3


 翌日、僕は、友人にその硝子を見せることにした。
 学校の裏に呼び出して、こっそりとポケットから硝子を出した僕は、この硝子はスノウ・ドームなんだよと説明をした。彼は目を丸くした。でも、僕を疑いはしなくて、素直に硝子を空にかざした。
 でも。
「……あれ?」
 その日も空は磨いた土耳古玉のような青だった。見上げるとまぶしくて目を細めてしまう。そんなまぶしさにやっぱり目を細めた彼は、怪訝そうに、「雪なんて見えないぞ?」と言った。
「え?」
「ええと、花が見える。ブーゲンビリアの花。それにプルメリア。……あ」
 彼はぽかんと口を開けた。
「母ちゃんだ」
「えええ?」
 彼は怪訝そうに硝子を目から離した。そして、複雑極まりない表情で、「硝子の向こうから母ちゃんが覗いてる……」と言った。
 僕は、なにがなんだか分からなくなる。
「雪が見えない? ずっと降り続けてる雪」
「ううん。島の景色しか見えないぞ。それと、おれの母ちゃん……」
 僕と彼は顔を見合わせて、それぞれ、怪訝な顔を見合わせた。
 彼のお母さんに島の光景、ということは、やっぱりそれは彼の記憶なんだろう。僕は念のために聞いてみる。
「ねえ、君はこの島の生まれだよね?」
「生まれたときからずっとだぜ。よそにいったことなんてほとんどねえよ」
 では、マインド・ミラーの特性が映し出すのは彼の記憶なのだ。僕は怪訝に思いながら彼の手からレンズをとり、もう一度光にかざしてみた。
 視界のなかにちらちらと降る、白い雪。
「おまえ、ちっちゃなころにどっか寒いところとかに住んでたんじゃねぇの?」
 彼は怪訝そうに言った。
「えー知らないよ。母さんは島の生まれだし……」
「でも旅行とかいろいろあるだろ。誰かの葬式で北にいったとかさー、温泉にいったとかさー、考えられるじゃん、いろいろ」
 そういう彼は、なんだかひどくうらやましそうに「あーあ」とため息をついた。
「なんだよ?」
「ユキかあ。おれ、ユキなんて見たことも無い。おれのとうちゃん漁師だからなあ。旅行になんていかれないんだよ」
 たしかに、彼の家は漁師だ。というよりも、観光産業なんかほとんどないこんな離島だと、漁師をやるか農業をやるか以外の仕事についてる大人はほとんどいない。僕の父さんみたいに研究所に勤めているほうが例外なのだ。物価が安いからお金はなくても問題なく暮らしていくことは出来るが、たしかに、雪が降るくらい北のほうに旅行に行くチャンスなんてものはほとんどないだろう。
「おまえんち金持ちだもんな」
「金持ちじゃないよ」
「でも、旅行とかは出来そうじゃん? おまえのとうちゃん島の生まれじゃないし、たぶん、記憶にねえころくらい昔に旅行に行ったんだよ」
 うらやましそうに彼は言う。でも、僕はかるく眉を寄せた。問いかけた。
「自分で記憶して無い記憶って、こういうものに写るもんなの?」
 記憶の構造なんてものは僕は知らない――― でも、自分で忘れてしまっていることがこういうものに写る、というのは、いかにもおかしなことに思えた。
 重ね撮りしてしまったビデオで、古い映像が再生されることなんてありうるだろうか? ありえない。忘れてしまった、消えてしまった記憶なんて再生されるわけが無い。僕はそう思う。そう言うと彼も首をかしげた。
「まあ、たしかに変つったら変だ…… なあ、おぼえてないのか?」
「なにが?」
「ユキ」
 僕はぶんぶんと首を横に振った。
「まあ、テレビで見たとかそういうのじゃねーの? 映画とかで見るじゃんか。だったら問題ねえよ。そういうキオクなんだよ、きっと」
 からん、からん、とベルが聞こえた。
 先生が手持ちの鐘を振って休み時間の終わりを知らせている。「やべ」と彼はあわてた声を漏らす。
「おれ、次の授業の教科書とってきてない。ごめん、もう行くわ」
 彼は、ごめん、とぱんと手を合わせると、あわてた足取りで走っていってしまう。ランニング姿のその背中を、なんだか釈然としない気持ちで見送った。
 せっかく見せようと思ったのに。この、しんと静まり返り、冷たく冷え切った雪の光景を。
 僕はなんだか恨めしい気持ちで天にレンズをかざす。雪が降り続ける光景の向こうに、島の青すぎる空が二重写しになる。


 

 その日から、そのレンズの定位置は、僕のポケットの中になった。
 覗くと雪の景色が見える。いつも、いつもだ。そして、握り締めるとひんやりと冷たい…… ような気がする。むろん気のせいだけれど。
 ときおり、レンズのなかに違うものが見える。雪景色のなかに薄黒くかすんだ木々の陰。それも、この島だと見るはずも無い針葉樹らしきとがったシルエット。
 それに、どこかの部屋。白い壁。白いベット。でも、窓の向こうには雪が降っている。変わらず雪が降り続けている。
 僕のスノウ・ドーム。いつだって雪が降っている。なつかしい景色。
 なつかしい、はずなんて無いのに。

 そして、ある日のことだった。

 僕はいつものように庭の大きなガジュマルに登っていた。父さんは仕事に出かけている。母さんは買い物に行っている。梢が陽をさえぎってくれるから、地面には濃い影が落ちている。
 僕は木の枝に半ば寝そべるようにして、手の中のレンズをもてあそんでいた。
 昼間、日光が強すぎて外に出られないときは、こうしてレンズを覗き込むことが僕の日課になりつつあった。本を読んでいるときも、宿題をしているときも、ポケットの中にはいつでもレンズがある。ときおり取り出して、そうでもなければ指先で握り締めて確かめる。たしかめるとほっとする。暑い日に、冷たい硝子を頬に押し当てたみたいに。
 その日、傍らに転がしていた本は、天文学について子供向けに書かれた入門の本だった。スプートニク。世界で始めて宇宙を飛んだクドリャフカ。空のかなたに去っていって、二度と帰ってくることの無い惑星探査機たち。
 僕は大きくなったら何になりたいんだろう、と僕はぼんやりと考えていた。
 この島には大学は無いから、大学に進学したかったら島を出ることになる。たぶん父さんも母さんもそれを望んでいる。でも、友達はいっしょには来てくれないだろう。彼はたぶん近くの島の水産高校に通って、そのまま漁師になる。
 僕は体力は無いし、日差しに弱いから漁師は無理だ。いつかこの島を出なければいけない。でも、島を出てどこにいく? 都会? 想像もつかない。
 僕に思い浮かべられたのは、レンズのなかに降る雪だった。
 寒いところ、どこか、しずかに雪の降るところ。雪が音をすべて吸い取って、沈黙と薄闇が降りてくるところ。
 行ったことも無い場所だった。でも、僕はそこにいる自分を思い浮かべることが出来た。その想像はわずかな後ろめたさを含んでいた。まるで、この島を僕が嫌っているみたいな想像じゃないか、と僕は思う。
 そんなことはない。この島は大事なところだ。僕のふるさとだ。でも、強すぎる日差し、生命力に満ちた島の自然には、僕は適応できない。それこそ雪みたいに溶けてしまいそうになるのを感じる。
 好奇心旺盛で知的な父さん。おおらかでやさしい母さん。一緒にいると、やっぱり僕は溶けてしまいそうになる。なにが不満なんだろう。二人とも僕のことをとても愛してくれているのに。でも、僕にはその愛が受け止めきれないと思うことがときおりある。
 不満なんて無い。あるはずがない。でも、居場所のなさを感じる。どうして? わけがわからない。
 僕はレンズの中を覗き込んだ。
 古ぼけてゆがんだレンズの中には、今日もしんしんと雪が降り続いて、僕の心をなごませた。冷たい、音の無い、孤独な景色だ。でも、僕にとってはなにかなつかしい景色だ。
 いつもと同じ景色は僕の心をなごませる。わずかな空想。罪の無い現実逃避。
 でも、その日は、なにかが違った。
「……?」
 ふいに、レンズの中で、なにかが動いたのだ。
 僕はかすかな驚きを感じた。レンズの中で動きを感じたことなんて無い。降り続ける雪のほかには。では、これはなんだ?
 僕は目を凝らした。またなにかが動いた。それは手だ、と僕は気づいた。それは、雪でつくられたように白く儚げな、一本の手だった。
 手がそっと握り締められる。手が動く。
 いや――― レンズが違う方向に向けられたのだ。
 現れたのは、ひとりの、少女だった。
 僕よりも年上だった。たぶん、14か5か、それくらい。愛らしい顔立ちと言えないこともないが、あまりに痛々しく、儚すぎる。ほっそりとした白い顔に、目だけがひどく大きい。薄すぎる茶色をした目。
 ふわふわともつれた薄茶色の髪が、ちいさな顔を縁取っていた。目の下に隈が薄青く浮いていた。憔悴しきった顔だった。そんな目が、レンズの向こうから、こちらをのぞきこんでいた。
 僕は息を呑んで、レンズの向こうを見つめた
 レンズ越しに、僕と少女は見詰め合った。
 それは、きっと、ただの錯覚だったのだろう。この硝子のレンズはマインド・ミラー。映し出されるものはただのまぼろし。そこにあるものは正体を持つ実体じゃない。レンズの向こうからなんて、誰も覗き込んでこない。
 でも、少女はじっと僕を見詰めていた。その目に、ふいに、涙があふれた。
 薄茶色の目に、透き通った涙が満ちる。ゆれる。こぼれる。
 透き通るように白い頬を、涙が伝った。滴り落ちた。少女は泣いていた。その姿が薄く透けて、向こうにガジュマルの梢が見えた。それがその姿がただのまぼろしだと告げていた。
 でも、僕は少女から目を離せなかった。あまりに悲しそうだったから。孤独で、寄る辺なく、哀れな姿だったから。
 やがてレンズの方向がまた違う方向を向き、少女の姿は消えた。でも、彼女の姿は僕の中に焼きついた。くっきりと。




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