22
どれくらいそこに座り込んでいただろう。
やがて、僕は、よろよろと立ち上がった。
よくわからないけれど…… この部屋は、弟の記憶の部屋であるに違いなかった。ここには弟の記憶の書き込まれたレンズが陳列されている。手がかりはそのレンズの中にしかない。僕は歩き出し、レンズを飾った展示台の間をさまよいはじめた。何か手がかりになるようなレンズはないか。そう思って。
―――どれだけ時間がたったか。
そんな僕が足を止めたのは、ふいに、足の裏に違和感を感じたからだった。
素足の足の裏に、べたつくような嫌な感触。足元の絨毯が何かで濡れていた。生理的な嫌悪感に思わず足を退ける。そこだけ絨毯の色が違う。赤黒く濡れている。
反射的に、連想したのは、血、だった。
眼を上げると、展示台から、一筋の赤いものが垂れていた。
驚き、眼を上げる。……展示台の上のレンズが、血にまみれていた。違う。レンズは、血溜まりのなかに浸っていた。
僕は呆然とそのレンズを見た。
そんなレンズを見たのは、いままでで初めてだった。ぬるつく血にまみれたレンズはひどく不吉な感じがした。厭な予感。手のひらがぬるりと汗をかく。
触れることすらためらわれる。だが、レンズの機能を開放するには、触れなければいけないということが分かっていた。僕は恐る恐る手を伸ばした。震える指先を伸ばし、レンズに触れると、血にまみれたレンズが、内側から光りだした。
……暗い。
まず感じたのは、そんな感覚だった。
ひどく視界が狭い。何か圧迫感を感じる。何かの箱か、あるいはロッカーの中だろうか? なんだかひどく窮屈な感じがした。視界は目の前の細い線のような部分に限られていた。
その向こうに、部屋が広がっていた。
今まで見たことの無いような部屋だった。
本棚がある。誰かの書斎? あるいは学校の校長室か、応接室か。そんな印象の部屋。カーテンが引かれていた。誰かいる。二人いる。少女と――― 壮年の男性。二人の姿にぼくはハッとした。
片方は、『この僕』だ。
もう片方は、見覚えのある男だった。仕立てのいい服を着ていて、半白の髪を後ろになでつけていた。気品すらただよう、聖職者のような、知的な風貌をしていた。
その前に少女がいた。だが、それはひどく異様な姿だった。一糸まとわぬその姿。薄い乳房。白い肌。……その上に、血が、糸のように流れていた。
彼女は両足をたたみ、大きく広げて、男の前に裸体をさらしていた。膝を自ら両手で押し広げている。座った執務椅子の手すりに両足をかけて、見開いたままの眼から、だらだらと涙を流していた。あえぐたびに口元からよだれが流れる。涙も鼻水もよだれも、何もかもが一緒くたになって、顔は、幼い子供が号泣したあとのようにぐちゃぐちゃに汚れていた。顔にはべったりと絶望が張り付いていた――― 声一つあげられないほどの絶望。
男はそれとは不釣合いに、まるで園芸家が、自ら丹精した花々を愛でるような、いとおしげな笑みを浮かべていた。その手には大きな針刺しがあった。無数のまち針がそこに刺さっていた。まち針の頭に付いた偽の真珠の、赤や緑、黄色といったカラフルな色彩。
そして、少女の体にも。
呼吸するたびに、薄い胸に、偽物の真珠がきらきらと光った。針の銀色もきらきらと光った。その胸は、まるで、針刺しのようだった。……薄い乳房に、針が、何本も、何十本も、突き刺されていた。
特に入念に針で貫かれているのが、乳首だった。まだちいさな乳頭は小さな硬い粒のように隆起し、何本もの針で貫かれていた。血がちいさなビーズの玉のようにもりあがっていた。針は少女の体の震えに合わせて細かく震え、きらきらと輝いていた。
そして、それは、内股もそうだった。
内股の肌理細かな皮膚にも、針が、光っている。
摘み上げた皮膚を縫いとめたもの、深々と突き刺されたもの、何本もの、針、針、針。
そして、性器すら、その例外ではなかった。
まだ薄い陰毛しか覆われない谷間を貫いて、針が、針が、光っていた。自ら触れることすらほとんどないだろう充血した肉を引き出して、針は、その部分を入念に、注意深く、また、楽しげに飾り立てていた。
―――男はしばらくの間、楽しげにそれを眺めていたらしかった。少女の体は全身が汗でびっしょりと濡れている。その汗が男が少女を放置していた時間の長さを知らせていた。少女はしゃくりあげるように泣き続けていた。そのたびに全身に刺さった針が震えた。だが男はそろそろ少女の様をみているだけだということに飽きたようだった。男は針刺しから一本、まち針を取った。
何かを言う。
レンズから声は聞こえない。
けれど少女の顔が、さっと青ざめた。
恐怖。絶望。涙が溢れ出した。頬を帯になって伝った。ためらいが長い間を空けた。それすら男の楽しみを倍加する結果にしかならない。だが、少女はあくまで忠実だった。
舌を出した。長く、長く、精一杯に。唾液が涙や汗とまざりあい、顎から滴り落ちる。
男は満足げに笑う。
そして、薄くスライスされた牛肉でも摘むように、
指先で、ていねいに、少女の舌をつまみ、
その中央を、
……まち針で、深々と、貫いた。
僕は、声にならない絶叫を上げた。
手はレンズを弾き飛ばす。レンズは遠くへと吹っ飛んでいった。僕はわけのわからないことをわめきちらしながら背後に倒れこむ。悲鳴が闇に吸い込まれていく。もはや訳が分からなかった。ただ、吐瀉物をまきちらすように、絶叫を撒き散らした。そうやって吐き出すことで記憶を体から追い出したかった。だが、そんなことは不可能だった。『僕自身が』痛めつけられる光景が、まるで、重油がこびりつくように、頭蓋の裏側にこびりついた。
わけのわからない言葉をわめきちらしながら、はいずって背後へと逃げようとする。体が別の展示台にぶつかる。だが、その背中がぬるりと滑った。
息が止まった。同時に声も。
思考が停止する。
そうして、さびたねじがきしむように、背後に振り返る。
その展示台からも、血が、滴っていた。
僕は、絶叫の反射で涙の浮いた眼を上げて、見た。
そこから先には、血や、吐瀉物に汚れた展示台が、並んでいた。
ある展示台は、全体から血をあふれさせていた。
ある展示台は、吐瀉物にまみれていた。
ほかの、もっと形容のしがたい汚物にまみれた展示台もあった。
そして、その展示台のすべての上には、レンズがあるのだ。
頭の中が真っ白になりそうだった。僕はよろめきながら後ずさり、さらに、意味のない言葉を漏らした。他の、何の異常もない、白く清潔な展示台に手が触れる。すがりつく。僕はその展示台にすがり付いて、しばらく、呼吸に胸を上下させていた。
何だ? あれは何だ? なんのことだ?
あの異常な光景は、いったいなんだ?
僕が、陵辱、されていた。
肌がさっと粟立つ。反射的に自分の胸や股間を押さえた。だが、そこには傷一つ無い。針など刺されたことは無い。そんな記憶なんて無い。無い。無い。
でも、レンズが見せるものはすべて真実であるはずだ。だということは、あの信じがたい光景も真実だということ? 僕が陵辱され、それを男が楽しんでいる、それが現実にあった事実だということ?
カチカチと歯が音を立てた。恐怖によるものだった。それは未知のものに対する恐怖じゃない。―――自分の中のどこかが、それを諾としているという事実にたいする恐怖だった。
そう、あれは事実。僕が陵辱された。それは事実。でも僕には陵辱された記憶は無い。それも事実。
―――矛盾している。いったい、どういうことなんだ?
そもそも、あの映像はなんだったんだろう。思い出すことすら恐ろしい光景を反芻しながら、僕は思う。あの光景は、細い線のような場所に視界を限られていた。どこかに閉じ込められ、その狭い隙間から覗きみるような視界だった。
僕はどこであれを見たのだろう? なぜ、あれを見たのだろう?
……それを確かめる方法はひとつしかなかった。
僕はそろそろと眼を上げ、展示台を見る。いくつもならんだ展示台。あるものは血にまみれ、あるものは吐瀉物に汚れ、あるものはさらに形容のしがたいような汚物にまみれた展示台を。
あの記憶たちの中に答えがあるとしたら、僕のとるべき道は、一つしかなかった。
立ち上がり、恐る恐る近寄り、そんな展示台の中の一つに手を伸ばす。指が震えた。冷たい汗がどっと吹き出した。精一杯に眼を見開く。触れたレンズがほんのりと光を放ち、映像を映し出す―――
……そこで見たものについては、もう、明言したくない。
ありとあらゆる種類の陵辱、汚辱、そして、拷問。いったいどんな想像力を持った人間なら、こんな非道を思いつくのか。ありとあらゆる方法で、徹底的に、『僕』が陵辱されていた。全身のありとあらゆる肉を、ありとあらゆる皮膚を、汚しつくされていた。
僕はひどい吐き気と頭痛に悩まされながら、けれど、歯を食いしばって、ひとつひとつのレンズを確かめていった。見ているうちにいくつかの共通点が見えてくる。
ひとつ、その視点は常に、細い線の視界に限られている。
この視点の持ち主(『僕』?)は、どこかに閉じ込められて、その中からこの光景を見せ付けられているのだ。耐えられなくなって途中で目を閉じたのか、途中からが暗闇に変わっているものもあった。けれど基本的には映像は細い視界の中から陵辱の果てを見つめている。涙に視界をにじませながら、僕が痛めつけられ、辱められる様を見つめている。
ふたつ、その陵辱には、いくつかのルールが存在している。
男は、僕をいくらでも辱めたけれど、決して、目立つような跡を残すようなことはしなかった。縛る時はガムテープかやわらかい素材のロープを用い、火傷や損傷を与える時には、用意に外からは見えないような場所を入念に選んだ。針のときだって同じだ。無数に刺された針は苦痛と恐怖をあたえるだろうけれど、抜けば残るような跡はほとんど無い。
なぜ跡を残すような行為を行わないのか? 考えてみれば不思議だった。やさしげな顔をした、この、吐き気を催すようなサディストが、どうしてそんな生ぬるい陵辱だけで満足するのか。想像もしたくないことだが、もっと、もっと、苦痛を与える方法はたくさんある。そういったことを求めているようなそぶりが垣間見えることもあった。けれど、彼は僕を必要以上に傷つけられない。そんな理由がどこかに存在している。
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