6



 翌日、空は、すばらしく晴れ上がっていた。
 空は磨いた土耳古玉、雲は見事に彫刻された大理石。そして太陽。光り輝く金剛石のように、万色を混ぜて白となった光を降り注がせる太陽。
 眠れない夜につかれきっていた僕には、その日差しはあまりにまぶしすぎた。いつもよりも深く麦藁帽子を被り、赤土の道をざくざくと踏んで歩いた。左右にはサトウキビの畑が高く伸びて、熱い風になびいている。
 学校は休みだった。こんな日、いつもは僕は家の中で過ごす。花蔦の絡みついた涼しいポーチと、やや埃っぽく、ひんやりとした空気の満ちた書斎。そんな場所が僕の場所で、こんなまぶしすぎる太陽の下は僕の場所ではない。
 でも、焦燥が僕の中で僕を突き動かして、じっとしていることが出来なかった。僕は朝、友人に電話をかけた。彼は珍しい僕からの誘いに驚きながらも、いつもの岬で待っていてくれると言ってくれた。僕はポケットにあのレンズを、筒にした絵を肩掛けのバックに、海へと歩いた。
 暑い、というよりも、熱い。歩いていると、ぽたぽたと顎から汗が垂れた。
 遠く逃げ水が光り、陽炎がかなたを揺らめかせていた。黒い蝶がひとひらの影のようにひらひらと飛び回る。道の傍らだと野生の潅木が真っ赤な花を咲かせていた。
 むき出しの手足は、日焼け止めを塗り、長袖を着ているにもかかわらず、ひりひりと痛んだ。この日光は非実体ではなく実体だと思う。触れることの出来る密度と質量を持ち合わせた日光だ。
 けれど、この上もなく透明で、黄金で、それでいて万色の日光は、とても美しい。
 そう、この島は、とても美しい。
 ゆるく登った土手の頂点でいちど足を止めて、手で額の汗をぬぐった。見下ろすと、一面のサトウキビ畑の向こうに海が見えた。青い硝子のようにうつくしい海が。
 この島に住んでいるとわかる。海は、一色ではない。海にはすべての色がある。
 ただ一瞥しただけでも、浅い瀬の淡い緑から、深みの浅葱、碧へと色が移り変わり、深みで透明感のある藍へと色を変えていく様が見て取れた。そしてあの海は生き物達の宝庫だ。さんご礁に群れる魚達はどんな宝石よりも美しい。この島の傍では、イルカや海がめの姿を見ることすらできる。
 生まれたときから住んでいた、見慣れた景色。でも僕はそのとき、高みに足を止めて、その光景に見とれた。
 浜辺に群れた潮に根ざす木々。潮騒のようになびきながら、海へと続くサトウキビ畑。
 こんなに美しい土地は、他に無い、と僕は思う。強く思う。
 僕の故郷は、世界で一番美しい。
 でも…… だとしたら、なぜ、スノウ・ドームの向こうの景色にあこがれる?
 僕の手の中にはスケッチがある。レンズの向こうの少女のスケッチが。
 あれは、僕だ。
 今の僕には、そう確信があった。
 記憶の中に姿があるのはおかしい――― と父は言った。
 でも、記憶の中の彼女は、いつも僕のほうを向いていなかっただろうか? そうでなくても、横顔ではなかっただろうか。
 あれは、鏡に映った僕自身…… 少女自身の記憶なのではないだろうか。
 痩せやつれて、かなしそうな、従順な眼をした彼女。
 あれが僕だなんて信じたくは無い。だいたい不自然だ。僕は男だし、子どもだし、あんなふうにやつれてはいない。推測だけれど、彼女は両親と暮らしていない、もしくは、まともな養育を受けていないように思えた。そうでなければなんらかの病に冒されているのか。彼女の悲しそうなまなざしには、そんな、被虐の匂いがまとわりついていた。
 なのに、僕には彼女が懐かしい。
 この美しい島の光景。なのに、僕はどことはなしに、自分自身を異分子のように感じている。
 この肌の、髪や瞳のせいなのだろうか? 僕は日光に弱い体質だから、友達の彼のように太陽の下で思いっきり遊びまわり、はしゃぎまわることはできない。でも、だからといってなんだというのだろう。日よけさえしっかりしていればこの島でも十分に僕は暮らせる。母はこの島の生まれだから、親戚だってたくさんいる。
 ここにいることに対する違和感。それには、なんの根拠も存在しない。
 でも、なんで僕は、自分がここにいることに違和感を感じるんだろう。まるで絵葉書の上に、切り取った別の写真の人物を貼り付けたような、そんな、コラージュされたような違和感。
 僕はポケットからレンズを取り出す。レンズを覗き込む。すると、そこには雪が降っている。
 レンズはひやりとして冷たい――― 錯覚だ。実際には僕の汗ばんだ手のひらの温度に温まっている。
 本物の雪を見たら、と僕は思った。
 この島には雪は降らない。決して。けれど、もしも本当の降りしきる雪の下に立ったなら、僕は、そこがふるさとであると感じることができるのだろうか? 見たことも無い雪を肩や手に受けながら、そこで、真のやすらぎを得られるとでも?
「おおーい!」
 ぼんやりと立っている僕の意識を、ふいに、そんな声が醒ました。
 はっとして目を上げると、道の下のほうで友人が、彼が手を振っていた。水着の上にTシャツをはおり、ビーチサンダルを履いただけという格好だ。
 彼は走ってくる。僕もあわてて歩き出す。
「遅かったなあ、なにぼんやりしてんだよ!」
「う、うん。ごめん」
 今日はまだ泳いでないんだろう。潮焼けした髪は乾燥したままだ。彼の家は海の傍だから、わざわざ丘の上にある僕の家まで迎えに来てくれたということになる。
 彼はふざけたように僕の頭を軽くたたいて…… それから真顔になる。僕の手にしたバックを覗き込んだ。
「それ、おまえの書いた絵?」
「うん」
 彼はすこし黙った。それから踵を返して、「行こう」と言った。
「ここじゃ熱い。氷ぜんざい食いながら見ようぜ」
 浜辺の傍には、喫茶も併設された駄菓子屋がある。氷ぜんざい、というけれど、実際はカキ氷だ。煮豆の上に氷をたっぷりと乗せて、白蜜をかけるのがこの島流だ。そこのぜんざいは、煮豆もカキ氷もたくさん入っていて美味しい。
「うん」
 僕もうなずくと、彼に並んで歩き出した。
 坂道をずっと下っていくと、ちいさな商店街を通りかかる。ほんの10軒ほどの店が並んだこの通りがこの島のメインストリートだ。駄菓子屋の店先にはゲームも並んでいるが、筐体は古くて日に褪せている。店先にガタガタになった木製のベンチが並べられて、日よけのすだれがかけられていた。彼が声をかけると店の奥から店番のおばあちゃんが返事をした。氷ぜんざいを二つ注文する。
「その絵、見せろよ」
「うん……」
 僕はバックから筒をだして、画用紙を広げた。
 画用紙には、2Bの鉛筆でかかれた線描と、色鉛筆で薄く載せられた彩色だけがある。そこに描かれているのは少女の顔だ。こちらを見つめるのではなく、わずかに視線をそらしている。まっすぐにこちらを見るように書くのが、なんとなく、恐ろしかったのだ。
 彼は両手で絵を持つ。僕はうつむく。彼女は僕に似ている。そう思う。
 アーモンド形の眼が、細い顎が、やわらかくふわふわとした髪と華奢な輪郭が、僕に似ている。似ているというよりも、彼女は僕だといったほうが正しいくらいに。年と性別が違うということを差し引いても、あまりに彼女は僕に似ている。そう思う。
 けれど。
「なーんだ、ぜんぜん別人じゃんか」
 彼が明るい声で言うので、僕は驚いて顔を上げた。
「え?」
「似てねえよ、ぜんぜん。別人だよ。……やっぱ、親戚の誰かとかなんじゃねえの?」
 嘘だ。
 直感するように、僕は思った。
 彼は僕の眼を見ずに、絵をくるくると丸めて筒に戻した。それからニッと笑う。おばあちゃんがぜんざいを運んでくる。
「え、なに、だって…… そんなに似てて……」
「似てない」
 彼はきっぱりと言い切った。それが、逆に嘘を明らかにする。
 彼も、思ったのだ。あの絵は『僕』だと。
 スプーンでざくざくとカキ氷を崩す彼を、僕は、唖然として見つめていた。「溶けるぜ」と彼はあっさりという。それからすこし真顔になった。
「あのさあ、おれが拾えって言ったのが悪いんだけどさあ、おまえ、あのレンズ拾ってから、ちょっとおかしいよ」
「え……」
「ユキが見えるとか、知らない女が自分だとか、なんだか変なことばっかり言ってるじゃんか。……それともなにか? おまえ、なんか今の生活に不満でもあんの?」
「そんな、こと」
 彼は僕をじっと見て、それから氷ぜんざいに向き直った。スプーンを口に運び始める。僕はうつむいた。自分の氷ぜんざいに手も付けずに、自分のひざを見下ろした。
 不満。
 今の生活に、不満。
 うつむいた僕にかけられた次の言葉は、とても優しかった。
「おまえさ、ちょっと父ちゃんと母ちゃんに似てないよな」
 いかついけれど優しい顔立ちの父さんと、おっとりとした丸顔の母さん。それに対して、もろそうな華奢な体つきに、色の白すぎる僕。
「それ、気にしてんの?」
「……わかんない」
「それにおまえ、色白いしな。日焼けに弱いから、暮らしにくいだろ」
 たしかに僕は麦藁帽子と日焼け止めをどの季節も手放せない。白昼はまぶしすぎて眼が見えにくいことすらもある。ときどきサングラスをかけたくなる。さすがに、この年でサングラス姿というのは怪しいからいやだなあと思ってるけれど。
 彼はざくざくと氷ぜんざいを食べながら、言った。
「そういうこと気にしててさあ、おまえにはもうちょっと別の土地のが合ってるんじゃないか、とか思ってるんじゃないのか? それがレンズに写ってるんだよ。でも、それってただの錯覚だとおれは思う」
「でも、マインド・ミラーには実際の記憶しか写らないんだよ?」
「だから3歳とか2歳とかそれくらいのころに葬式かなんかに行ったときの記憶なんだよ、きっと。そんな重要なもんじゃないんだって」
 でもそれが今の自分の気持ちと調和しているから、そんな気持ちになっているんだよ、と彼は言った。
「だからさあ、そのレンズがあるから悪いんじゃね? そんなもんなかったら、自分のそんな気持ちにも気づかないで暮らせたんだよ。そのほうが平和だったんじゃねえかなあ。だからもうそれ、手放したほうがいいと思う」
 手放す、だって?
 僕ははじかれたように顔を上げた。彼は真顔で、まっすぐに僕を見ていた。
「だってこれ、すごく、貴重なもので……」
「でも、持っててもいいことないじゃんか」
「……」
「捨てたほうがいいよ。海に返したほうがいい。そしたら、また平和に普通に暮らせるよ。なんにも不安なことなんてなくなるだろ」
 僕は自分の目の前に置かれた氷ぜんざいをみた。白いふわふわした氷が溶けかけていた。
 そのとおりかもしれない、と僕は思った。
 すべて、まぼろしなのかもしれない。……彼に言われてみると、その通りのような気もしてくる。
 僕はポケットの中のレンズを握り締めた。ふるぼけてゆがんだレンズの形を指先に感じる。
 降り続ける雪。記憶の中の少女。すべてまぼろし? そうなのかもしれない。そう考えたほうが合理的に説明がつく、と僕は思う。そんなイメージがあるのもなにかの偶然で、それをたまたま恣意的に拾い上げているだけなのかもしれない。
 でも、だとしたら…… 説明の仕様が無い、この郷愁はなんなんだろう?
 それすらも、まぼろしだと言うのだろうか?
 そして、それ以前に。
「……君、どうしてそんなにこれを捨てさせようとするの」
 彼はすこしぎょっとしたような顔をした。そう、それが僕の気になっていることだった。
 だって、僕がどう思おうが、何を感じようが、彼には関係の無い話だ。レンズを覗き込み、そこに拘泥するだけというささやかな行為。それを彼がそんなに気にする必要なんて無いような気がする。無論、ただ友人がふさぎこんでいるのが心配なだけという可能性もあるのだけれど。
 彼はむっとしたような顔をした。そして、僕が思っていた通りのことを言った。
「おまえが心配なんだよ。それじゃ足りないか?」
「でも、それ以上は君のかかわることじゃないはずだ」
「いちいちうるさいなあ…… おまえおれの友達だろ? 友達じゃないのか?」
「と、友達だよ! 決まってるじゃないか!」
「だったら友達の心配をするのはあたりまえだろ!」
 彼の強引な言い方に、僕のほうが驚く。彼は唐突に立ち上がった。僕の手をむりやりひっぱり立たせようとした。僕は悲鳴を上げた。
「痛い!」
「行くぞ! それを捨てるんだよ!!」
 彼は氷ぜんざいの代金の小銭を音高くベンチに置くと、そのまま歩き出す。麦藁帽子を置きっぱなしにしてきたから、強烈な日差しがもろに頭から照りつけた。一瞬視界が真っ白になる。
 駄菓子屋から海へはほんの少しの距離だ。足元が砂利の感触からごつごつした石灰岩の感触に変わる。藪に踏み込む。日差しが瞬間さえぎられ、次の瞬間、ふたたび強烈に降り注いだ。
 そして眼が光に慣れると――― そこは岬だった。
 高くは無い。ほんの数メートルだ。でも、上ったことの無い岬の高さに僕の足はすくんだ。鳥が飛んでいた。足元で藍色の海が泡を噛んで渦巻いていた。
 突き出した岬の向こうに、ほとんど視界の広さ以上に、水平線が広がっている。
 水平線は、そのかなたで空と交わっている――― 青い空と藍色の海が。そのはざまを鳥が飛ぶ。風に乗り、誇らしげに翼を張って、白い鳥が舞っている。
「さあ、ここから捨てるんだよ!」
 彼は僕の手を離さない。握り締められた手首が痛い。
「それさえなければ、ずっとこの島で暮らせるんだ!」
 その言葉の不可解さが認識されるよりも先に、もう片手から、レンズがもぎ取られた。一瞬だった。彼がきれいなスローイングの体勢で腕を引く。そしてその腕が、弓を放つように…… 放たれた。
 僕は悲鳴を上げた。
 レンズが高く飛んだ。光を受けて七色にきらめいた。
 その瞬間、いくつかのことが同時に起こった。
 僕が彼を突き飛ばした。
 僕のかかとが地面を蹴った。
 精一杯に伸ばされた僕の指先が、レンズを掴み―――

 僕の体は、宙に投げ出されていた。

「―――……!!」
 彼が僕の名前を呼ぶのが、奇妙にまのびして聞こえた。悲鳴のように。
 けれど、僕の体は宙に投げ出され、そのまま、ゆっくりと、まるで溶けた硝子の中を落ちていくようにゆっくりと、落ちていく。真下の海へと。泡を噛んで渦を巻く海へと。
 けれども、僕は彼を見ていなかった。
 眼下で渦巻く海も、足の下になった空も、すべてを見なかった。
 僕が見ていたのはレンズの中だった――― レンズの中から、少女が僕を見つめていた。
 藍色の空。雪が降っている。その前に、少女がいる。
 かぼそい手足。白すぎる肌。眼の下の薄い隈。ふわふわともつれた髪が白い顔を縁取って。
 そして、薄茶色のおおきな眼。
 色の無い唇が…… 動く。

『 ハ ヤ ク 目 ヲ 醒 マ シ テ 』

 それが、いったいどういう意味なのかを認識も出来ないうちに、僕の体は激しく海面にたたきつけられる。
 幾億の真珠のような泡に全身を包み込まれ、藍色の闇に飲み込まれて、もみくちゃにされて、なにか固いものに頭がたたきつけられ―――
 僕の意識は、そこで途切れた。




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