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「ねえ、父さん」
「なんだ?」
「自分でも覚えてない記憶が残ってることって、あるの?」
 それは夕食の後だった。父さんは新聞を読んでいたが、手を止めて、僕のほうに振り返ると、なんだか妙にうれしそうな顔をした。僕に質問をされたことが嬉しかったのか。
「あるよ。と、いうよりも、記憶というものは基本的には消えないものだ。脳がそもそも破壊されないかぎりはね」
 座りなさい、と父さんはソファのとなりをたたいた。僕はとなりにちょこんと座った。
 夜だった。窓の外で明るい月がつぼんだ花を照らしている。遠くで虫がやたらと鳴いていた。
「そうだな、記憶というものには、そもそもいくつかの機能があるんだ。まずなにかを認識するという機能。それから、記憶そのものという機能、なにかを記憶する機能だ。それからそれを思い出す機能。そして、それを自分の記憶だと確認する機能。その全てがきちんと働かない限り、記憶というものは自分のものだと確認されない。……分かるかい?」
 僕はすこし考えた。
 見る機能、記憶する機能、というのはまず分かる。ビデオになにかを録画するようなものだ。それから思い出す。それはビデオを再生するようなものだろう。そして確認。これは重要だ。たとえ映像が残っていても、それが自分の記憶だと確認できなければ、それが自分の記憶だと思うことはできない。
「ありがちなこととして、過去のことを思い出したとき、そこに『自分』の姿が残っているということがあるだろう。たとえばおまえが小さな頃に浜辺で砂のお城を作ったことがある、という風に父さんが言ったとする。おまえはそれを思い出す。……思い出せるかい?」
「うーん」
「そのときおまえはどんな色の水着を着ていたか、思い出せるかな?」
 そういう記憶はたしかにあったように思える。僕は考えて、あいまいに答えた。
「えーと…… 青、かなあ」
 父さんはとても満足げに笑った。
「これで証明できたな。それはたぶん、おまえの記憶じゃなくて、偽物の記憶だよ」
「えええ?」
 僕は混乱した。父さんはますます嬉しそうな顔になる。そもそも、こういう風に人になにかを解説するのが大好きな人なのだ。
「だって、おまえ自身の記憶だとしたら、そこにはおまえの視界しかないはず…… おまえは一生懸命砂の城を作っているんだから、砂の城しか見えていないはずだろう? おまえ自身の水着の色なんておぼえているはずが無いはずさ」
「あ」
 僕はぽかんと口を開けた。そのとおりだった。
 父さんは満足げに膝にひじをついて、指を組み合わせた。
「これは『再認』の機能がミスを起こしている例だな。つまり、その段階で自分の記憶じゃないものを記憶だと認識してしまう。そうするとその記憶はただしく思い出されることが出来ない」
「なんだか話がずれてるよ、父さん。……で、結局記憶って、消えるの? 消えないの?」
「消えない」
 父さんはきっぱりと言った。……それから、「あ、いや」と気弱に言い直した。
「いや、そういうことに関しては、まだわからないことがけっこうあるからな。正確なところはいえないが、でも、基本的には消えないと考えてもいいだろうな。なにかを思い出すことが出来なくなったり、それが間違った記憶に摩り替えられたりしてしまうのは、その後の記憶の再生や再認の段階で起こっているミスが原因であることが多い。ただの記録というだけの意味での記憶は、基本的には、脳内に蓄積されて消えることは無いらしい」
「じゃあ、マインド・ミラーに映し出される記憶っていうのは、その『再生』や『再認』には左右されないことが多いの?」
「なんだ、あのレンズの話だったのか」
 うん、と僕がうなずくと、父さんは神妙な顔でうなずいた。
「それがあのマインド・ミラーのすごいところなんだ」
 父さんが説明するところによると――― マインド・ミラー、僕のレンズの写す記憶というのは、正確な意味での『記録』にすぎない記憶なのだという。まったくエラーのない、ただの純粋な記録としての記憶。そこにミスは無いし、自分ではそのときに認識していなかったささいなものすらも再生される。たとえば目の端でちらりと見ただけの車のバックナンバー、ページをぱらぱらとめくっただけの本の中身を『再生』することすら可能になる。
「マインド・ミラーは無限の可能性を持った新素材だ。まだ生産体制が整っていないけれど、完全に生産されるようになればありとあらゆることがらが変化するきっかけになるとすら言えるだろうな。ようするに、人間に『完全な記憶』をもたらすことができるんだから」
 ただ、その記憶というのは、視覚の記憶に限られるということがポイントだけどな、と父さんは言い添えた。
「もしこれが五感すべてにかかわっていたら…… たとえば仮想現実の実現が可能になるかもしれない。ただの視覚記憶だったら映像記録とあまり差がないからなあ。そこが残念といえば残念なポイントなんだが……」
 父さんはなにやらぶつぶつとつぶやきだしてしまったので、僕はさりげなく、「飲み物を取ってくるね」といってソファを立った。こうなってしまった父さんにかかわっていてもろくな返事は返ってこない。科学者というのはやっかいな人種だ。もしかしたら父さんだけの話なのかもしれないけど。
 台所に行って、母さんが冷やしておいたハイビスカス・ティーを冷蔵庫から出してくる。母さんが作ってくれるハイビスカス・ティーはとても美味しい。あざやかな赤色をした液体をコップに注ぎながら、僕は考えた。
 マインド・ミラーが映し出すのは真性の記憶そのもの。
 ……だということは、あの雪は、あの少女は、間違いなく僕の記憶の中にあるものだということになる。
 僕には分からなくなる。僕はこの島を出たことなんて無い。すくなくとも記憶の中にある限りは無い。あんな記憶なんてあるわけがない。まして、あんな少女には見覚えが無い。
 あんな子は知らない。彼女の姿はどことなく僕を不安にさせた。レンズのなかに降るしずかな雪とはまったく違う。思い出したくないようななにかが、彼女の姿にはあった。
 妖精のような風貌の娘だった。それも、檻に閉じ込められて痛めつけられた妖精のような風貌だった。籠に閉じ込められて、羽がボロボロになった蝶のような、そんな姿。
 薄茶色をした、悲しそうな、大きな瞳。やせて小さな顔。真っ白い肌。ふわふわともつれて顔の周りを縁取った茶色い髪。
 思い出していて、手が止まっていた。母さんが台所を覗き込んで、「お茶を飲むの?」と声をかけて、ようやく僕は我に返る。
「う、うん。父さんとね」
「あ、私も飲みたいな。お菓子、買ってきてあるのよ。棚に入ってるからいっしょに食べましょう」
「うん」
 コップに放り込んだ氷が、からん、からん、と音を立てた。母さんが棚を開けて、揚げた菓子を入れたビニール袋を取り出してくる。黒砂糖を入れた揚げ菓子。素朴な甘さは僕の好物だ。
 ハイビスカス・ティーのさわやかな酸味と、黒砂糖の素朴な甘さ。そんなものに意識を集中して、少女のことを忘れようとする。でも、忘れることは、どうしても、できそうになかった。



 それ以来、レンズを覗き込むと、少女の姿は繰り返し現れた。
 彼女はたいてい僕のことを見つめていた。かと思うと、横顔であることもあった。雪降る景色の向こう、硝子に映るおぼろげな姿。僕はそれを視界の端で見ている。可哀想な彼女のことを。
 肩までの髪はふわふわとして細く、柔らかく、もつれて横顔を覆っていた。鼻梁が高く、頬骨のめだたない顔立ちがあどけない。けれど、大きな目の下に薄青く浮き出た隈が、やせほそった手足が、そんな妖精めいた愛らしい容姿を台無しにしていた。いつも身に付けている地味でくたびれた服装も、またそうだった。安っぽいワンピース、それに、毛玉のできたセーター。プラスチックの髪留め。
 彼女からは被虐と不幸のにおいがした。いつもおびえていて、悲しそうだった。それを見ていることしかできないということは僕をひどくつらくさせた。同時にいらだたせた。どうしてこんなみじめな姿を僕に見せ付けるのか。僕を不快にするのか。でも、その不快さのなかには、ぬぐいがたい懐かしさがあった。そう、彼女は僕にはとてもなつかしかった。降り続ける雪と同じくらいに、懐かしかった。
 実際、考えてみるとそれはとても奇妙なことだった。彼女の身にまとっている孤独と不幸は僕にはまったく縁の無いものだ。
 僕が暮らしているのは光のまぶしい南の島で、僕にはやさしい両親がいて、いっしょに遊ぶことは難しいにしても親しい友人もいた。
 僕は彼女とは違う。僕は満たされていて、幸せだ。まるで夢のように。
 なのに僕は彼女から目を離せない。僕はレンズを目に当てて覗き込む。降り続ける雪の向こうに彼女の姿をさがす。
 ……なぜ、なのだろう?




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