25


「ついたぜ」
 僕は気づいた。……地面が熱い。
 瓦礫がまだぶすぶすと燻って、かすかな黒煙が立ち上り、周囲の景色が陽炎のように揺らめいていた。ひどい臭いがする。蛋白質の焦げる臭いだ。気づくと耐えられなくなる。僕は呻き鼻を覆った。けれど彼は平然とした顔で立っている。
 ついた? 弟がどこにいるというのだ。僕は周囲を見回し、二三歩、前に歩んだ。そのとき足がぐにゃりとしたモノを何か踏みつけて、僕は、ぎょっとした。
 それは――― 生焼けの死体だった。
 その顔を見てはっとする。
 『あの男』だった。
 ひどく痛めつけられ、損傷していて、あの男だと分かったのは奇跡のようなものだったろう。ズタズタになり、火傷だらけの、無残な屍骸。
 驚きと不快感に後ずさり、また、足の裏に不吉な感覚を感じる。はっとして足元を見る。そこにも同じ死体があった。あの男の死体が、ぶすぶすと燻る瓦礫の下の火事に焦がされながら、無残に転がっている。
「う……っ」
 気づいた。足元は死体。死体死体死体死体。死体ばかりだった。それも、すべてが恐ろしく損傷され、そして、死んでいる。僕は嘔吐感に口元を抑えた。
「ど、ういう、こと」
 こんな、異常な死体の山のどこに、『弟』がいるというのだ?
 振り返る。けれど、少しはなれた瓦礫の上に立った彼は、表情を見せずにこちらを見下ろしているだけだった。自分で気づけとその目が語っていた。僕はやむなく視線を戻した。そのとき、かすかな違和感が脳裏でチリと音を立てた。
 死んでいる?
 ……『病院の階層』では、あの男たちは、『死ねない』という苦行に架けられていたはずではなかったか?
 僕は、ひどい不快感と嘔吐感に堪えながら、そっと、地面に膝を付いた。
 男たちの死体の中から幾分ましなものを探そうとして、すぐに、あきらめた。とにかく手近なものを手に取る。そして、ちかくに落ちていたガラスの欠片を拾って―――
 ためらいながら、その皮膚を、切った。
 ずぶ、ずぶ、とガラスの欠片が爛れた肉を切り裂く感触が伝わってくる。
 そして、その手が止まると。
「……!!」
 僕は、呆然と、それを見つめた。
 爛れた肉の中から現れた、小さな――― ずっと小さな体。
 焼け爛れ、損傷された、白い皮膚。焦げた細い髪。僕はしばし呆然としていた。だが、我に帰ると、無我夢中でガラスの欠片を振るった。途中からはもどかしさに素手になった。焼け爛れた肉、腐りかけた肉を必死で取り除いていく。そうして、無残極まりない屍骸のなかから現れたのは。

 僕の、弟、だった。

 それは、無残に損傷された、体だった。
 体のほとんどが焼け爛れてしまっている。髪などほとんど残っていない。腫れ上がった片目は開かず、口元は鼻血と吐血にまみれていた。下半身から下は無かった。どう見ても生きているとはおよそ思えぬ姿だった。にもかかわらず、無残なことに、『それ』は生きていた。生きて、苦痛を感じ続けていた。
 ほんのわずか無事な部分の白い皮膚。一握りほど残った薄茶色の髪。焼け爛れ、太い針金で縫い合わされた唇。
 片方だけ残った眼が、わずかに動いた。だが、眼は白濁していて、すでに視力がないというのは傍目にも明らかだった。
 だが、生きている。生きて、死よりもむごい苦痛を感じ続けている。
 僕は呆然とした。震える指を伸ばして弟の頬に触れた。だが、その反応はかすかな痙攣だった。僕は悟った。ここまで傷ついてしまった弟を救うすべも、それどころか苦痛を和らげるすべすらも、僕には無い。
 その体を膝の上に、すがるように傍らを見上げた。彼はまださめた眼でこちらを見ているだけだった。たよりに出来そうに無い。僕はおろおろと弟を抱きあげる。
「こ、これ、助け、ないと」
 彼は至極冷静に答えた。
「『どれ』を?」
 そして、僕は気づいてしまう。
 あの男の屍骸は、まだ、無数にある。
 一万フロアの地下の拷問の結果が、一万フロア分の屍骸となって、ここに積み上げられている。
 そして、その一つ一つのなかに……?
 僕の膝から力が抜けた。
 僕は、焼け爛れた瓦礫の上に、弟を抱いたまま、座り込んだ。
「どうして……?」
 一万階の地下フロア。そこで尽くされてきた拷問の限り。
 それは、『あの男』のためのものではなかったのか?
 僕が予想していたのは、あの『病院の階層』が、弟の憎しみのために存在しているのではないか、ということだった。
 弟は自らの憎しみのために『病院の階層』を作り出した。そして、そこで、どれだけ切り刻んでも許しがたいあの男に対する憎しみを、地下のフロアに結実させた。想像の限りを尽くした苦痛をあの男に与え続け、死すら許されないという苦痛をあの男のために用意したのだと。それこそが弟の憎しみの結実だったのだと。そう信じていた。
 では、『あの男』の中に、『弟』がいたという事実を、僕は、どう認識すればいい?
「わかんない、って顔だな」
 彼がつぶやいた。
「簡単な話なのに」
「え……」
 彼は眼を細めた。黒糖のような眼。そこに浮かんでいるのは、同情一つ存在しない、さめた色彩だった。
「そいつが許せなかったのは、『あの男』以上に、ねーねーの負担になって、ねーねーを苦しめ続けている『自分』だった、ってことさ」
 ―――思い出す。壊れてしまった彼女の、何も見ない、眼。

 おねえちゃんは、ぼくがいなければ、苦しい目になんてあわなくてすんだ。
 おねえちゃんは、ぼくのことを大好きだっていうけど、きっと、心の中だとにくんでいる。
 おねえちゃんに甘えて、おねえちゃんにだけ苦しい思いをさせてるぼくがいなければ、おねえちゃんは今よりずっと楽になれる。幸せになれる。
 ぼくさえいなければ、ぼくさえいなければ、おねえちゃんは、きっと幸せになれたんだ。
 いっそ、ぼくがいなくて――― おねえちゃんのかわりに、ぼくが苦しめばよかったんだ。

 全身から、力が、抜けた。
 僕は自分の手の中を見た。手の中に抱いている、ずいぶんと小さくなってしまった体を。
 手が無い。足も無い。どちらももげてしまっているか、消し炭のようになってしまっていた。いたずらに壊されて、投げ捨てられた人形のようだ。
 でも生きていた。
 その目が泣いていた。
 その唇がかすかに動いていた。
 その言葉を僕は読む。

「ご、めん、な、さい?」

 強くない自分でごめんなさい。
 弱い自分でごめんなさい。
 おねえちゃんを助けられなくてごめんなさい。
 ぼくが存在していて、ごめんなさい。
 ごめんなさい、ごめんなさい、と弟は繰り返していた。
 生まれてきて、ごめんなさい、と。
「そいつのコピーのアルゴリズム自体はまだ稼動してる」
 彼の声が、非情に、廃墟に響いた。
「そこに積み上げられてる死体の山は、そいつのただの自虐の結果だ。『病院の階層』だとまだそいつはあの男と自分を拷問するのに忙しいはずだしな。だからその半死体に同情したって意味ないぜ。だって、そいつはただの火傷みたいなもんなんだから」
 ただの火傷のようなもの。ただの痛みとしての存在。
 つまり、自分自身の中ですら、ただの痛みとしてしか、自分自身が存在することをゆるさないということ。それほど自分を憎むということ。それほど自分が許せないということ。
 体全体から力が抜けて、立ち上がることすら、指を動かす気力すらなくなった。僕は呆然と彼を見上げた。彼の背後には空が広がっている。ただ青いだけの、太陽すらない、フラットな空が。
 この世界の、なんて、無意味なことだろう。
 『島の階層』『病院の階層』『レンズの階層』そして『廃墟の階層』―――
 その全てが、この少年の、僕の弟の、現実否定の上に成り立っている。
 後悔と自虐のために織り成されている。
 とうとうたどり着いたその真実の、あまりの無意味さに、僕は打ちひしがれた。
 呆然と声を失っている僕を、彼は、かすかな同情のこもった目で見下ろしていた。
「なあ、ねーねー」
 ざざ、と音を立てて、彼は瓦礫の山からすべりおりてきた。座り込んだ僕の傍らまで歩み寄ってくる。僕には振り向く気力すらない。傍らに立った彼は、気遣わしげに、僕の肩に手を置いた。
「全てに絶望して、全てを瓦礫と死体に変えて、あとは憎しみのための演算しか残さなかったこいつが、『島の階層』と『おれ』だけはきれいなままに残したのは、どうしてだと思う?」
 分からなかった。分かりようも無かった。僕は返事をしない。彼の目に、初めて、痛ましそうな色が浮かぶ。後ろから両手で僕の肩を掴み、こつん、とうなじに額をぶつけた。
「ねーねーのためだよ」
「僕、の」
「ねーねーは、自分が『誰』なのか、まだ分からない?」
 膝の上の『弟』は、盲いた眼を、必死に動かしていた。
 その眼は僕を見上げようとしていた。僕を見上げて、針金で縫い合わされた唇が、かすかに動いた。僕を呼んだ。

 おねえちゃん、と。

「ねーねーは、『姉』なんだよ」
 呆然とする僕に、彼が、言った。
「こいつが、11年の生涯の間、ずっと一番そばにいて、一番たくさんの情報をトレースしつづけた相手…… こいつの『姉』が、ねーねーなんだよ」
 つまり、僕は、『現実の人格』では、無い?
 ―――それ自身は、さほどショックでもなかった。
 弟の中に閉じ込められている以上、僕が何らかの意味で、普通の人間ではないのだろうということくらい、予想はしていた。それどころか彼の答えで氷解した疑問すらあった。
 なぜ僕の体にはCGのように内部が無いのか。……あたりまえだ。弟が知りえた姉についての情報は、せいぜいが外見、さもなければスキンシップの結果手に入れた体温や触感くらいのものだろう。その程度の情報だけで構成されているのがこの世界での僕の体だから、僕の体にはリアリティが欠けている。体の内部が無い。当たり前だ。人間、他人どころか、自分自身ですら、体の内部がどうなっているかなんて知りもしないのだから。
 なぜ『彼』は僕のことを姉と呼ぶのか? ……『彼』は弟にとって理想の少年像だった。だから、自分ではなく理想の少年である彼が弟として僕に連れ添ってくれることが望ましかったんだろう。『島の階層』でのあの姿はともかく、僕は他の階層では一貫してこの姿を保ち続けている。僕が彼の『姉』なのだとしたら、それも当たり前の話だろう。この体に傷が無いのは、弟の中の『姉』には、傷など無いままでいてほしかったという願望の現れた結果だ。僕は現実世界の『姉』ではなく、あくまで、彼の中に存在する像としての『姉』なのだから。
 でも、なぜ僕は『島の階層』では弟の姿をしていたんだ? 
「こいつのねじくれまがった思考回路の結果」
 彼はあっさりと答えた。
「最期、追い詰められたあいつは考えてたのさ。ねーねーが一番幸せなのはどんな生活だろうって。どんな男の手も触れようがない、誰からも保護されて愛される存在でいられる場所はどこだろうって。その結果があの『島』だった。あの島で、兄弟なんていなくて、両親に愛されて生きている『少年』が、あいつの『創造』できる幸せの最大限だったってわけ」
 あの島は、弟にとって、幸せの象徴だったのだ。
 親友がいて、自然が美しく、両親に愛されている。本来ならそこに『姉』も存在すべきだっただろう。けれど弟はそこから自分自身を消去し、代わりに姉に自分が演じるはずだったロールを与えるという方法をとった。……最終的にはそれが矛盾を生み出し、僕が『島の階層』から脱出するきっかけを生み出したというのは、皮肉だとしかいいようがないが。
「もうひとつ、おしえて」
 弟の『屍骸』を膝に抱いたまま、僕はつぶやいた。
「僕はどうして、弟を、愛してないの?」
 レンズの中の僕は、確かに弟を愛していた。
 世界でたった二人の肉親として、守るべき弟として、弟のことを精一杯に愛し、その幸せを願い、守り、時には諭し導いていた。その愛が弟に伝わっていなかったはずが無い。だとしたら、『姉』のコピーであるはずの『僕』が、弟を愛していないのはどういうわけなのか?
 膝に今抱いている痛々しい姿。死のうとしても死にきれず、苦しみ続ける無残な姿。
 それに対して同情を感じる…… けれど、それ以上の何者も感じない僕を、僕自身が一番いぶかしんでいた。
 だって、これは僕の弟であるはずだ。世界でたった二人の肉親だ。レンズの中の、記憶の中の僕は、あんなに弟を愛していた。だとしたら、この姿に身を裂かれるような痛みすら感じていいはずなのに、僕は何も感じない。傷ついた小動物に対して感じるようなかるい同情と、そして、焼け爛れた醜い死体に対する嫌悪感しか、感じない。
 こつん、とうなじに髪が触れた。
 彼の髪からは、南の島の潮風の香りが、かすかにした。
「それは、そいつが、そう願ったから」
「そう、願った……?」

「ねーねーがそいつを愛していなければ、不幸なんて起こらなかったはずだから」

 軽い非現実感と共に、僕は、小さな声を聞いた気がした―――


 おねえちゃん
 ぼくがうまれて、ごめんなさい



「……違う」
 僕は、現実から遊離しそうになって行く意識を、必死の思いで引き戻した。
「違う、違うよ」
「ねーねー……?」
 背中を抱いた彼が、不思議そうに問いかける。僕は指を伸ばし、弟の唇に触れた。そこを縫いとめた針金。それを、できるだけ苦痛を与えずに、けれど、確実に解こうと、苦闘しはじめる。
 苦痛のうめき声が弟の喉から漏れた。焼け爛れた声帯が声らしきものを作れること自体が驚きだった。僕は必死で針金と戦う。解こうとする。涙が出てきた。弟の、黒く焼け焦げ、割れ目から肉の色が覗く頬に、涙が滴った。
「忘れちゃ駄目だ。君は愛されていたんだ。愛されていたんだよ」
 僕は弟の本当の『姉』じゃない。あくまで弟の視点からトレースされたコピーに過ぎない。だから、本物の彼女がどれだけ弟を愛していたかなんて、知りようが無い。
 でも、彼女がむごい虐待に必死で耐え続けたのは、そこに、愛があったからだ。
 弟を助けたいと、そう願っていたからこそ、恥辱と虐待にたえられたのではないか。
 たった一人であんなむごい扱いを受けたなら、もしも孤独だったなら、彼女は死を選んでいたのではないかと僕は思った。僕は彼女の『コピー』だ。ある程度まで僕の推測は正しいはずだ。僕は弟の思惟で改竄された思考回路しか持たない。でも、僕の中で、彼女が眼を瞬く。
 何も見なかった眼は、憎しみの目などではなかった。彼女はけして弟を憎んでなどいなかった。思い出したあの記憶は真実の記憶じゃない。レンズを通して見た像じゃない。あれは、弟の目を通して、ゆがめられた記憶だ。ゆがめられ、僕の中に注ぎ込まれた、間違った記憶だ。
 彼女は最後まで、弟のために耐え続けた。それは一体どうして? わかりきったことじゃないか。
 僕の中で、彼女がつぶやく。
 弟の懐疑と絶望に改竄された思考回路の奥底、隠された本当の彼女が、言っていた。つぶやいていた。憎んでなどいなかったと。
 あいしている、と。
「君はこんなところにいちゃだめだ。現実に帰るんだ。そして、本当のおねえちゃんに会わないと、駄目なんだよ」
「ねーねー? ……何言ってんだよ?」
「僕は君のおねえちゃんじゃない。僕が幸せになっても意味がないんだ。君が現実に帰らないと、おねえちゃんに会って、幸せにしてあげないと、駄目なんだよ」
 僕の指に針金が刺さり、血がにじんだ。痛みは感じない。この体はあまり痛みを感じない。痛みなど感じないようにと弟が作ったからだ。二度と大切な姉が苦痛に苦しむことが無いようにと、苦痛の無い体を作ったからだ。
 けれど、僕は弟の『本当の姉』じゃない。僕の幸せは本当の姉の幸せじゃない。この世界はなにもかもが偽りだ。誰もいない、がらんどうの世界だ。
「帰ろう」
 ようやく針金が解ける。爛れ、裂けた口が、かすかに開く―――
 そして、僕は、ポケットから取り出したレンズを、その唇に含ませた。
 レンズ。熱に融解しかけたレンズ。マインド・ミラー。
 記憶の真実だけを見せるもの。
「元の世界に、帰ろう」
 弟の、白濁した目が、かすかに光を宿した。はじめて僕を見た。そうだ。弟は、ずっと『僕』しか見ていなかった。自分自信の絶望にゆがめられた、弟の存在すら忘れ果てた『姉』の姿しか、見ていなかったのだ。
 その呪縛を、今、解き放つ。
 真実を見せる、マインド・ミラーの力を使って。
 弟が僕を見る。信じられないものを見るように。
 僕は微笑んだ。『現実の彼女』がそうであったように、慈愛をこめて。

「帰っておいで、―――……」

 僕は彼の名を呼ぶ。
 そして、空が消えた。
 そして、廃墟の大地が消えた。
 驚愕の表情を浮かべた彼の顔も、光の中に消えていく。僕もまた消えていく。……違う、還るだけだ。
 元あったように、弟の中の存在に、戻るだけ。
 そして、瞬間、全ては光にとけて―――
 

 


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