21


 『僕』は暗闇の中に立っている。
 目の前に鏡がある。僕の姿が映っている。それは、線の細い、儚げな印象の少女だ。身にまとっているのはキャミソールとショーツだけだった。体の線が、それ自身が光っているかのように、くっきりと白く抜きん出て見える。
 肌の白さは波にさらされた貝殻のようだ。唇の色は血の色を透かせ、皮膚の組織そのものが薄いのだと分かる。すっと通った鼻筋。髪は細く、色が淡く、もつれやすい。眼はアーモンド形をしていて、くっきりとした二重。淡い色の虹彩。貝殻のようなまろみを帯びた耳の形。
 僕はつま先でくるりとターンしてみる。白いキャミソールのすそがふわりと舞い上がる。平たい腹にちいさなへそ。鎖骨のくぼみ。
 自分の指に触れてみた。冷たかった。
 なぜ僕には自分の背中が見えるのだろう? ……不思議に思う。僕には僕の姿がくっきりと視えた。その背中も、肉の薄い尻も、ふくらはぎにかすかに浮いた筋肉も、すべてが見えた。
 ふいに、確かめなければ、という意思に駆られた。僕はキャミソールのすそに手をかける。シンプルな白いコットンのキャミソールを脱ぎ捨てる。
 上半身が露わになる。まだ肉の薄い乳房と、その頂点の色の薄い乳暈、そして、その下に浮き出した肋骨の線があらわれる。そして背中には翼の名残のような肩甲骨。薄く浮き出した背骨の様子。華奢な首筋が髪から覗く。背中にもかすかに肋骨が浮いていた。繊細な骨格の形がはっきりと分かる、日に透けてしまいそうに薄い体だった。
 次はショーツだった。
 立ったまま脱ぎすてる。片足だけ抜き取るのももどかしい。左の足首に脱いだショーツがまとわりついた。
 骨盤の形が見える、脂肪のない下腹。
 ほんのわずかに、産毛のような陰毛が生えているだけの陰部。指で触れてみる。肉のあさい割れ目。ためらいながら指で触れてみる。薄い色の性器の肉。そこに指を一本差し入れる。中を確かめた。

 なにも、無かった。

 そこは空っぽだった。何も無かった。肉すらも無かった。僕の周りに広がる空間と同じ、ただのがらんどうの虚ろだった。
 僕は眼を上げる。足の裏に短い毛足の絨毯を感じる。一糸まとわぬ姿の僕は、いつのまにか僕は薄明るい照明の下に立っていた。
 上を見上げても何も見えない。照明の光源すらも見つからなかった。けれど、周りに展示台が並んでいるということが分かった。カジュアルな宝飾品店に置かれているような、アートスペースにあるような、白く塗られた腰の高さの台だ。上には赤いフェルトが敷かれ、そこに、小さなレンズが置かれている。
 誘われたように歩き出すと、足首から下着が落ちる。僕は手を伸ばし、レンズを拾い上げる。手のひらに置いたレンズを眺めていると、ふと、そこに光が宿った。スクリーンに映画が映し出されるように、映像が映し出される。
 ―――それは、どこかの施設の一室のようだった。
 壁には公共広告のポスターがべたべたと貼られ、クッションは入っているが安っぽいデザインのベンチが並び、受付に老人や大人たちが並んでいた。子供はいない。子供は一人だけだ。隣に座っている、まだ、せいぜいが5・6歳ほどの幼女。
 まだ幼いだろうに、あまり栄養状態がよくないのか、顔色がよくない。浮かない表情をしていた。色がひどく白い。髪は日本人とは思えないほどに色が淡く、ふわふわとしていて、まるで西洋人形のようだった。眼の色もまた淡く、薄い茶色をしていた。指を咥えて、ベンチに座り、大人しく誰かを待っている。
 けれど、その誰かはなかなか訪れないらしい。ふいに、視界がはげしくぶれた。幼女がはっとしたように振り返った。
 幼女はあわてたような顔をすると、こっちをむいた。顔が近づく。目線が変わる。抱き上げられたらしいと僕は気づく。そして理解する。僕だ。彼女は僕を抱いて――― 小さな膝には余る体だ――― たどたどしい声で、あやそうとした。声は聞こえなかった
 けれど、僕にはそこで放たれた言葉が分かった。自分で言ったものだということがぼんやりと分かったからだ。
『だいじょうぶだからね。おねえちゃん、いっしょだからね。だからいっしょにママをまとうね。ね?』
 そうだ。僕は確かにそう言った。けれど疑問に思う。言ったのは『僕』で、抱き上げられたのも『僕』?
 視点の主は僕ではないのか…… では誰か。
 『弟』だ、と僕は思った。
 このとき、僕は弟と一緒にいた。たしかにそうだった。何歳だっただろうか。記憶は朧げだ。たしか、まだ乳飲み子だったはずだ。
 そしてその言葉が『弟』にどんな反応をもたらしたか…… レンズはそこまでは写してくれなかった。
 レンズは暗くなり、映像は消える。僕はレンズを台に戻した。そして周囲を見回すと、その場所には、どこまでも、どこまでも、等間隔に台が並んでいるということに気がついた。
 となりの台へと歩いていき、レンズを取る。映画の映写機が動き出すように、レンズがぼんやりと明るくなった。
 次に映し出されたのは、どこかの広い部屋だった。たくさんの子供たちが走り回り、おもちゃが散乱していた。窓の外には校庭らしき広場が広がっている。お古だと一目で分かる型遅れのワンピースを着た幼女が映し出された。僕だと分かった。僕は少し笑い、何かを差し出す。積み木だった。
 積み木を受け取る手が見えた。ふくふくとして白い、やわらかそうな幼児の手だ。弟だ、と僕は思った。
 手は積み木を受け取って、積み木の山に付けくわえる。積み上げられた積み木はペンキが剥げかけ、傷が多い。危ういバランスで積み上げられていた積み木に、ぶきような手が触れて、積み木の山はあっけなく崩れた。
 僕は一瞬顔をくもらせた。けれど、それは一瞬だった。すぐに何かを言い、微笑んで、また積み木を集め始める。そして、その中から円筒型の積み木を差し出す。弟の手がふたたび受け取る。そして、たどたどしい手つきで、また、積み木を積み上げ始める……
 映像は消える。機械的にレンズを展示台に戻す。次の台へ。また、次の台へ。
 映像には僕が写っていることが多かった。僕は次第に大きくなっていく。そして、次第にまた、僕と弟がどこにいるのかが理解されてくる。
 それは、どこか、公共の施設のような場所だ。
 大きな学校のような場所。あるいは、託児所のような場所? 建物はとても大きいが、どことなくそっけなく煩雑な雰囲気が漂う。壁に貼られたポスターや、折り紙細工の類も、その雰囲気をやわらげてはくれない。
 たくさんの子供たちがいた。とても、とてもたくさんの、ばらばらの年齢の子供たち。
 誰もが清潔だが少しばかり古ぼけた服装をしていて、暗い顔の子供も、明るい顔の子供もいた。二段ベットの二つ置かれた部屋に、学習机。少年たちの集まった部屋では、年上の少年が保護者のように振舞っていたが、喧嘩をすることも、やや意地悪めいた行動が取られることもあった。たとえば消しゴムや鉛筆なんかを貸したまま、帰ってこないとか。洗うためのシーツを出し忘れていたのを、自分のせいだと押し付けられたりとか。
 僕の姿は、よく、レンズに映った。初めはせいぜいが幼稚園児くらいの子供だったのが、次第に、映像の中の僕は成長していった。
 手足がしだいに長く伸びてゆく。髪は肩で切りそろえられていた。僕が映像の中で笑う。映像の中で困ったように小首をかしげる。まだ子供っぽい手をさしのべる。その爪の明るい桜色。
 僕がお古の赤いランドセルを背負って施設を出て行く。その背中が映像に写っている。暑い夏に、土がむき出しになった施設の庭で水浴びをする。学校の指定の紺色の水着、それを着た僕が、ホースの先端からまきちらされる水を浴びて、笑っている。
 そして、雪。
 レンズのおよそ半分ほどでは、雪が降っていたのではないだろうか。窓の外を見ているものでは間違いなくそうだ。そして雪の中を歩いている映像もある。日が差すときにはまぶしいほどに光る白い雪だけれど、暗いときに降る雪は、ただ、ほかのものでは『無』だけが持ちうるような、清潔で無機質な白をたたえている。
 藍色の空から雪が降ってくる。(視線の主の)吐き出す息でガラスが白く曇る。ガラスは二重になっている。それでも冷気が伝わってきそうな、凍えそうに寒い空だ。眼下を見ればもう二階なのに、雪は目の前にまで迫っていた。
 毛玉のできた手袋。古ぼけたフリースの上着。そんな服を着た子供たちが外で遊ぶ。雪はさらさらとしていて手から滑り落ちてしまう。なかなか玉にすることができない雪を、それでも、粉のままに投げつけあって、子供たちは笑いあった。
 けれど、楽しいことだけじゃない。
 屋根に積もった雪を下ろす職員たちを見上げている時、寒い中、足場の悪い道を学校まで歩く時、雪はひどい邪魔者だ。雪で外に出られなくなる時すらある。道路の片隅で足を止め、眼を上げると、雪ははるか頭上数メートルの深さにまで積もっている。
 でも雪は親しいものだ。雪のイメージは、不思議なことに僕自身にもつながった。色の白い、線の細い、華奢な骨格の少女。いつも微笑んでいる僕。その白さは、どことなく、雪の白さにつながるものがある。それも、深く積もってどうしようもないあの雪にじゃない。天から降り積もってくるときの、あの、はかない雪の花の、さらさらとした冷たさを感じさせる。
 僕は、10歳を過ぎた少女になっていた。そしてある日、いたずらっぽい笑顔で視点の主、弟に近づいてきた。冬の日だった。壁にサンタクロースやツリーの形に切られた紙が貼られていたから、たぶん、クリスマスだったんだろう。
 僕は唇を動かす。プレゼントだよ、と言ったのだろうと思った。そして差し出したのは白い封筒だった。あけると、中から、何枚かの絵葉書のセットが出てきた。
 ちょっと申し訳なさそうな笑顔は、絵葉書のプレゼントではクリスマスには役者不足だと思っている証拠だ。でも、それまでの映像は、何回も、絵を書いたり、写真集を眺める視点を写していた。そんな趣味を持っているなら、景色の絵葉書だってうれしいはずだ。映像は絵葉書をめくる手を写す。鮮やかな色の花々。建物。そして手が止まる。そこに写っているのは、白い石灰岩の岬に座り、釣り糸を垂れる少年の姿だ。
 少年は水着を着ている。麦藁帽子をかぶり、釣り糸をたれている。顔は影になっていて半分くらいしか見えない。でも、日焼けした肌の色、それと、うなじのあたりの髪の毛の、潮に焼けた色は分かった。
 僕は思い出す。弟と、どんな会話をしたか。どんな想像をしたか。
 どんな子なんだろうね、と僕らは言葉を交わした。きっとやんちゃで元気な子だろうね、と僕は言う。弟は不安げに仲良くしてくれるかなあとつぶやく。僕はいたずらっぽく眼をまたたき、もちろんだよ、と答える。
 こういう子はね、みんなのリーダーで、とっても元気で、泳ぐのと釣りとが上手くって、それで、誰にでもとっても親切なんだ。もちろん君にだってとっても親切にしてくれるよ。
 それを聞いた弟は、そんな少年を想像する。
 雪の積もるクリスマスの施設で、南の島の青い海と、そこに暮らしている少年を想像する。写真に写っていない少年の目を想像する。それはきっと黒糖の飴のように黒いだろう。そしてくるくるとよく動き、感情豊かだ。きっと仲良くしてくれる。きっと、『僕たち』は親友になる。いっしょに青い海で泳いで、魚を取り、星を眺め、熱く焼けた道を歩くのだ。
 すべて、弟の考えたことだ。
 弟はノートに一本の樹も書く。
 それは、写真で見たガジュマルに似せた樹だ。枝が大きく張り出していて、気根が飾り綱のように垂れ下がっている。それが家の庭にあるといい、と想像する。張り出した枝に座ると、きっと安楽椅子に座るかのように心地いい。風は暑い日にも涼しく肌をくすぐってくれる。茂った葉は太陽の苛烈な光をさえぎってくれる。そんな樹が庭にあるといい。そうしたら、ぼくは、その樹をぼくだけの宝物にする……
 そこまでかんがえて、僕は、はっと我に帰った。
 僕は、毛足の短い絨毯の上に、レンズを片手に立ち尽くしている。もう、レンズは暗くなっていた。表面にはうっすらと虹が浮いている。でも、ただのガラス玉だ。
 素裸の僕を、闇はやわらかく隠してくれる。闇の中で眼が見えるのは何故? 薄い光が視界を照らすけれど、足元には影は無かった。
 僕は、手にしたレンズを見下ろした。透き通ったレンズを。
 今、レンズに写ったもの。……それは、ノートの片隅に落書きされた、一本の樹だった。
 稚拙な線で書かれていた。横に大きく張り出した枝と、垂れ下がった気根。『ぼく』の樹。
 でも、『ぼく』って誰だ?
 僕は僕だ。今、ずっとレンズで見てきたじゃないか。やわらかい、薄茶色の髪をした、色の白い少女だ。妖精のように華奢な、雪のように白い少女だ。
 でも、今僕は思った。たしかに思った。『ぼく』の樹って。
 頭が疼くように痛んだ。手からレンズが零れ落ちる。僕はしゃがみこむ。地面に膝を付く。レンズはどこか暗がりの中に転がっていった。
 僕は誰だ? なんでここにいるんだ?
 このレンズたちは何? ……マインド・ミラー。記憶の真実だけを見せるもの。
 でも、さっきから見てきた記憶たちのなかには、僕がいた。僕の記憶のなかに僕がいることなんてありえない。じゃあ、これは誰の記憶なんだ?
 ……弟の記憶だ。
 少年ばかりの部屋。男の子たちばかりが集まった風呂。そんなものを見たとき、すぐに分かっていいはずだった。これは弟の記憶だ。でも、だったら、なんで僕がそれを覗き見することが出来ているんだろう。
 ここは、そういうことができる部屋なんだろうか? 弟の記憶を抜き出したレンズを、誰かがこうやって展示台に並べて、そこのなかに僕を放り出したのか。でも、僕はたしかに思った。『ぼく』の樹と。レンズは映像を見せるだけで、それ以外には何もしてくれない。考えなど無論読めない。では、なんで僕がそれを知っているんだろう? 弟にどこかで聞かされたのだろうか?
 そもそもここはどこなんだろう?
 寒くは無く、暖かくもない。薄暗いが何も見えないほどじゃない。眼を上げても闇の果ては見えない。展示台は等間隔をあけて並んでいる。どこまで並んでいるのかは分からない。
 ここに来る前僕は何処にいた。
 『病院の階層』だ。
 その前はどこにいた。
 『島の階層』だ。
 頭がチリチリと痛む。静電気が流されているようにチリチリと。その痛みと共に記憶がよみがえってくる。コーヒーにクリームを混ぜると渦巻きの模様ができ、最後には混ざり合ってやわらかい茶色に変わる。その模様をビデオに撮って、逆さ回しにしたように、混ざり合って不明瞭になっていた記憶が、二色に色分けされていく。……二色? いや、それ以上に。
 『病院の階層』では、地下一万階に広がる広大なフロアで、拷問を受けている男たちを見た。
 『島の階層』では、青い海に囲まれた島で、潮風を受けて暮らしていた。
 『病院の階層』には二人の少年がいた。『島の階層』でもそうだった。淡い髪、白い肌の少年と、潮焼けした髪、浅黒い肌の少年。
 僕は傍らを見る。そこにもレンズがある。僕はためらい、けれど、手を伸ばした。指が触れるとレンズが光りだす。僕は座り込んだままそれを眺める。
 指が泡にまみれている。
 髪を洗っているのだ。
 タイルの床の上を、何人もの少年たちが騒ぎ合っている。短時間の入浴はせわしない。自分ひとりでは髪を洗えないような子供でも、眼に入るせっけんを我慢して、ひとりで入浴を済ませないといけない。でも、なんで僕は『男の子たち』の入浴の風景を見ているんだろう?
 レンズのなかの視点は、僕のものであるはずの眼は、眼を上げる。そこに鏡がある。石鹸かすで汚れて曇っている。そこに自分の姿が写る。僕は息を呑む。
 明かりが消える。レンズは暗くなる。
 ころん、とレンズが指から転がり落ちた。座り込んだままの僕は呆然とその姿を反芻する。
 それは『白い少年』だ。
 僕と良く似た顔の、色の白い、少年だった。
 『病院の階層』で見たときよりも、幼かった。でも確かにあの少年だった。僕と良く似た髪質。瞳の色。肌の色。
 華奢な骨格と、顎の細い気弱そうな顔立ち。少女のように可愛らしい、けれど、たよりない印象の面差し。
 弟、だ。
 ふいにそう思い、けれど、ひどい混乱に見舞われる。弟? なぜそう思うのだ。けれど、それは確信だった。あの少年こそが僕の弟だと。
 『弟』と呼んだ少年はもう一人いた。『病院の階層』での、あの、日焼けした顔の少年だ。けれど彼はレンズの中では絵葉書に写る像でしかない。レンズの中の彼は、『島の階層』でそうであったような存在だと『想像されている』。ただの想像の中の少年でしかない。ただの絵葉書の中の少年。顔すらもはっきりとしない想像上の存在でしかない。
 では、今ここにいる、『この僕』はどうなのだ?
 なぜ、『この僕』が、『僕自身』のものであるはずの記憶の中に頻出する?
 この記憶は『弟』のものだ。そう考えると説明が付く。でも、だとしたら、弟の考えていたことまでをも僕が知っていることの説明が付かない。
 僕、白い少年、日焼けした少年。
 その三人。
 『病院の階層』では、僕は僕で、日焼けした少年が僕の弟で、白い少年は地下にたたずむ虐待者だ。
 『島の階層』では、日焼けした少年は僕の親友で、白い少年が僕だ。そして少女であるこの『この僕』は…… 存在しない。
 いや、いた。
 僕は、レンズの中に、『僕』を見た。白い少女を見た。
 その僕は、白い少女は、いたいたしく、哀しい眼をしていた。薄く隈を眼の下に浮かせ、やつれはてていた。
 では、今の僕はどうだ?
 僕は僕自身を見下ろす。『白い少女』を見下ろす。
 華奢な、細工物のような骨格の分かる、薄い、けれど優美な体つき。もつれやすい淡い色の髪。同じく淡い色の瞳。……少なくとも、誰にも傷つけられてはいない。損なわれたことのない体。
 でも、この体には、性器がない。
 内側が存在しない。
 まるでCGのような、内側の無い、外面だけの存在だ。口の中に指を入れてみる。粘膜は唾液で温かく濡れ、粒の揃った白い歯が並んでいる。けれど、それだけだ。試していないから分からないけれど、たぶん、喉から奥には胃も肺もない。この体には臓器が存在しない。血ぐらいは流れているだろうか? 手首をうらがえしてみる。薄青く血管の浮き出した手首。脈もある。でもこれも精巧なプリントに過ぎないのかもしれない。
 では、この僕はいったい何なんだ? ただの外面だけの存在である『この僕』は?
 呆然と座り込んでいても、どこからも答えはない。闇はあくまでやわらかい沈黙で僕をくるんでいた。この空間には誰もいないのだろうか。あの白い少年は? 褐色の少年は? 
「誰か…… いないの?」
 不安にかられ、僕はつぶやく。返事はない。声は闇に飲まれて消えた。その沈黙の、水圧のような圧倒的な重さ。僕は再び声を失う。




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