かんで、消えた。思い出せた。僕の、『弟』だ。
どんどんとドアが叩かれた。必死の声が聞こえた。姉を気遣う、弟の声だ。
「どうしたんだよ、ねーねー! 出てこいよ! なんでそんなところに隠れてんだよ!?」
「あ……」
僕は思わず返事をしかけた。
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