20


「ねーねー? ねーねー! 大丈夫か!?」
 必死で呼びかけてくる様子が感じられる。僕は大きく息を吸い込み、また、吐いた。
「……大丈夫」
「バカ野郎、怪我してるんだろ!? 大丈夫じゃねーだろっ!」
「大丈夫だよ」
 その言葉は、たしかに僕を気遣うものだ。暖かかった。涙が出そうになった。けれど。
 けれど、すぐに、気づいた。
 なぜ、『今』、弟がここにいるんだ?
 今は深夜。一緒に入院しているわけでもない彼がなんでここにいるんだろう? 彼はたしか、病院以外のどこかに宿泊していたはずだ。
 姉が錯乱して暴れていると聞かされ、慌てて駆けつけたという可能性もありえた。でも、それにしてもタイミングが早すぎた。それに、彼はまだたしか11歳のはず。姉が暴れていると聞かされたからといって、こんな深夜に呼び出されるものだろうか? そして、ひとりでこんなところまでやってくるものだろうか? 錯乱して誰に襲い掛かるかも分からない姉のために?
「大丈夫。だから教えて。……君、なんでここにいるの?」
 はっ、と息を呑む気配が感じられた。
 そうだ。おかしいのだ。彼が今、ここにいる理由が分からない。ここに彼がいるはずが無い。僕はその確信を深くする。
「今、何時? 深夜だよね? 君、もう寝てる時間じゃないの。病院じゃないところにいるって言ってたじゃない」
「それは…… ねーねーが暴れてるって聞いて……」
「それにしても早すぎるよ。それに、錯乱した僕に近づいたら危ないって言われなかったの?」
「そ、そんなこと、どうでもいいじゃねぇか!!」
 どんどんどん。ふたたびドアが叩かれる。
「そんなとこにいたってしかたねぇだろ、ねーねー! 出てこいよ! 傷の手当てしないと!!」
「……」
 僕は自分の腕を見下ろした。傷口が開いて、血まみれになっていた。自らガラスのかけらで切り裂いた傷だ。じんじんと痛んだ。その傷みは本物だ。
 けれど。
 僕は再び深呼吸をする。そして、初めて周囲を見回した。
 ……暗い。
 頭上だと切れかけた蛍光灯がひとつだけ光っていて、かすかに音を立てながら、明滅していた。小さな虫が何匹か、灯りの周りを飛び回っていた。
 地下から冷たい空気が吹き上がってくる。そして僕ははじめて気づく。そこは階段の踊り場だった。地下深くへと向かって、コンクリートがむき出しになった階段が続いていた。
 ぞくり、と脊髄の中を虫が這うような悪寒を感じる。
 僕は、この光景を、知って、いる。
「ねーねー! そこは危ねぇんだよ!!」
 弟は必死に僕に呼びかけてくる。ふらり、と僕は立ち上がった。
 冷たい風が、やわらかくもつれた髪を吹き散らし、僕の額を冷たい指で撫でた。地下からの空気には何か得体の知れない臭いが混じっていた。薄く引き延ばされているが、化学薬品の刺激臭と、それと――― どちらにしろ不吉な臭いであることは間違いない。
 再び、体がぞくりと震えた。僕は自分の体を抱きしめる。寒かったからじゃない。怖かったからじゃない。
 狂気、を、感じたからだ。
 この地下には、何か、『狂気』がある。
 『狂気』をもたらすものが、そこに、ある。

 嗜虐と加虐、そして、復讐と狂気の甘い匂い。

 けれど、僕が思い出したのは――― 違った。
 一人の少年の姿だった。
 白い肌。薄い茶色の髪。そして、同じく薄い茶色をした、アーモンド・アイズ。
 僕に似た姿。そして、『もう一つの世界』での、僕の姿。
 あの少年、を、探す。
 そんな考えが、水底から泡が浮かぶように心に浮かび上がり、僕ははっとした。
 彼の姿を思い出そうとする。けれど、記憶には激しいノイズが混じり、明確な像を結ばない。包帯。蟻。画鋲。ポリタンク…… ポリタンク。その中身は何?
 僕は激しい頭痛を感じ、頭を抑え、呻いた。
 僕は頭を片手で抑え、頭痛に呻きながら、ゆっくりと記憶の糸を解きほぐしていく。平衡感覚がゆらぎ、あやうく転倒しそうになるのを、壁に手をついてなんとかこらえた。頭がひどい混乱に見舞われる。たぶんそれは毒だ。触れてはいけない。けれど、酸の満たされた水槽の底には真実を開くための鍵が沈んでいて、素手でソレをつかみ出さなければ、先に進むことが出来ない。
 僕はゆっくりと思い出す。白い服を着た、僕によく似た(そして『島の夢』の僕と同じ姿をした)少年のことを。少年は地下へと続く階段を知っていた。その階段は地下一万階まで続いている。白く清潔な、そして迷宮のような病院は、地下一万層の虐待と拷問のための階層の上に築かれた、いわば、ケーキの上にかけられた糖衣のような存在だ。
 地下は危険だ。僕にはそれが痛いほどよく分かっていた。
 地下に満たされた毒は、確実に僕を侵す。地下に降りれば僕は『壊れる』。そんな記憶がおぼろげに残っていた。リセット、と絶叫する誰かの声。
 でも、僕が進むべき道は、もう、そこにしか残されていない。
 僕はしばらく立ち尽くしたまま、暗い階段を見下ろしていた。そのとき、ふと気づく。ポケットがほんのりと光っている。
 取り出してみると、あのレンズが、光っていた。
 すりきれた片隅に、ほんのりと光がともっている。僕はおもわずレンズを持ち上げた。向きを変えると、光の宿る場所も変わった。光は常に一つの方向にのみ点っていた。まるで、そちらに僕を誘導するかのようだった。
 光は、階段のほうを指し示していた。
 こんなことは今までにない。僕はまじまじとレンズを見る。
 このレンズは一体何に反応しているんだろう?
 頭の片隅になにかがふわりと浮き上がり、そして、消えた。それがなんだったのかは分からなかった。でも選択肢は他にない。僕はごくりと唾液を飲み下す。
 背後だと、まだどんどんとドアが叩かれ、弟が怒鳴っていた。このままだと早晩ドアは突破されてしまう。つかまって病室に連れ戻されるわけには行かない。どちらにしろ選択肢はない。
 僕は、ゆっくりと歩き出し、階段を下り始めた。
 階段はむき出しのコンクリートだった。壁もそうだ。数フロアも下りるとドアの向こうの音も聞こえなくなった。頭上には等間隔で蛍光灯が点っていたけれど、ほとんどは半分切れかけて、ちいさな音を立てながら点滅していた。それくらい静かだった。
 ―――いや。
 何かの、うめき声のようなものが、聞こえる。
 うめき声は幾重にも重なり合い、まるで分厚い綿でくるみこむように、僕を包囲している。どこから聞こえてくるのかも分からない。それくらい分厚く重なり合った声だ。遠くから、近くから、上から、下から、右から、左から、うめき声は聞こえてくる。苦痛と絶望にうめく声。
 ぞくり、と脊髄の中を虫が這うような悪寒を感じる。既視感。僕はこの声を知っている。
 不吉なうめき声に、通常だったら、恐怖か不安か、そんなものを感じるべきだったのだろう。けれど、僕が感じたものは――― 悦楽、に近いものだった。
 その『悦楽』は異常だ。僕は慌てて頭の中からそれを追い出そうとする。
 誰かが苦痛と絶望にあげるうめき声を聞いて、なぜ、『悦楽』を感じないといけない? おかしい。けれど、それはうるさくまとわりつく蚊のように、僕の思考の中をチリチリと横切って離れない。笑い出したくなるような衝動。僕は片手で自分の肩を抱きしめた。震えていた。
 自分の中に狂気を感じるという体験。どう考えても理不尽な感情の想起。そして、それには確かに覚えがあった。僕は一度、この理不尽すぎる感情の想起を体験したことがある。
 もはや、レンズの放つ薄ぼんやりとした光だけが、僕を導いてくれる蜘蛛の糸だった。途切れそうな、消えそうな薄い光。けれどそのほのかな明るさは何かを連想させた。そう、真冬の雲間から差し込む弱い陽光のような、そんな、はかないぬくもりを感じさせてくれた。
 この光はきっと僕をどこかに導いてくれる。どこに? ……そんなこと、知らない。僕はただレンズに従うだけだ。
 考えてみれば、ずっとそうだったんじゃないだろうか。僕はふとそんなことを思う。
 このレンズと出会ってから、ずっと。
 僕はこのレンズを海辺で拾ってから、ずっと、このレンズの見せる像に導かれて歩いてきた。それだけが真実の記憶だった。何もかも嘘のこの世界で、それだけが本当だ。そして僕は必死で嘘からの逃走を続けている。このレンズの見せてくれる光景だけを頼りに。
 そう考えて、すぐに、おかしいということに気づく。海辺で拾った? それはどこの海辺? 僕は海辺なんて行ったことはない。でもこのレンズは海辺で拾ったのだ。そして誰かが僕にこのレンズは真実の記憶だけを見せるのだと教えてくれた。そして僕はレンズの中にいくつもの光景を見た。
 降りしきる、粉雪。
 吐き出す息も凍りそうな、指先が凍えてしまいそうな、そんな冷たい光景。
 そして、少女。
 肩までの髪。やわらかくてふわふわともつれた髪。蒼白な肌。大きなアーモンドアイに浮かんだ哀しそうな表情。
 彼女は誰なんだろう? 愚問だ。彼女は僕だ。―――少なくとも、今の僕は、客観的に見て彼女とまったく同じ姿をしている。でも、僕はあんなにやつれ果てた姿はしていない。目の下に薄青く隈を浮かせ、絶望した目に悲しみと無気力をたたえた、あんな、哀しい姿はしていない。
 それに、僕の中には誰かに殴られた記憶なんてなかった。虐待された記憶は無かった。髪を乱暴につかまれ引きむしられたこともないし、ガムテープで手足を拘束されたことも、服に隠れて見えないところを殴られたこともない。タバコの火を舌に押し付けられたこともなければ、性器の中に異物をねじこまれたこともない。
 ……あれ?
 なんで僕はこんなことを考えているんだろう?
 僕はおもわず足を止める。くらり、平衡感覚がゆらいだ。僕は壁に手をついた。手からレンズがこぼれそうになる。
 髪を引きむしる? ガムテープで拘束? 殴打? タバコの火? 異物?
 一体僕は何を考えているんだろう? 僕はそんな目にあったことなんてない。そんな記憶なんてない。
 なのに。
「……あ」
 かたかたと、小刻みに体が震えだす。
「……あ、ああ」
 そう、思い出す。おぼろげな記憶。それは、凄惨な虐待の記憶。
 大きな執務椅子に、ガムテープで手足を縛りつけられた。目隠しをされ、決して声をあげないようにと楽しそうに言われる。声を上げればお前の****に*****を****と。そして男は僕の****に***を差し込んで、その中に****を*******……
「う、ぐ」
 僕は思わず口元を押さえる。胃酸で口の中がすっぱくなる。胃の中身がせりあがってくるような感触。僕は壁に手を当て、よろめいた。げえげえと無様な音を立て、指を口の中に差し込んで、胃の中身を吐こうとした。けれど胃の中はからっぽで、ただ、口からよだれが無様に流れ落ちるだけだった。
 糸を引いて口元から垂れるよだれを見ながら、発狂寸前、という言葉が頭の中をよぎった。僕はこのまま狂うのだろうか。嫌だ嫌だ嫌だ。そんなことになったらまた**の****に**されてしまう。そんなことになったら元の木阿弥だ。いつまでも迷宮の中をさまよい続けることになるなんてごめんだった。
 気がつくと、足元にレンズが転がっていた。そしてほのかに光っていた。その中に雪が降っている。藍色の空を背景にして、降り続く雪が。
 この光景だけが、真実。
 僕は、この光景の中に、帰りたい。……帰りたい。
 そして、『彼女』に、会いたい。
 く、と喉の奥から声が漏れた。涙で視界がうるんだ。僕は拳で乱暴に涙を拭った。泣いてる場合じゃない。吐いてる場合じゃない。いつドアが突破されて、誰かが追ってこないとも分からない。
 それだけを考えて、頭の中から不快感や快感、様々なノイズを押しのけようとする。レンズを拾って立ち上がり、一段、また一段と僕はよろめきながら階段を下った。
 下りながら僕は考えを必死で整理しようとする。まず一つ。この現実は何かがおかしい。『現実』だとは思えない。だって、消火器をぶつけても傷一つつかないガラスも、消失点まで続く長い廊下も、地下一万フロアもの地下室も、どれも現実には存在し得ないものばかりだからだ。すくなくともこれは何らかの形でゆがめられた『現実』だ。そして、僕はたしかに、もう一つそういう『現実』を知っている。
 その『現実』では、なにもかもが美しく、平和で、おだやかだった。でも何かがおかしかった。細かくは思い出せないけれど、現実としての整合性を欠いていた。そして何よりも、僕の体のなかには血が一滴も流れていなかったし、臓器が一つも存在していなかった。
 二つの『現実』……
 『現実』というよりも、『階層』といったほうが正しいのではないだろうか。こうして僕が今下って行っているフロアのように、二つの『階層』は重なり合って存在している。『島の階層』では僕は今の僕とは違う姿をしていて、この『病院の階層』では僕は今の姿、レンズに映し出されるあの少女と同じ姿をしている。
 矛盾が多くて粗雑なのは、たぶん、『病院の階層』のほうだ。『島の階層』はどこもかしこも丁寧に作られていて、そして、出来すぎていた。あれは『僕』のために存在している世界だった。誰かが僕のために入念に描きこんでおいた絵のような世界だった。
 では、この『病院の階層』は何のために存在しているのか?
 たぶん――― このうめき声と関係がある。この地下のフロアこそがこの『病院の階層』の本質で、上に存在する病院のフロアはケーキにかけられた糖衣にすぎない。ここの地下のフロアで行われている****こそがこの階層の本質で、だからこそ、僕はこの階層から追放されて、『島の階層』に隔離されなければならなかったのだ。
 では、『島の階層』と『病院の階層』、それぞれ目的の異なる二つの階層は、なんのために作られたのだろう?
 そして、もっと重要な問題として…… 誰が作ったのだろう?
 神様? そんなバカな。こんな矛盾だらけのリスの檻が現実であるはずがない。この世界は誰かが作ったものだ。それも、きわめて強い私情を含ませたせいで、穴だらけ、矛盾だらけの世界として出来上がったものだ。
 矛盾だらけのリスの檻。リスは回し車を回し続けるけれど、どんなに走っても、永遠にどこにもいくことができない。それと同じだ。僕はきっと、いままでずっと、自分でも気づかないままに、ずっと回し車を回し続けていたのだろう。どれだけの長さの間? ……たぶん、とても長い間。でも、もしかしたらとても短い間かもしれない。人間は夢で一晩に千年を生きることも出来るのだから。
 でも、回し車には異物が挟まり、僕はようやくこれが現実ではないということに気づいた。その『異物』こそがマインド・ミラー…… このレンズだった。
 このレンズだけは奪われてはいけない。
 手の中でほんのりと光るレンズを見つめながら、僕は思う。
 このレンズだけが蜘蛛の糸。掴んで離してはいけない。さもなければ僕は永遠にどこかの階層をさまよい続けることになる。永遠に、あの雪降る光景の中に帰ることはできなくなるのだ。
 やがて、どれだけフロアを下ったかも分からなくなったころ、レンズの光が、わずかに強くなった。
 僕は気づかず通り過ぎるところだった。通り過ぎかけて、気づいた。一つのドアの前で、光がわずかに強くなったのだ。
 光は露に集まる曙光のようにきらめいた。そして、さびの浮いたドアの一つを指し示していた。平凡なドア、もういくつ通り過ぎてきたかも分からない金属製のドアの中の一つだった。
 ここか。
 ごくり、と唾液を飲み下し、僕はドアにそっと触れた。冷たかった。
 きしみながらドアは開いた。
 ―――綿のように分厚く僕をくるんでいたうめき声が、大きくなった。
 そこは、古ぼけた病院のフロアーだった。薄汚れた床と壁。切れかけて点滅する蛍光灯。そして、左右にはドアが並び、その果ては見えない。いくつかの交差があるところをみると、網目状にフロアが広がり、無数の部屋が並んでいるのか。
 部屋の中で何が行われているのか、僕は知っていた。故意に思い出さないようにしようと、必死でレンズに意識を集中させた。思い出したら僕は『狂う』。それだけは確かな確信だった。
 ひとつ、部屋の前を通り過ぎるたびに、中で何が行われているのかを想像しそうになる。そして、想像できてしまう。必死で何か別のことを考えてこらえようとする僕の意識の中で、どこかがかすかにそれをいぶかしんだ。なんでお前はそんなことを知っている? この部屋、一万の一万倍も存在する部屋の中で行われていることについて、なぜ、お前が知ってるんだ……?
 考えを恐ろしい想像からそらす方法は一つだけ、他の何かに無我夢中で集中することだけだった。だから、いつしか僕は歌いだしていた。頭の中でひとつの歌を。口に出してもつぶやいていた。耳の奥へと染み入ってくるうめき声を、ほんのわずかでもかき消そうとするために。
「めえ、めえ、森の子山羊、森の子山羊……」
 子山羊走れば、小石にあたる、あたりゃあんよがああ痛い、そこで子山羊は、めえ、となく……
 歌いだして僕は後悔した。この歌の続きは知っている。なんだってこの歌なんだ? 他にもっと童謡なんていくらでもあるじゃないか。
 でも、そのとき僕は、思わず、つんのめるように立ち止まる。
 遠く、かすかに、聞こえてきたのだ。
 歌声が。

 めえ、めえ、森の子山羊、森の子山羊……
 
 僕は一瞬呆然とした。本当に一瞬だった。その次の瞬間、僕は走り出していた。もうレンズを見なくても分かった。あの子がいる。近くにいる。
 あの少年が。
 僕は角を曲がり、壁にぶつかりそうになりながら走った。そして、開きかけていたドアの一つを開いた。壁にぶつかったドアが、けたたましい音を立てた。
「―――!!」
 僕は叫んでいた。知っているはずもない少年の名前を。そして少年はそこにいた。呆然と眼を見開いて、僕のほうを見ていた。
 それは確かに知っている姿――― 『島の階層』での僕の姿だった。
 かぼそい。そして白い。ひ弱そうな、そして儚げな、少年の姿。
 淡い色の細い髪。そこの上に幾重にも分厚く巻かれた白い包帯。折れそうに細い首。細い手首。そして、そこだけ大きく見開かれた、淡い色のアーモンド・アイズ。
 少年は、ベットの傍らに座っていた。そして、ベットの周りには、無数のスプーンが散乱していた。
 ベットには、一人の男が座らされ、目の前に病床用のテーブルを置かれていた。どことなく見覚えのある、聖職者風とでもいうのか、知的で穏やかそうな面差しの男だった。
 男の首は、足は、ベルトで硬く拘束されていた。開放されていたのは手だけだった。そして、なぜ手だけが開放されているのかは一目で分かった。
 スプーンを握るためだ。
 握ったスプーンで…… 自分自身の脳をすくうためだ。男の頭は頭蓋が切り取られ、あらわになった脳が、食べかけのプリンのようないびつな形を見せていた。
 そして今、男の手に乗った先割れスプーンの上には、丸いものが乗っていた。弾力があり、白く、プリントされたように黒く丸い虹彩があった。その反対側からは赤黒い神経束が垂れ下がっていた。そして、血を滴らせながら、それは今、まさに、男の口へと運ばれようとしているところだった。
 ―――男の、左の眼窩は、空だった。
 僕には分かった。その様を、少年はずっと傍らで見ていた。
 自らの脳をプリンのようにすくって食べ、さらには眼球を抉り出して食べようとする様を、『森の子山羊』を口ずさみながら、楽しそうに眺めていたのだ。
 立ち尽くす僕を見て、少年は、呆然とつぶやいた。
「おねえ、ちゃん」
 僕は、がくんと膝をついた。
 ……あの歌はこう続くのだ。

 藪っこあたれば 腹こがちくり
 朽木あたれば 首こが折れる
 折れりゃ子山羊は めえ となく

 僕は覚えていた。僕はこれを必死で頭の中で歌ったことがある。目の前の現実から眼をそらすために、歌ったことがある。
 そして、貧血の時に目の前が真っ白になるように、僕の脳裏が『悦楽』に塗りつぶされていく。
 面白い。
 楽しい。
 心地いい。
 『あの男』が、こんなにも苦しみ、苛まれ、絶望しているということが、こんなにも、『悦ばしい』。
 僕は必死で抵抗しようとした。両手で頭を掴み、がくん、と前にのめる。手からレンズが零れ落ちた。眼からは涙が、顎からはよだれが滴った。
「あ…… あはは…… はは……」
 駄目だ。
 抵抗しきれない。
 これは僕の『存在』そのものに刻みこまれた『悦び』だ。
 少年が駆け寄ってくる。僕を抱きしめるようにして、僕の眼を隠した。叫んだ。泣き出しそうな声で叫んだ。
「だめだよ! 見ちゃ駄目だ!! おねえちゃん!!」
 だが、少年はあまりに無力だった。彼はこの『病院の階層』から僕を切り離す力を持たない。僕が狂いだしてしまったら、何も出来ない。ただ無力に泣き叫ぶだけだ。そう無力。この地下一万フロアで、虐待の限りを尽くすこの少年は、こと、そのことに関しては、あまりに無力な存在なのだと、僕は狂いゆく頭の片隅で理解した。
 だから、彼、が現れる。
 僕の、弟、が。
「―――ねーねーッ!!」
 どん、と音を立てて、少年が吹っ飛んだ。突き飛ばされ、スプーンの散乱する床に倒れる。がしゃん、と音がしてスプーンが飛び散った。僕はがくがくと震えながら見上げた。まだ小さいが力強い手が僕の肩を抱いた。抱きしめた。
 潮の匂い。太陽の匂い。
 黒糖の眼を持った、彼。……僕の『弟』
「ああ、ちくしょう、なんでねーねーがこんなところに…… なんで気づかなかったんだよッ!! クズ!!」
 ののしられた少年は、のろのろと起き上がろうとしていた。その眼からはぼろぼろと涙がこぼれていた。僕のことを見つめている。哀れなほどにか細い姿だった。絶望に満ちた無力な目。僕によく似た淡い色の。
「大丈夫だからな、大丈夫だから、ねーねー。全部元に戻るから。おれが戻してやるから。怖いことなんてなんにもなくなるから……」
 少年をののしった口調とはうってかわって、僕を慰める彼の口調は、手は、ひどくやさしかった。僕のことを小さな体で必死に抱きしめ、なぐさめようとし、髪を撫でてくれる。それでも僕の震えはおさまらない。悦ばしい。悦ばしい。悦ばしい。大声で笑い出したい。さもなければ、狂ってしまう。いや、もう、狂っている?
 けれど悦びに狂いゆく頭の片隅で最後の思考が叫ぶ。僕はこうして、このまま弟である『彼』に抱かれて、また再び『島の階層』に戻るのか。そして、『島の階層』では親友である『彼』と共に、平和に、穏やかに、うつくしい日々を送るのか。それと気づかぬ偽りを、回り続けるリスの回し車を、延々と回し続けるのか。
 そんなことは。

 ―――駄目だ!!

 びくびくと引きつる僕の指が、地面を探る。探り当てる。レンズを。マインド・ミラーを。
 僕に唯一『現実』を返してくれる鍵を。
 『彼』がハッとした。叫んだ。
「駄目だ、ねーねーにそれをとらせちゃ駄目だっ!!」
 その瞬間、呆然と床に座りこんで涙をこぼしていた少年が、弾かれたように顔を上げた。だが、遅い。すでに僕の手は、レンズを掴んでいた。
 『彼』は、僕を押さえつけるだけで精一杯だった。僕がレンズを掴むことを阻止できない。それは少年にしかできなかった。
 少年は、まろぶように立ち上がり、僕へと駆け寄ってくる。レンズを奪い取ろうと手を伸ばす様が、まるでスローモーションのようにコマ送りに見えた。か細い手。あわれなほどにか弱い手。
 だが、遅い。
 僕はレンズを持ち上げ、
 大きく口を開き、
 
 レンズを、飲んだ。

「……おねえちゃん!!!」
 少年の絶叫が響く。同時にレンズが喉の奥を滑らかにすべりおりて。
 喉の奥で、レンズが、水のようにするりと溶けて。
 その瞬間、プチリと映画のフィルムが切れたように、すべてが闇になった。




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