23


 ―――やがて僕は、奇妙な展示台を、ふたつ、見つける。
 それは、二つの展示台だった。
 ひとつの展示台は、無数の切り傷で覆われていた。
 カッターで切りつけたような傷跡が、いくつも、いくつも、刻み込まれている。幾重にも重ねられた執拗な攻撃の跡には、何かの執念のようなものが感じられた。上に乗っているレンズも傷だらけだった。その傷が何を表しているのかなどは見当も付かなかったが。
 もうひとつの展示台は…… 真っ黒に焦げていた。
 火にあぶられたように、半ば炭化し、触れただけで崩れてしまいそうだ。上に乗っているレンズも、高温にさらされたように、半ばいびつにゆがみ、曇っていた。
 そのとき、僕はもう、見せつけられた酸鼻きわまる光景に、疲れ果てていた。
 自分自身が陵辱されつくす…… そんな光景を見せ付けられて、神経がおかしくならないわけがない。狂ってしまいたい、と僕は思う。でも、僕は正気だった。哀しいほどに。
 この展示台は、何を表しているのだろうか、と僕は思う。思いながら、立ち尽くした。
 疲れ果てていた。もう休みたかった。でも、休んだからってどうにもならないということは、すでに分かりすぎてしまっていた。この空間では日がくれることもなければ上ることも無い。延々と続く展示台の列には、果てがあるのかどうかも分からなかった。立ち止まろうと思えば立ち止まれる。でも、立ち止まっている間には何の変化も起こらない。ただ、僕という存在が、ずっとここの空間に存在し続けるというだけだ。
 しばし、ためらいながら、僕はふたつの展示台を見ていた。そして、ためらいながら、片方の――― 切り刻まれた展示台のレンズに、手を伸ばした。
 ぼうっとレンズが明るくなる。そして、そこに、ひとつの映像が映し出される。
 目の前に立っていたのは、僕、だった。
 痛めつけられ、憔悴しきった僕。眼の下には隈が浮き、表情には絶望が薄く張り付いていた。眼は薄い色をしたガラス玉に過ぎなかった。
 なのに微笑んでいる。
 痛々しい、哀しい、張り付いたような笑み。
 でも、視点の主の――― 『僕』の手が、強引に僕の手を掴み取る。左手だ。そして、その袖を無理やりに捲り上げた。そのとたん、露わになる。そこに刻まれた凄惨な傷跡。
 手首に、前腕に、無数の切り傷。
 自傷だと、一目で分かった。
 入念に傷をつけぬよう注意していたあの男が、こんな粗雑なミスを犯すはずが無い。僕が、自分で切りつけたのだ。ぐらぐらと視界が揺らいだ。それが、視界の主の激しいショックを表していた。
 彼女が浮かべていたのは、はかない、淡雪のような、触れたら消えてしまいそうな笑みだった。彼女の唇が動いた。何かを言った。
 何かを言う。その手が『僕』の肩に置かれる。それでも彼女は微笑んでいた。何を言っているのだ? 僕は唇の動きを読もうと眼を凝らす。けれど、それはむなしい努力に終わった。
 やがて、レンズは暗くなった。あとは薄闇に僕だけが取り残される。
 僕はズタズタにされた展示台を見下ろしながら、しばし、考え込んだ。
 ―――彼女…… レンズの中の『僕』は、陵辱の末に精神を病んだのか、と僕は思った。
 それも仕方のない話だろう。あのような扱いを受け続けていて、正気を保てるはずが無い。けれど、どうして誰もそこに至るまで、彼女があのような陵辱を受けているということに気づかなかったのか。それに、彼女=僕や、僕の弟は、そのことを誰にも訴えなかったのか。
 考えていても答えは出ない。あきらめて、僕は隣の展示台に眼をむけた。焼け焦げて黒くなった展示台を。
 そこに置かれたレンズは、高熱にゆがみ、曇っていた。僕はレンズを見下ろす。やがて、ためらいながら手を伸ばした。
 レンズが明るくなった。
 ……それは、暗い廊下だった。
 目の前にあるのはドアだった。中に誰がいるのかは分からない。けれど、視点の主の手が、そのドアに鍵をかける。シリンダー錠では、鍵を単にかけるというのは難しいことじゃない。ヘアピンでも一本あれば簡単に出来ることだ。
 そして、視点の主は、接着剤をそこに流し込む。僕は驚く。そんなことをしたら、鍵が開かなくなってしまう。
 次に、僕の手は、ペットボトルを手に取った。その中身を、ドアの下へと流し込む。
 何の液体なんだろう? 水ではないように見えた。やがて、視点の主は空になったペットボトルを地面に捨てた。そして歩き出す。バックパックの中から、別のペットボトルをさらに手に取る。中身を廊下にばら撒き始める。水ではない液体を振りまきながら、視点の主は廊下を歩いていく。真っ暗な廊下を。窓の外では雪が降っていた。寒い廊下を、白い息を吐きながら、歩いていく。
 何本ものペットボトル。振りまきながら歩いていく。やがて、最後のペットボトルも空になった。
 そして、最後に取り出されたのは、―――マッチだった。
 マッチを、擦った。
 無造作に落とすと、液体が、発火した。
 青い炎が廊下を走った。
 視点の主は踵を返す。炎に背を向けて走り出す。踊る炎が廊下を明々と照らし出す。ねじくれた影が壁にゆれた。まるで踊りを踊るかのように。
 画面が激しく揺れる。逃げ出していく。おそらく、火災報知器が作動したのだろう。とたんに廊下に灯りがついた。けれど。
 画面が揺れた。窓の硝子がいっせいに砕け散った。
 それは、爆発。
 爆発に巻き込まれ、何もかもが分からなくなり――― そして、あとは、闇。
 真っ暗になったレンズを手に、僕は、呆然と立ち尽くした。
 何が、起こったのだ?
 そのとき、ぼんやりと記憶がよみがえる。誰かから聞かされた話だった。放火。児童擁護施設『ふたば園』が入所者によって放火され、全焼した。焼け出された僕は入院することになって…… それが確か『病院の階層』での僕の設定だったはずだ。
 火をつけたのは僕の弟だった―――?
 たしか、あのとき、褐色の少年は言った。入所者の一人が火をつけた。暗いやつだと思ってたけど、まあ、これであそこをでられてせいせいした……
 せいせいした、どころじゃない。放火をしたのは僕の弟だ。何のために? ……あの部屋。接着剤でドアをふさいでいた。あの部屋の中の誰かを抹殺するために火をつけたのか?
 この段階から推測して、弟が殺したいと思う相手は一人しかいない。けれど、そこまでの流れが分からない。
 弟は、まだ、小学生だった。11歳だった。
 11歳の子供が誰かを殺したいと思うほど追い詰められるまで、なぜ、誰も手を差し伸べなかったのか。僕が陵辱され続けていて、なぜ、誰も気づかなかったのか。気づいたとしても、救い出してあげようとしなかったのか。
 
『誰モ助ケテクレナカッタンダヨ』

 ―――ふいに、どこかから、声が聞こえた。
 かすかな、かすかな、声。弱弱しい声。独り言のような。
「誰?」
 僕は周囲を見回す。何も見えない。声の主は見つからない。
 僕が見下ろしたのは、手の上のレンズだった。熱にゆがんだレンズはすでに光を失っていた。薄い虹色を残したレンズに、僕の顔が写っている。色素の薄い少女の顔が。
 ……僕は、手にしたレンズを、じっと見下ろした。
 一度発動したレンズは、もう一度触れても、発動することは無いと、これまでの経験でわかっていた。では、この放火の現場を再び見ることは出来ない。視点がどんな顔をしていたのか、何を思っていたのか、それを知るすべもない。
 僕は弟を思う。弟として思い出したのは、あの『白い少年』だった。
 華奢な体つき。僕に似た細い髪。淡い色の眼。可愛らしいが気弱そうな顔立ち。彼に対して僕はどんな感情を抱いている?
 何も。
 何も思ってはいない。
 姉としての愛情とか、そんなものを、僕は、僕の中に欠片も見つけられない。
 レンズの映し出す映像の中の僕は、弟のことをとても大切に思っていた。それを見てきて、でも、僕は僕の中にそんな感情を見つけられない。虐待され、陵辱される僕自身に対して身を切られるような痛みを感じても、それを『視ていた』だろう弟の心境については何も思うことが無い。
 これは、何か、おかしいんじゃないだろうか?
 こんなにも弟を大切にしている姉だったら、弟のことを何か思いやってもいいはずじゃないか。弟が『家』に火を放つところにまで達したということに何かを感じるべきじゃないか。でも、僕は何も思わない。弟が苦しもうが、悲しもうが、どうしようとも思わない。
 でも、『島の階層』にいたとき、僕は、痛めつけられた少女の姿に、ひどい悲しみを感じた。彼女を慰めたい、救いたいと強く感じた。僕は『僕』には同情するのに、守るべき対象である『弟』に対してはなにも思わない? 違和感。ひどい違和感。それは何かがとても間違っているんじゃないかという予感。それは設定ミスのようなもの。僕に内部が存在しないように、僕という存在に生じてしまったエラーであるのではないかという直感。
 そして、ふいに、僕は思い出した。
 『病院の階層』から、ここへと、どうやって移動してきたのか。
 僕は、レンズを飲んだのだ。そして、僕はここへと移動した。『階層』を移動したのだ。
 では、この『レンズの階層』を脱出する手段は?
 僕はレンズを見下ろした。
 すでに暗くなってしまったレンズ。熱にゆがんだレンズ。
 でも、この中に現れた映像の中で、『弟』は何を思っていたんだろう?
 それが知りたい、と僕は思った。
 それが出口かもしれない、と僕は思った。
 だから僕は、ためらいながら舌を出す。恐る恐る、レンズを舌に乗せる。おはじき玉を口に含んだような、味にならない涼味を感じる。感じながら、レンズを、ゆっくりと、飲み下す。
 喉の奥を直径三センチのレンズが通過していく。滑らかに、水を飲むように。
 そして、体の奥、『何も無い部分』にレンズが達した時―――

 視界が、ふいに、白くなった。




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