6
ずしん、ずしん、と重い足音を立てながら、身をかがめるようにして、灰色トロールは礼拝堂の中へと入ってくる。そしてひょいと手を伸ばすとヨタカを摘み上げる。ひょいと。まるでリンゴでもつまむように。
「美味そうじゃのう、どうしたんじゃ、エウリィ」
「食うたらいけん、それ、お客さんじゃ」
「ふむう?」
離して、とも声が出せない。灰色トロール。それは巨人族に属する魔物たちの中でも、かなり強力な部類に属する魔物だったから。ヨタカは実物を見るのも初めてだった。
ヘカトンケイルや霜の巨人といった神族に近い巨人を除けば、もっとも強力なものたちのなかの一つ。角がおおければおおいほど歳を経て強力だという。そんな灰色トロールの頭は角だらけの瘤だらけで、一体何年生きているのやらさっぱり見当も付かなかった。
すぐ傍に口がある――― 大きな洞穴のような口の中に、鮫のように尖った歯がずらりと並んでいた。
「どこぞで拾うて来た」
「んー、オークの衆の夕食になる所だったんを、貰うて来た」
「なんじゃ、ワシへの土産と違うんか」
残念そうに言うと、トロールはヨタカをぽいと投げおろす。ヨタカはころころと地面を転がった。エウリィはにこにことソレを見ているだけだ。できれば止めて欲しかったが、それよりも。
「そ、そ、そ、あ、あ、あの」
「んー?」
恐怖のあまり言葉の上手く出てこないヨタカに、エウリィは小首をかしげる。
「あ、あ、あ、あれ、何」
「ウチのおとんじゃ。ドウムって言うんよ」
父親!
ヨタカは目玉が眼窩からこぼれおちるかと思った。
ずしん、ずしん、と歩いてきたトロールの手には、山羊が一頭つるされていた。ヨタカは思わず卒倒しそうになる。山羊が一瞬自分に見えた。
トロールは人を食う。灰色トロールより力の弱い普通のトロールですら人を食う。昔、そういったトロールを退治するというクエストに挑戦したこともあったが、そのときはトロールを騙して日の光の下に連れ出し、石化させるという戦術を取るしかなかった。それだって戦士や魔法使いといった仲間が居たから初めて出来たことで、かよわい盗賊一人でトロールを、しかも灰色トロールを退治するなんて絶対に無理だ。
「土産じゃエウリィ、主ぁ山羊のあぶり肉が好きじゃったろ」
「ああ、やったらメルリエも呼んだら喜ぶかもしれんねぇ。メルリエは目玉が好きじゃけえ」
「なら半身はあぶるとええな。ワシは生のが好きじゃけえ、生で食うわ」
なにやらのどかな会話を交わしながら、山羊を奥の板岩の所にもって行くと、トロールは恐ろしい巨大な鉈を手に取る。そして、鉈を振り上げると、こともなげに山羊を半身に引き裂いた。ずどん、と音がした。
やっぱり、山羊が自分に見えた。
ガタガタと震えているヨタカを不思議そうに見て、エウリィは立ち上がる。そしてそのまますたすたと歩いていこうとした。ヨタカは必死の思いで立ち上がった。膝や腰がガクガク言っているが、ここでエウリィを見失ったら一巻の終わりだという気がした。山羊といっしょに鉈で細かく刻まれて、スープ鍋に放り込まれてしまう。
「ま、ま、ま、待って」
「どげんしたん?」
エウリィは服のすそにしがみつくヨタカを不思議そうに見る。
「ひ、ひ、ひとりに、しないで」
「寂しがり屋さんなんじゃねえ」
違う。
違うが否定するとややこしいので、ヨタカはぶんぶんと頷いた。エウリィはくすりと笑う。可愛らしい笑顔。だが、そこで『可愛い』などと思う余裕はあいにくヨタカには無かった。
「やったら、一緒にメルリエのところ行こ。メルリエはウチのおかんみたいなもんじゃけえ、怖くないよ」
メルリエ。聞きなれない語感の名前だ。だが、どっちにしろ灰色トロールよりは絶対にマシなはずだ。母親というからには女性のはずだ。怖くないというからには怖くないはずだ。
―――そう思ったのがただの逃避だったと、すぐに、ヨタカは思い知らされることになる。
エウリィが恐ろしい灰色トロールと暮らしている穴から出ると、少しだけ気持ちが落ち着いた。すっぱだかでないだけ先ほどより幾分かマシだろうか。相変わらず黒鳥城の中は燐光を放つ水晶の奇妙な光に照らされていたが、それに怯えないだけの気持ちの余裕も出てきた。
「は、はは…… オレってすごい運がいいのかな……」
「??」
一度オークに食われかけ、今度は灰色トロールに食われかけ、それでもまだ無事でこうやって生きている。冒険者仲間に話せば自慢になりそうだ。いや、笑いのタネにされるのがオチだろうか。
「さっきから笑ったり泣いたり急がしかねえ」
エウリィは可笑しそうにくすくすと笑う。その可愛らしい笑顔は、まるっきり普通の村娘や町娘なんかと同じものだ。問題はそのいでたち、かつ、住んでいる場所である。こんな恐ろしいダンジョンの中に魔物と一緒に暮らしていて、なんでそんな普通の様子でいられるのか。
「な、エウリィ、あんた、あの灰色トロールのこと、父親だって……」
「うん、ドウムはウチのおとんじゃ。あとな、メルリエとハデスのおっちゃんがおるで。みーんなウチの家族じゃ」
「……」
「血ィは繋がっとらん、やけど、家族やてみーんな言うとる。やき、おとんはウチのおとんやし、メルリエはウチのおかんじゃ。アンタやって、おとんとおかんがヒューマンとダークエルフじゃったんじゃろ?」
「うん、まあ、それは……」
実際のところ、ヨタカは母親の顔を見たことは、一回も、無い。
ダークエルフ女にさらわれ、弄ばれ、気づいたら子供まで出来てしまっていた、というのが父親の情けないところで、しかし、殺されもせずに子供ともども人間の村に返してもらえた、というのがすごいところだという話は何度も聞いたことがある。そもそもダークエルフというのは非常にプライドが高く、人間などゴミ屑程度にしか思っていないというのが普通だというのだから、なぜ父親が殺されなかったのか、生まれた自分が生かしたまま返してもらえたのかは謎に満ちている。
実際、ヨタカには、血は繋がっていないが母親も兄弟もいた。
母は父親の幼馴染で、ダークエルフ・ハーフとはいえど自分のことは実の子供同然に可愛がってくれたし、弟妹たちは気づいたら年齢で自分を追い越してしまったとはいえ、常に『兄ちゃん』と呼んで自分を慕っていてくれた。大切な家族だ。けれども、その家族に余計な迷惑をかけたくない、というのが村をでた理由の一つだったのだから、もしかしたら自分のほうで家族にちょっとした疎外感を勝手に感じてしまっていたのではないか、という気はなんとなくする。
「ウチ、ヒューマンやけん、体も弱いし、余計な迷惑かけとうないっていつも思ってるんで。でも、おとんもメルリエもウチは余計なこと考えんでええっていつも言う。子ども扱いされとるんじゃ」
エウリィは少し唇を尖らせた。少女らしい表情。
「……なんで、アンタ、魔物に育てられてるんだ?」
問いかけると、エウリィは、「んー」と視線を上に向ける。
「あのなあ、ウチ、ほんとはおとんとメルリエの酒のつまみになる予定じゃったん」
「……ええ?」
「赤ん坊のころに森に捨てられて、おとんに拾われたん。でも、ウチが痩せてて不味そうじゃったけ、メルリエがおっぱいくれて育ててくれたん。ほしたら可愛くなってしもうて、食えんようになってしまったんじゃと。やったら娘として育てよう、言うておとんの娘にしてくれたんじゃ」
「……」
「ものすごい幸運やったと思っとる」
エウリィはきっぱりと言った。
「ウチ、おとんに拾われんかったら間違いなく死んどった。もしかしたら、拾われても死んどったかもしれん。やけど、おとんもメルリエもウチのこと可愛がってくれてるんけぇ、感謝してもしきれんわ」
そう言いきって、それから、「あはは」とエウリィは笑った。
「なんかアンタには色々話したくなるねぇ。歳の近いヒューマン見るの久しぶりじゃけえ、なんか色々話したくなるのかもしれんね。……あ、アンタはヒューマン違うか。ハーフ・ヒューマンか」
「普通はダークエルフ・ハーフって言うんだけど」
「んー、アンタは自分がヒューマンだと思っとるん?」
「まあ、一応はな」
人間社会で育ったから人間で、ダークエルフ社会で育っていたら自分はダークエルフだったのかもしれない。ふと、ヨタカはそんなことを思う。
ダークエルフとまともに話したことが無いので、彼らがどういった社会を築いているのかは知らないが、もしも産みの母親が自分を引き取ることを選択していたら、自分はハーフ・ヒューマンと呼ばれながら、やはり人間社会にいるような肩身の狭さを感じつつ、それなりのダークエルフらしさというものを身に着けながら暮らしているのかもしれない。その『ダークエルフらしい自分』というものがさっぱり見当が付かないあたり自分はまるっきり人間だと思う。けれども、そんな風にはじめて考えた自分に、ヨタカはわずかに新鮮な驚きを感じた。
「あ、ここじゃここ。メルリエ、おるー?」
飾り漆喰にタイルを散らした天井が、生物の内臓の中のような曲線を描いた下。瀟洒なドアが壁に開いている。かすかに湿気が肌を撫でた。わずかに月の光が差し込んでいる。いつのまに夜になっていたのか。
部屋の中は、浴室になっていた。
広い浴室に鉱水が湧き出し、タイル飾りがあちこちできらめいている。部屋の中は暗く、奥のほうには財宝が積み上げられている。そして、一人の女が鉱水に漬かって、タイル細工の蜥蜴にもたれていた。エウリィの声に顔を上げる。ヨタカは思わずどきんとする。それは、艶めかしい美貌の、年齢不詳の美女だったからだ。
紫色の唇と、喉元に飾られた金銀の飾り。魚の腹のように白い肌。頭上で一つに結び、背中に垂らされた髪の、水銀のようにぬめる光沢。
「あら、エウリィじゃない。どうしたの?」
「おとんが山羊持って帰ってきてくれたん。えかったら一緒に食わんと?」
「うーん、今あんまりおなかは空いてないけど……」
ちろり、と唇を舐める舌が二つに割れているように見えて、ヨタカは眼を疑った。この美女は何者だ?
ふと、そのとき、美女が、ヨタカを見た。
「あら、誰、その子?」
「ヨタカ言うんよ。ハーフ・ヒューマンじゃ。ウチが拾ってきたん」
「ふぅーん……」
すい、と美女はこちらに泳いでくる。その眼。紫の眼。瞳孔が縦に裂けていることに気づき、はっ、とヨタカは息を呑んだ。だが、その次の瞬間、頭にぼんやりともやが掛かる。
「可愛い子じゃないの。それに珍しいわ、ハーフ・ヒューマンなんて……」
彼女の長い爪がこちらを手招く。ヨタカはふらふらと近寄っていく。浴槽のふちにしゃがみこむと、爪が喉元をすいっと撫でた。目の前に切れ長な吊り眼の瞳がある。
「ふふ、素敵。それに、ずいぶん元気がよさそうだわ。あたし好みよ……」
「ちょっ、やめやメルリエ!」
美女の唇がヨタカの喉に重なろうとする。その瞬間、いきなり体がぐいっと後ろに引き戻された。ぱちんと泡がはじけるように正気に返る。
「ああん」
美女は色っぽく声を漏らした。
「せっかく味見しようと思ったのに」
「したらいけん! ウチがつれてきた知り合いに何すんじゃ!」
もー、などと愚痴りながら、美女はずるりと浴槽から上がってくる。その腰の下には足が無かった。―――虹色の鱗持つ、大蛇の尾が続いていた。
ヨタカは呆然と美女を――― メルリエを見る。ずるりずるりと浴槽から這い上がってくるのは、長さでいうと数メートルはあろうかという長大な大蛇の尾だった。蛇体持つ妖艶な美女。その正体を悟った瞬間、ヨタカは全身の血がざあっと下がるような思いをした。ラミアだ。これはラミアに間違いあるまい。
強い魔力を持ち、特に若い男の精を好んで吸う蛇の女怪。チャームを使って魅入られ、骨まで齧りつくされるという話も聞いたことがある。
……チャーム。
さっきのアレはまさしくチャームだ、と思った瞬間、全身が縮み上がるような気分になる。
「あたしへのお土産じゃないの?」
「違うー」
「だったらなんなのよう?」
「……なんなんじゃ?」
オレに聞くな、とヨタカは思った。
「まあ、いいわ。おやつだったら悪くないわね。ちょうど、ちょっと喉が渇いてたの。お酒でも飲みたい気分だったからね」
ずるり、ずるりとメルリエは鉱水から這い出してくる。その姿を見ればのぼせ上がっていた頭も氷水に叩き込まれたように冷えこんだ。まさしくラミアである。自分ひとりで闘ったところで到底かないそうに無い魔物の一種類。
「あ、そうだ。エウリィ、あんた、ちょっと体を洗っていけば?」
「えー?」
「えーじゃないわよ泥くさいわ。せっかく来たんだしちょっと浴びてきなさい。どうせドウムがご飯を作るのにも時間がかかるんでしょ。外で待っててあげるから」
「はあい」
エウリィはちょっと不満げに唇を尖らせ、しかし、頷いた。そのまま身に纏った服に手をかけ―――
「わー! わー! わー!!」
ヨタカは慌ててその手をさえぎった。
「ん?」
「ちょ、ちょっと待って! 俺出るから! まだ脱がないで!!」
ヨタカは慌てて目をふさぎ、そのまま浴室を駆け出していく。そんな後姿をエウリィはきょとんと見ていた。メルリエも目を丸くしていたがそれも一瞬のことだ。長いまつげを瞬くと、くすくすと笑い出す。
「じゃ、あたしも出ていようかしら」
「うんー?」
「あなたの可愛いおやつがつまみ食いされないように見張っててあげるわよ」
ぱちり。ひとつウインク。そうして、メルリエは、ずるり、ずるりと浴室を這い出していった。
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