8
窓の外で、小鳥が鳴いてる。
うすく開いた目に映ったのは、見慣れない白い石膏ボードの天井だった。蛍光灯と白い壁。そして、ベットの周りを囲んでいるカーテンレール……?
「ねーねー、大丈夫か!? ねーねー、ねーねー!!」
傍らから、あせったような響きの声が聞こえた。誰かの手が僕の手を握り締めている。僕はのろのろと横を向く。すると、そこには、日焼けした肌の少年が、必死の顔で立っていた。潮焼けして茶色っぽくなった髪。まだ子どもっぽく華奢だけれど、その俊敏さを思わせるような、しなやかな印象の手足。
あれ、どうして君がいるの、と僕は一瞬混乱した。
ついさっきまで、僕らは岬にいて、彼がレンズを海に向かって投げて、それを取ろうと僕が岬から身を投げて……
何かを言おうとしたけれど、出てきたのは絡んだ咳だった。咳き込みだすと止まらない。肺がおかしいらしい。体を丸めて咳き込む僕に、彼はあせったような顔をして手を伸ばした。ベットの傍らの小さなテーブル。そこには、ミネラルウォーターのミニペットボトルが置かれていた。
「ほら、水、ねーねー!」
手渡されて、震える手で受け取る。横になったままでペットボトルの中身を飲むのはけっこう難しかった。水がこぼれて、僕はさらにむせ返った。でも、ぬるくて鉱物くさいその水は、いくらか僕の喉をなだめてくれたようだった。咳が止まる。
「あ、ありがと……」
やっとの思いで例を言い、ペットボトルを返すと、彼はやっとほっとしたような顔をした。ベットの傍らに置かれていた椅子を引き寄せ、腰をかける。
「もう、ねーねー、心配させんなよ。さっきから変な寝言ばっかり言ってさ」
ねーねー?
何のことだ? 呼びかけ? 僕が混乱していると、彼は、ふと、不安げな顔をした。僕の顔を覗き込むようにして、「大丈夫か?」とまた言った。
「大丈夫だけど、その……」
心配しないで、と手を軽く振ろうとして、僕は、その腕の長さに違和感を覚えた。
その手を、目の前にかざす。広げられた手のひらを見て…… 僕は、仰天した。
見たことの無い、手。
ほっそりとした白い指と、深爪気味なくらいに短く切られた爪。女性の、もっと言うなら少女の手だ。僕の手じゃない。
僕の手、じゃない……?
頭が混乱する。僕は、ベットの上に起き上がると、あわてて両手を確かめる。
細い手首。白い腕。肌は肌理が細かくて、磁器のように無機質な印象だ。人形のようにつるつるとした手。
ベットの隣は窓だった。窓の外に緑の梢が伸びている。だが、そんなものはどうでもいい。僕の眼を釘付けにしたのは、そこに写っている人影だった。
一人の少女が、ベットに、座っている。
肩ほどの長さで切られた、ふわふわとしてやわらかそうな茶色い髪。そんな髪にふちどられた、卵形の白い顔。薄い肩。細い首。
誰だ、これは?
僕の沈黙をどう思ったのか、ベットの傍らに座った彼が、「大丈夫か、ねーねー?」とまた言った。
「変な顔してるぞ。なんか夢でも見たのか?」
「僕は、君は、ええと、ここは、その……」
混乱して質問が上手くまとめられない。戸惑っている僕を見て、彼は、ふっと笑みを漏らした。ちょっとあきれたような、悪戯っぽい笑み。
「おれはねーねーの弟。ねーねーは15歳。俺の姉。ここは病院。園じゃないよ」
「弟……? 姉……?」
「入院し始めてから今日で三日。大丈夫か? 寝ぼけてんじゃねーのか?」
僕はやや呆然として、彼のほうを見た。
日焼けした顔。短くて潮焼けした髪。まだあどけない中にも精悍さの見える顔立ちには、たしかに覚えがある。彼は僕の友達。島の学校のリーダー格。釣りと素潜りが得意な島の子ども……
……いや。
違う。
ぼやけていた頭の中身が整理されるにしたがって、次第に、現実と夢が分離していく。一度かき混ぜられた水と油が、ふたたび二つの層に分かれていくように。
違う。彼は、いや、これは僕の弟だ。年は11歳。たったひとりの僕の肉親。
ちっとも似ていないとよく言われる。色が白くて華奢な僕と、健康的に日焼けした機敏な弟。でも、僕らはまぎれもなく、たった二人の姉弟だった。児童養護施設『ふたば園』に、まだほんの子どもの頃から暮らしている姉弟。
「あの…… ちょっと、鏡、ない?」
「鏡?」
なんだよ、と弟はちょっと驚いたような顔をするが、すぐにベットの傍らのテーブルの下を探して、二つ折りの化粧ミラーを見つけてきてくれた。僕は鏡に顔を映してみる。まぎれもない、僕の顔を。
そこに写っているのは、15歳の、痩せた少女の顔だった。
卵型をした顎の細い輪郭。繊細な鼻の線と、薄めのくちびる。そして、おおきな眼。きれいなアーモンド形の眼と、特徴的な薄茶色の瞳。濃いまつげに縁取られている。愛らしいといえないこともない、でも、ちょっと生気の足りない人形みたいな顔立ち。
首筋は細くて、薄い皮膚に静脈が透けていた。肩も薄く、なんだか全体的に紙細工みたいに薄っぺらい印象を与える。でも、それはとても見覚えのある顔。まぎれもない僕の顔だった。
「なんか寝ぼけてんな、ねーねー。南の島で暮らす夢でも見た?」
僕の弟だと名乗った彼は、可笑しそうに笑った。
「あ…… うん」
「しっかりしろよー。いくら家が丸焼けになったっつっても、もう三日も立つんだからさあ。そろそろしゃきっとしないと」
家が丸焼け? どういう意味だ。僕の顔でそういうニュアンスを読み取ったんだろう。呆れ顔をしながらも、弟は説明をしてくれる。
「家ってのはおれたちの暮らしてた『ふたば園』のこと。三日前の火事で丸焼けになっちまったんだよ。そこで煙を吸ったから、ねーねーは入院、おれはここの隣の児童養護施設に仮泊まり。ほんとにおぼえてないの?」
「お、おぼえて……」
ない、と答えようと思いかけたとき、頭の中でなにかのパーツがカチリとかみ合った。
「……る」
弟はほっとしたようにちょっと笑った。
「いくらねーねーでもボケすぎだと思った。よかった。普通じゃん」
僕は、座ったまま、さっきまでの夢の内容を反芻しようとする。
悪夢ってわけじゃなかった。むしろ、とても快適な夢だった。僕は15歳の少女ではなく、まだ10・11くらいの少年で、南の島で両親と共に暮らしていた。
海が碧くて、砂の白い、美しい島。そこには弟もいた。なぜか弟は僕の弟ではなく友人で、でも、やっぱりちょっと間の抜けている僕の世話をなにくれと焼いてくれていた。いっしょに釣りをしたり、浜辺を歩いて面白そうなゴミを拾ったり。
そう、そういえば、夢の中でも、僕は、僕が自分自身…… ほんとうは15歳の少女だということに、なんとなく気づいていたのだ。
浜辺で拾った奇妙なレンズ。その中に写っていた顔と、今の自分の顔が同じだということに、僕は思い当たる。
そうか、あれは僕だったのか。『記憶を映し出すレンズ』。なるほど、夢の中ですら、現実を見せてくれるレンズだったと見える。そう思って僕はひどく妙な気持ちになった。
あのレンズに写っていたのは、実際の僕よりだいぶんやつれてはいたが…… たしかにまぎれもなく僕だ。夢の中では少年になりきっていても、僕はどうやら、自分が実際は女であるということを忘れていなかったと見える。
いくつか頭を振ると、髪の毛がふわふわと揺れた。ようやく頭がしゃっきりしてくる。現実認識が明確になる。
そんなとき、ふいに、足音が聞こえた。弟が顔を上げ、「あ、せんせい」と言う。僕も眼を上げる。
よく見ると、そこは、ベットが6つ並んだ、病院の大部屋だ。
毛糸を編んでいる老婆や、ギプスの脚を吊った短髪の少女。そんな患者達の間を、白衣に聴診器を下げた先生が歩いている。その先生の顔に僕はぎょっとした。なぜなら、それは夢の中では僕の父親として出演していた人の顔だったからだ。
「せんせー!」
「ああ、君か。またおねえさんのお見舞いかい?」
弟に声をかけられて、先生は、笑いながら振り返った。四角い顔に濃いひげ。なんだか熊みたいな顔。夢の中での『父さん』。
ベットの傍らにやってきた先生は、カートを押してきた丸顔の看護婦…… なんとこっちは夢の中の『母さん』だった…… から、銀色のへらのようなものを受け取る。そして、僕に向かって、「あーんして」という。
いわれたとおりの僕の口の中に銀のへらを入れ、先生は、喉の奥を覗き込んだ。
「うん、うん。赤味もだいぶ引いてきたな…… 咳は? 胸は苦しくない?」
「咳は…… ちょっとだけ。胸は別に……」
ふんふんとうなずくと、先生は看護婦にカーテンを引くように指示した。そして私の寝巻きの前を開けさせると、胸に聴診器を当てる。ふくらみの少ない薄い乳房。
「うん、だいぶいいな。まだ念のためにちょっと入院してもらったほうがいいと思うけど、まあ、基本的にはもう大丈夫だよ」
「あの、先生」
「なんだい?」
妙なことを聞いてる、と思われるんじゃないかなと思って、僕はおずおずと切り出した。
「僕…… どうして入院してるんですか?」
案の定、先生は目を丸くした。
「君は、前、『ふたば園』の火事に巻き込まれたんだよ。そのときに荷物をとりに火の中に戻って、煙を吸い込んだんだ。それで丸一日意識を失っていたから、ここに搬送されたんだよ」
「火事? どうして?」
先生はなぜだか返事に口ごもり、困ったように僕を見て、それから、弟を見た。弟はうなずいた。
「ねーねー、寝起きでちょっとボケてるんだよ」
「ああ、君は寝起きがよくないかい?」
先生はちょっと苦笑した。弟は大人ぶった口調で言った。
「あとはおれが説明するから、いいです」
「そうか。じゃ、薬を出しておくから飲んで置くように。あと、検診の時間を忘れないようにね」
看護婦が透明な袋にパッキングされた圧縮錠剤をテーブルにおいてくれた。薄紫色と白の錠剤だ。
それだけいうと、先生は「またあとでね」と笑って踵を返した。そして、看護婦をつれて、部屋を出て行った。
それを見送ると、弟は周りを見回して息を潜めた。しゃっ、とカーテンを閉めた。ベットが部屋から遮断される。
「ねーねー、あんまりボケんなよ」
あきれたような口調で言う。そして、声を低くして、僕の耳元に口を寄せた。
「……あんまり大きな声じゃ言えないんだからな。放火で家が丸焼けなんて」
「放火!?」
弟はあわてた様子で、口元に一本の指をあてるそぶりをした。
「だから大声で言っちゃ駄目なんだってば! ……そうだよ、放火だよ。入園者のひとりが、園に火をつけたんだ」
僕は絶句していた。なにがなんだか分からない。
「もとからなんか暗いやつだったけど、まさかあそこまでやるとはなぁ…… でも、ま、よかったんじゃん? ねーねーも無事だったんだし、あのろくでもない園から出られたんだから」
まあ今後の行き先はわかんなくなっちまったけどな、と弟は内容に合わない軽い口調で言った。
「で、ねーねーは平気か? まだ寝る? もう起きる?」
「……」
なんだか頭の中がもやがかかったよう。聞いたことに驚いているのか。そんな僕の顔を見て、弟は気を利かせたらしい。また、ミネラルウォーターのボトルを手渡してくれた。
「薬飲んで寝てろよ。入院中はいくら寝ててもタダなんだから」
「う、うん」
「おれは隣に戻るよ。なんかあったら電話で呼べよな」
それだけ言うと、またくるから、と言って弟はカーテンの間をくぐっていった。
何がなんだかわからないが、とりあえずパッケージを開けて薬を出し、薬を飲んだ。それからカーテンを開けて窓の外を見る。そこに広がっているのは、なんの変哲も無い、平凡な街の光景だ。
観光にも産業にもあまり縁の無い、ごく普通の、地方都市。
病院の構内には木々が植えられ、ケヤキやクスノキが緑の葉を風になびかせていた。花壇には色鮮やかな花が植えられ、車椅子の老人が介添えに付き添われて散歩をしている。薄く白を混ぜたような空の色。なんの面白げも無い、ごくごく普通の、街の光景。
なのに、なんだか妙な違和感を感じる。僕はあわてて頭を振った。まだ寝ぼけている。なんてこと。
暮らしていた園が放火されて全焼した、という話。
そんな重大な事件の話なのに、聞いてもまるで現実感が無い。焼け出されて入院? 丸一日昏睡? 何のことやらさっぱりだ。でも、たしかにそれが事実だと認める声が心の中にある。
ついさっきまでは、たしか、南の島にいた。海と空の美しい、浜辺の白い、さとうきび畑の島。花があざやかに咲き誇り、蝶の飛ぶ島。
あれが夢? これが現実? でも、リアリティに関しては大差が無い。それでも、目を覚ましてしまった以上、これが現実なんだと認めざるを得ない。そういえばあの夢の中で、『記憶を見せてくれるレンズ』が見せたのも、鏡に映ったと思しい僕の顔だった。
なんだか妙に頼りない気分で、また、顔を確かめたくなる。僕はとなりのテーブルに手を伸ばし、化粧ミラーを取った。……その拍子に何かがテーブルから落ちて、床にカチンと音を立てた。
それは、何か、硝子のかけらのようなもの。
……波に洗われたようにゆがんだ、直径三センチほどの、ちいさなレンズだった。
僕はおどろき、床に落ちたレンズを、しげしげと見下ろした。
かすかに残る虹の光沢。大きさに比して分厚い硝子。手を伸ばす。拾い上げる。手の中で転がしてみるそれは…… 間違いなく、夢の中で拾ったレンズだった。
夢の中で拾ったレンズが、現実に、あらわれた?
そんな荒唐無稽な空想が、ふいに頭をよぎった。あわてて僕は首を横に振った。すこし遅れてふわふわした髪も揺れた。違う違う。たぶん逆だ。現実で持っていたレンズが、夢の中に現れたのだ。記憶を見せるレンズとかそんなご大層なものじゃなくて、ごくごく普通の、がらくた小物のレンズが。
でも。
恐怖に似た奇妙な期待。僕はおそるおそるレンズを摘み上げて、窓の外の光に透かしてみる。
レンズの中には―――
……藍色の闇に、雪が、降っていた。
スノウ・ドームの、ように。
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