3


 じりじりと、小さな少女が、埃まみれの廊下を匍匐前進していた。
 目の前だと、犬ほどもある大きな蜘蛛が、糸でぐるぐる巻きにした鼠から体液を吸っている。ひさしぶりの獲物に夢中の様子には、少女に気づく様子も無い。少女は蜘蛛から眼を離さず、じりじり、じりじりと近づいていく。腕や足が埃まみれになるのもお構いなしだ。
 そして。
「えーいっ!!」
 少女が声を上げて飛びついた瞬間、蜘蛛は、とんでもない勢いで飛び上がった。
 少女が伸ばした腕をぎりぎりでかいくぐり、ものすごい勢いですっとんでいく。獲物も何も置いたままだ。少女は慌てて蜘蛛の後を追いかけようとするが、相手には八本も足があるのだ。追いつけるはずが無い。
「ああん、もうちょっとだったきにー!!」
 地団太を踏んで悔しがる。そんな少女に、背後から、野太い声がかけられた。
「おうエウリィ、どうしたきに?」
「あ、おとん〜」
 少女の背後から現れたのは、雲突くような体格の、灰色トロールだった。
 巌を削りだして作り出したような太い足、太い手。鑿で削ったような腹筋。きわめつけは瘤のような角だらけの頭に張り出した額。けれど、少女は怖がる様子も無くトロールに駆け寄ると、その膝を足がかりに、するすると肩まで這い登った。
「あのな、あのなおとん、ウチ、美味そうな蜘蛛見つけたねんけど、逃がしてしまってん」
「ほうかー。惜しかったのう」
 トロールいとしそうに眼を細めると、ごりごりと少女の頭を撫でる。短く刈られた少女の巻き毛は赤みかかった琥珀色だ。眼の色はエメラルドのような鮮やかな翠だった。眼の円らな愛らしい顔立ち。身に着けているのはシンプルな貫頭衣だったが、手足には様々な宝飾品がたっぷりと飾られている。そのどれも魔よけの効果を持つものばかり。
 彼女こそが、灰色トロール…… ドウムが7年前に拾ってきた赤子の成長した姿だった。
 肩に少女を乗せたまま、ドウムが歩いていくと、目の前の通路にとぐろを巻いた蛇体が現れる。窓から差し込む日光に、鱗が虹色に光っていた。その首のあるべき場所からは美女の上体が生え、長い水銀の髪を肩からたらしていた。言うまでもなくラミア、もっというならメルリエという名の女である。メルリエはドウムと少女を見つけるとフレンドリーに手を振る。
「やっほー、ドウム、エウリィ。元気ぃ?」
「あ、メルリエー!! こんちわー!」
 少女はドウムの肩から器用に滑り降りる。そして、今度はメルリエに正面から抱きついた。豊満な乳にほお擦りをすると、メルリエはいとしそうにその頭を撫でさすった。
「ふふ、また大きくなったかしら」
「メルリエ、前にウチと会ってからまだ三日しか経っとらんで?」
「人間って成長がはやいんだもの。三日もしたら倍くらいになっちゃうんだから」
「そがなわけあらへんもん」
 ぶー、と膨らませたほっぺたを、指先でつついてへこませて、メルリエはうれしそうに微笑む。その笑顔はまるっきり子供に甘い母親のそれだ。

 ドウムとメルリエが、拾ってきた赤子をおいしく食べるべく育成することを決めて7年――― 彼らは、すっかりそのはずの赤子に骨抜きにされてしまっていた。

 一年目は、それでも、なんとか食べるつもりでいた。けれど、赤子がドウムのことを「おとん」と呼び出した時点ですでにもう駄目だった。二人は食べるはずだった赤ん坊にすっかり骨抜きにされてしまい、名付け親まで見つけだし、かいがいしく面倒をみて、わがままを言われても満足に叱れないという体たらくに成り下がってしまっていたのだ。
 そして、今日はその『名付け親』に会いに行く日――― ドウムが赤子を拾った、いわば、彼女の誕生日とも言える日だ。
 少女の目の前に、崩れた瓦礫がある。その影で、一つ目の鼠が顔を洗っていた。見つけた少女はぱっと顔を輝かせると、とたんに足音を潜め始める。今度こそ間違いなく捕まえるつもりなのだ。そんな少女をほほえましく眺めながら、メルリエとドウムは苦笑顔を見合わせた。
「なんでこうなっちゃったのかしらねぇ」
「うむ…… 仕方のない話じゃったんかもしれんきに」
 そもそも、彼女がただの乳を飲むだけの赤ん坊ではなく、ちょっとづつ成長し始めたあたりから、話がおかしくなりはじめたのだ。
 自分ひとりで寝返りを打てるようになり、地面をはいはいで歩き回るようになり、周りにあるものをなにかにかまわず口に入れるようになる。とうとうモノにつかまって立ち上がったときには、不覚にもドウムもメルリエも感動を禁じえなかった。言葉を口にするようになるに至ってはもはや言及すら必要ないほどだった。そもそもラミアもトロールも親に育てられるものではなく、自分ひとりで育つ生き物だったということも関係があったのかもしれない。
 ドウムも、メルリエも、そもそも親というものの記憶が無い。気づけば自分ひとりで暮らしていたし、仲間らしい仲間というものが身近にいた記憶も無かった。この黒鳥城に住んでいる限りは友人というものには不自由はしないが、『家族』というものを手に入れたことなんて一回だって無かったのだ。ところが自分たちが食べるつもりで育て始めた人間の子供は『家族』というものになり、懐に滑り込んできてしまったのだ。その瞬間、二人はもう陥落させられてしまったも同然だった。
「そげな遠くへ行ったらいけんでー」
 ドウムは慌てて声をかける。一つ目鼠を追いかけて、気づけば少女は遠い角を曲がるところだ。ここは黒鳥城の上層部、群れを成して暮らすゴブリンやオークたちの街がある下層部に比べれば、危険らしい危険は少ないが、それでも気の荒い魔物に遭遇してしまうこともある。気の荒いキマイラやグリフォンなぞに出くわしてしまったら大変だ。
 黒鳥城の上層部は、迷宮同然の下層部に比べると、幾分整ったつくりになっている。
 そもそも黒鳥城は、数千年の昔からこの土地に存在する建造物だ。建物一つが巨大な街一つ分のサイズもあり、地下にも空中にも同じように広大に広がっている。地下にはあちこちが水没した巨大な迷宮が広がり、中層部には無数の部屋が無数の回廊でつながりあっている。そして上層部。そこには無数のテラスが存在し、繁茂した奇妙な植物たちが、空中の庭園を作り出している。
 ドウムはそもそもあまり日の光が得意ではない。灰色トロールのなかには、日光を浴びると一時的に石になってしまう者も存在する。長生きをしていて力の強いドウムはそこまでではないが、それでも、日光を浴びると体の動きが鈍くなってしまう。メルリエはどちらかというと湿気の多い水辺のほうが得意だから、下層部の水没した迷宮のほうが快くすごすことが出来る。そんな二人が連れ立ってこんな場所までやってきたのは、そもそも少女の『名付け親』に出会うためである。
 少女の『名付け親』は、この黒鳥城の主だ。二人が相談して彼に決めた。この魔物だらけの黒鳥城で人間が無事に生きていくためには、それくらい力のある名付け親がいなければいなければ駄目だろうと考えたからだ。
 孤高と思索を好む彼に、名付け親になることを了承させるのはとても大変だった。さまざまな宝物をありとあらゆる手を尽くして掻き集め、三顧の礼どころか何十回もアタックを繰り返した。そして、その甲斐はたしかにあったと二人は今でも信じている。おかげで少女はこの魔物だらけの黒鳥城の中にあって、本当の危険らしい危険に出会うことなく、この年齢まで育つことが出来たからだ。
 魔物からの、危険に対しては。
「エウリィ? エウリィ?」
 ふと、少女の返事が無いことにドウムは気づく。軽く不安を感じる。呼びかける。だが、返事は無い。
 見回すと、目の前の埃だらけのタイル床に、少女の足跡だけが点々と残っている。その足跡は角を曲がり――― ドウムは初めて焦燥を感じた。メルリエに目配せをする。そして、大またで走り出した。
「エウリィ!!」
 巻きついた蛇の装飾が施された、孔雀石の柱を曲がる――― 少女がぽかんと立ち尽くしている。その手に尻尾でぶら下げられた一つ目鼠がキイキイと鳴き騒いでいた。その目の前に、何人かの、
 人間が、いた。
「エウリィ!!」
 今度叫んだのはメルリエだった。たくましい蛇体がたわんだ。次の瞬間、メルリエの体が宙を跳んだ。その瞬間、少女の立っていた場所に、雷火がひらめいた。
「くそ、やっぱり魔物だったか!」
 叫ぶ声が聞こえる。ドウムはそちらを射殺しそうな眼でにらみつけた。そこにたっていたのは数人の人間だった。―――人間。この黒鳥城に人間がいる場合、その正体はたった一つしか考えられない。
 すなわち、冒険者。
 板金鎧を身に着けた戦士、軽装の女戦士、銀の鎖かたびらの精霊使い、ローブに杖を携えた魔術師、盗賊らしいホビット。5人連れのパーティ。少女に攻撃魔法をかけたのは、魔術師だ。ドウムの脳裏に怒りが燃え上がった。
「きさんら、よくもワシのエウリィに!!」
 少女はきょとんとした目でメルリエの腕に抱かれている。怪我はない。それだけ確認して安心する。ドウムは怒りに任せて拳を振り上げようとした。だが、それを制したのは、メルリエの鋭い叫び声だった。
「駄目よ、ドウム!」
 こんな階層まで上ってくるということは、相手は相当な高レベルの冒険者だ。戦って勝てないとも限らないが、回りへの被害が甚大になることは目に見えている。そうなった場合巻き込まれるのは誰だ? ……か弱い体しか持たない人間の少女だ。
「くっ」
 ドウムは呻いた。冒険者たちがいっせいに武器を構え、魔術師と精霊使いが詠唱を始める。
「逃げぇ、メルリエ!」
 足の遅い灰色トロールでは、この連中からは逃げ切れない。だが、足止めをすることくらいなら出来る。ドウムの言葉から意味を悟ったらしい。メルリエは頷く暇すら惜しんで走り出した。すさまじい勢いで蛇体がくねり、人間の全力疾走をはるかに超えるスピードで走り出す。
「おとん? おとん!?」
 腕の中で少女が暴れる。メルリエは叫んだ。
「大人しくしなさい、大丈夫だから!!」
 ドウムは数百年を生きた灰色トロールだ。よっぽどの相手でもない限り、人間などに倒されるはずがない。それにこちらには味方がいる。その『味方』を信じて、メルリエは全速力で走った。
 
「大気に満ちる風のエレメントよ、刃となりて我が剣となれ!!」
 精霊使いが銀のレイピアをかざし、叫ぶ。その言葉に答えて、前線にたった戦士の剣が燐光を放った。びょお、と風が吹く。気圧の変化。ドウムは苦いものを感じた。相手は玄人だ。トロールとの戦い方を心得ている。
 トロールは、そもそも地の属性を持つ生き物だ。大地から精製されたものに対しては強い耐性を持つ。金属も例外ではない。金属製の武器では、トロールに傷をつけることは難しい。
 けれど、こうやって風の補助呪文でエレメントをまとわせれば、通常の武器であってもドウムに傷を負わせられる。
 魔術師もまた、詠唱を始めていた。複雑に織り成された古語が読み上げているのははるか過去に作り上げられた物理現象に干渉するアセンブラの一端だ。あの詠唱なら攻撃魔法か、それとも――― だが、今のドウムには、とにかく、時間を稼ぐことが最優先だった。相手をここにつなぎとめたまま、かつ、なんとか時間稼ぎをしなければいけない。
 ドウムは巌のような拳を振り上げた――― 叩きつけられた先は、壁だった。
 すさまじい轟音と共に、壁が崩れた。
 ドウムは穴から外へとすべりでる。とたん、全身に鉛のように圧し掛かる重み。日光の魔力だ。
 目の前に現れたそこは、空中庭園だった。
 幾重にも重なった樹冠のように、空中庭園たちは、お互いに降り注ぐ日光をさえぎらないように、重なり合うようにして黒鳥城の上層部に広がっている。人間ならば腰ほどもある高さに草が茂り、薄い土に木々の根が複雑に盛り上がってた。硝子細工のような花が草の先端に揺れ、黒い星が舌となった鐘楼形の花がいっせいに音を立てた。ドウムは全身に感じる重みを感じながら木の陰に転がり込んだ。わずかに日光の重みが軽くなる。
「うおおおっ!」
 戦士が打ちかかってくる。風のエレメントをまとった刃で。よけるべきか受けるべきか――― 判断は一瞬だった。
「ぐあっ!!」
 腕で受けると、刃が、深く腕に食い込んだ。
 とっさにドウムは腕に力を込める。筋肉が鋼のように盛り上がり、食い込んだ刃に絡みついた。剣が抜けない。戦士の顔に驚愕の表情が走る。ドウムはニッと笑った。同時に、岩の塊のような腕を振るった。
「うわああっ!!」
 戦士が吹き飛ばされる。剣を手放してしまう。その隙を見たように、今度は女戦士が打ちかかってきた。
 彼女の得物はより軽い剣。だが、いつのまにかこちらも精霊の光をまとっている。ドウムの片腕は両手剣に奪われて使えない。避けようと体をよじった瞬間、すさまじい日光の重みが体を襲った。避けようがない。斬撃がドウムの無防備な足を狙った。ドウムは思わずよろめいた。体が日陰から出てしまった。日光が圧しかかる。体が石化したように堅くなるのを感じる。
 その瞬間、見えたのは、魔術師が長い詠唱を終える様だった。
 長い、長い詠唱。
 ドウムは悟った。
 その正体は。
 ―――紅炎呪文《prominence》!!
 太陽の宿す炎の竜を召還する、陽光の力を借りた最強の呪文の一つ。陽光に弱いトロールにとっては最悪の致命傷となる呪文だ。一撃で死ぬほど軟くはない。だが、自らの全身を灼く苦痛を予感して、ドウムは思わず全身を硬直させた。
 だが。
 魔術師が詠唱を終え、杖を掲げた瞬間、陽光が、さえぎられた。
 さっ、と光が消え去る。周囲が夜に変わったかと錯覚するような闇。その闇が、魔術師の唱えていた呪文を、消し去った。
「なっ……!?」
 魔術師が狼狽の表情を浮かべる。それは人間たちの誰も例外ではなかった。同時にドウムは厳つい顔に笑みを浮かべた。来てくれた――― 思ったよりもずっと早く。
 ばさり、と音を立てて、闇が羽ばたいた。
 頭上から、何者かが降臨する。それは闇。『光り輝く闇』という矛盾した存在そのもの。
 それは、優美極まりなく、同時に、獰猛極まりない生き物だった。
 長く伸びた優雅な首。鋭い爪を備えた前足と、太い後ろ足。腹の細かな鱗。それとは対称的に大きく厳つい鎧のような鱗が全身を覆う。背には三対の漆黒の翼。巨大なそれが陽光をさえぎり、空中庭園全体を影で覆う。
 ただ、その翼が影を作り出しているのではない。
 その生き物そのものが、『闇』をまとっているのだ。
 王冠のような角が、その全身とは対称的に小さく、優美な頭を飾っていた。角は金剛石さながらに透き通り、その列は突き出した棘となって背から尾の先端まで続いていた。棘は削られた施された金剛石の万色を内側に宿している。それこそがその生き物が体内に宿した強大そのものの魔力の証。漆黒の鱗もまた、内に万色を宿している。漆黒でありながら万色――― それこそがその生き物の美麗極まりない姿。
 己の最強の魔法を打ち消された魔術師が、呆然と地面に膝を突いた。そしてつぶやいた。
「……ダーク、ドラゴン」
 輝く闇、混沌と暗黒の魔力その物の化身、ダークドラゴン。
 ありとあらゆる魔族の中でも頂点に立つ竜族、その中でももっとも強力な種族の一体が、優雅に翼を羽ばたかせながら、空中庭園に舞い降りた。
 魔術師ががくんと膝を突いた。紅炎呪文…… それは、太陽の力と共に、古代竜の力を借りた呪文だ。だから、その呪文は、闇と竜という相反した属性を持つ魔物の出現によって、なすすべもなくかき消されてしまったのだ。
『人間たちよ』
 竜は語りかける。声ではない声で。
『去りたくば去るがよい。今ひと時の猶予をやろう。……去らぬのならば、その愚かさ相応の報いをそなたらに授けようぞ』
 女剣士が、くっ、と声を漏らした。魔力のこもった剣を振り上げる気配を見せる。だが、剣を失った戦士がそれを制した。魔術師が恐怖の表情で首を横に振った。
 人間たちがお互いを庇いあうようにして去っていくまでに、さほどの時間はかからなかった。
「おとん!」
 全身の力が抜け、ドウムはがくんと地面に膝を突く。筋肉の力が抜け、刺さっていた両手剣が音を立てて落ちた。少女が走ってくる、走ってくる。泣き出しそうな顔で走ってきて、飛びつくようにドウムに抱きついた。
「おとん、大丈夫け? 大丈夫け?」
「ああ、平気じゃ。心配せんでええ」
 ドウムは無事なほうの手を上げ、少女の琥珀色の巻き毛をなでた。
 そして顔を上げる。畏怖の表情を浮かべ、膝を尽き、竜の前に畏まった。遅れてやってきたメルリエもまた隣に並ぶ。そして、ドウムの姿を見て、なんともいえない表情を浮かべた。
「無事…… でもないかしらね」
「十分無事じゃあ。ぬしらが来てくれんかったら、ワシゃ消し炭になっとるところじゃった」
『この黒鳥城も騒がしくなったものだ』
 翼をたたみ、長い尾を優美にくねらせ、ダークドラゴンは嘆息するように声を漏らした。
『そなたらのような者どもが我の静寂を破るゆえ、我はおちおち眠ってもいられぬ』
 その声は深く、心の底から響くようで、畏怖の心を抱かせずにはいられない。輝く闇をまとったダークドラゴンは、太陽の輝かしい美とは正反対の存在でありながら、ある意味においては美の化身そのものだ。その美はありとあらゆるものを飲み込む星々の間に広がる闇の美そのものなのだから。その前においては誰もが畏怖し萎縮せずにはいられない威厳を備えた存在。
 けれど、それをまったく感じていないものが、ここに一人いた。
「ハデスのおっちゃん!!」
 ドウムから少し離れた少女は、竜に向かって、大きく手を振った。
「おおきに、ハデスのおっちゃん! おっちゃんのおかげでおとんがひどい怪我せんですんだで!!」
 ドウムとメルリエは、ひそかに眼を見合わせた。
 いつものことだが―――
 混沌と闇の化身であるダークドラゴンを、『おっちゃん』呼ばわりする存在は、世界広しといえども、この少女ただ一人ではなかろうか。
 ハデスの名を持つ竜が爪をさしのべると、少女は養父を離れて歩いていく。その爪に手を重ねる。竜を見上げる眼には親愛と尊敬の色があった。
『そなたは我を呼ぶために走ってきたな。養父の命を救って欲しいと、自ら我に懇願した』
「当然じゃ。おとんはウチのたったひとりのおとんじゃき。おとんがウチを守ってくれるくらい、ウチはおとんを守りたいんじゃ」
 竜は微笑んだ――― すくなくともそのように見えた。狼にも獅子にも似、金剛石の角を宝冠のように戴いたその頭部。
『そなたがこの黒鳥城に来て何年になった』
「7年じゃ。ウチは7歳になった」
『そなたはその名に恥じぬ娘に成長したようだ』
 竜は爪持つ手をそっと持ち上げた。すると、そこに小さな魔法円が現れ、すっと少女の額に吸い込まれる。輝く闇の魔法円は、少女の額に瞬間刻印され、そして、消えた。
『エウリュアレー』
 竜は少女を呼ぶ。エウリュアレー、『強き女』。それこそが、竜が少女に与えた名だ。
『これからも、人間の身に定められる限りを越え、強く、美しく生きるがよい』
「うん」
 エウリュアレー…… エウリィは、エメラルドの瞳に強い決意を込め、しっかりと頷いた。
 
 



「なんか色々あったけど、今年もちゃんと誕生日を迎えられて、よかったわね」
 さまざまな騒動もなんとか終結を迎え、三人は黒鳥城の中を帰途に着く。ドウムは腕や腹に傷を負ったままだったが、命に関わるほどではない。あとでゴブリンの治療師のところにでも行けばどうにかなることだろう。
 エウリィは疲れてしまったのか、メルリエの腕の中で眠りについてしまっていた。すうすうという健康な寝息が聞こえてくる。ダークドラゴンの魔力を継承するというのは、たいしたことがないように見えて、かなりの体力を消耗する行為なのだ。エウリィは毎年がこの始末だった。
「明日にでも、あたしがご馳走作ってお祝いしてあげる。やっとエウリィも7歳、ってね」
「しかし、人間どもはけしからんのう。同じ人間にどげんしてあげなことをするんじゃ」
 ドウムはぶつぶつとつぶやき続けていた。メルリエもまた、なんとも言えず複雑な表情を浮かべる。
「そりゃあ…… エウリィが黒鳥城に住んでるからじゃない?」
 黒鳥城はダークドラゴンに支配された巨大な迷宮だ。その存在は冒険者たちには知れ渡っているらしいが、彼らの中でも実際に黒鳥城までやってくるものはあまり多くはないらしい。そのほとんどは城を取り巻く樹海、さもなければ下層部分で脱落し、死ぬか、さもなければ逃げ出していってしまう。そんな中で、まだ7歳の子供ながら、一人でも平気で城の中を歩き回っているエウリィはいかにも異質だ。
 エウリィが黒鳥城で無事暮らしていられるのは、実際のところ、ドウムたち養父母の存在以上に、名付け親であり守護者であるダークドラゴン、ハデスの力が大きい。
 ハデスの魔力がエウリィを守っているというのは、物理的、魔力的な意味だけではない。彼女には一種の刻印が施され、闇の魔力を持つものであれば誰であってもそれに気づく。ダークドラゴンの愛し子に危害を加えたならば、一体どのような報いがまっているのか…… そんな恐怖が黒鳥城に暮らすさまざまな魔物たちの手からエウリィを守っているのだ。
「それにワシゃちと思ったんじゃがの、どげんしてハデス様はエウリィの名付け親になることを認めてくれたんかの?」
「なあに、いまさら?」
 メルリエは少し眉を寄せた。
「ゴブリンロードに子供が生まれても、ダークエルフの王に姫君が出来ても、他のドラゴンが卵を産んでも、ハデス様は名付け親などにはならなんだ。それがどうしてエウリィに限って名付け親になってくれたのか、と思ってのう」
「とってもいまさらな話題ね」
「いまさらじゃがのう」
 メルリエは、少し、考え込むように眉を寄せた。
 当時は育て子かわいさに必死でアタックを繰り返していたが…… 考えてみれば、事実、なんとなく不思議な話ではあった。
 可愛い育て子であっても、エウリィが『たかが人間』に過ぎないというのは否定しがたい事実だ。人間など魔物にとっては餌、稀に冒険者ともなれば脅威となることもあるが、基本的にはただの食料であるにすぎない。ありとあらゆる生き物の頂点に立つ竜族ならばなおさらだろう。それがなぜエウリィに名を与え、毎年のように守護を重ねていってくれるのか。
 メルリエはしばらく眉を寄せて考え込んでいたようだったが、すぐに、結論を出すのを諦めたようだ。
「考えても仕方ないじゃない?」
 などと、あっさりという。
「とにかく、ハデス様のおかげでエウリィは今年も元気、健康そのもの。風邪ひとつ引かないし、プリプリぴちぴちしててとっても美味しそう…… おっと」
「おいおい」
「まあ、とにかく可愛いエウリィが幸せなら、それでいいじゃない」
 エウリィがメルリエの腕の中でちいさくむにゃむにゃと声を上げる。貫頭衣がずれて肩が見えた。その肩には痣がある。黒鳥の形の痣が。……メルリエは丁寧に服を直してあげた。
「さて、明日はご馳走よ。何がいい? 何が食べたいかしら」
「ワシゃ、甘くて汁気たっぷりのざくろ石が食いたいのう。美味い水晶のたっぷり混じった岩でもええ」
「あのね、石なんてあたしたちは食べられないの。……そうね、あたしには揚げた三つ目トカゲ、エウリィには木の実を詰めて焼いた鳥とかがいいかしらね」
 それにお酒も忘れられないわね、とメルリエが言うと、ゴブリンどもの店にでも買いに行くかい、とドウムが答える。
 黒鳥城の内部では、柱や壁に施された精緻な彫刻に夜光石が嵌め込まれ、ぼんやりと廊下を照らしている。燭台には消えることのない青白い魔法の火が点り、三つの形の違う影を、タイルモザイクの床に揺らす。
 種族もばらばらな三人の家族は、そうして、のんびりと黒鳥城の階層を下っていった。



BACK NEXT
TOP