2.


 シュネイゼの暮らしている後宮は、城の裏に広がる広大な湖に浮かんでいる。
 巨大な山嶺をそびえたせ、そのまま落ちかかる湖を背後にしたブランシュタイン城は、一種、そのままに天然の要塞であると言えるだろう。城は背後三方にそびえた山々を従えて立ち、山々の下には大きな湖。城下は城を頂点とした扇形となって広がっていた。そして、後宮があるのはそのブランシュタイン城のもっとも奥まった場所、城が湖と接するその部分にある。
 城を囲む堀や城壁も薄く、けれど、背後に広がる広大な湖のためにそちらから進入することも難しい。そんな場所に木々が植林され、花々が植えられ、『天然風』を装った庭園の森が作られていた。そして、そこにそびえる一つのちいさな塔こそが、ブランシュタイン唯一の姫君、シュネイゼの居城だった。
 シュネイゼのための食事はブランシュタイン城の厨房で作られ、この後宮にまで運ばれてくる。けれど、後宮へとつながる唯一の離れ廊下は、重たい樫の扉でふさがれて、その鍵を持つものはほんの数人しか存在しない。シュネイゼの存在はそれだけタブーとされているのだ。美しいが白痴の姫君。国民には次代の希望と信じられている『白雪姫』は、実際のところ、哀れなただの知恵遅れに過ぎないということは、国にとってもっとも大きなタブーの一つとされていたのだ。


「おねえさん、こんどから、シュネイゼといっしょにくらすの?」
「ええ、そうでございますよ。私の名はユーリアと申します」
 食事の時間、給仕を行うユーリアに、シュネイゼはそう問いかける。ユーリアは微笑みながら答えた。
「きたない顔のおねえさん」
「おねえさん、ではなく、ユーリアとお呼びくださいまし」
「ユーリア?」
 シュネイゼはソースでべたべたになった手のままであどけなく首をかしげる。ユーリアは手を伸ばし、そんなシュネイゼの手に、あたらしいスプーンを握らせてやった。
 後宮である尖塔は狭く、粗末といっていいほどに質素な建物だ。
 黒檀の窓と天使のステンドグラス。装飾といえるようなものといえばそれくらい。代々の王女がここで育ち、その奢侈を戒めるために質素な暮らしを送らされた。けれど、ことシュネイゼに関しては、それは別の意味でよいことだったといえるだろう。シュネイゼはほとんど一人では身の回りのことをすることができない。装飾の多い部屋に暮らしていたならば、客人の目を常に気にしながら暮らしながらならかっただろうから。
 今日の夕食は、あぶった子羊の肉とシチュー、それに何品ものサラダやアベリティフ、さらに、デザートとしての果物と、甘いワインといったメニューだった。
 貴婦人ならば肉は細かく切ってあまり口をあけずに食べるように、シチューは音を立てずに上品にすするのがよいとされる。だが、シュネイゼの食事ときたらその逆だ。食卓を支配しているものは、一種の混沌に近いものだった。
 あぶった肉は骨ごと掴んで口に運び、不器用にスプーンを操ることに耐えかねてシチュー皿を直接口に運ぶ。アベリティフのパテなどは手づかみだった。それよりも先にデザートの果物をさきに食べたがるものだから、それを抑えることもまた大変だった。首にかけたナプキンは、あっというまにぐちゃぐちゃになった。
「リンゴ、たべたいの、リンゴ」
「姫様、食後になさいませ。ほら、スプーンでございますよ」
「スプーン、むつかしいの。おいしくないの……」
 握らせたスプーンを不器用に手づかみにして、口にシチューを運ぼうとする。だが、口にたどり着くよりも前に、シチューは全て胸に垂れてしまう。服は既にドロドロだった。テーアはシュネイゼが癇癪を起こしてスプーンを投げるたびに、辛抱強くあたらしいスプーンを握らせる。シュネイゼはだから再びスプーンでシチューを飲むことにチャレンジする。けれど、やはりスプーンからどんどんとシチューはこぼれてしまう。
 テーブルにシチューはこぼれ、ソースが染みを作り、パンくずがばらばらと散らばった。それでもなんとか子羊肉を食べ、シチューを大方空にすると、シュネイゼはテーブルから立ち上がってしまう。
「もう、いらない。おなかいっぱい」
「はい、かしこまりました。お下げいたします」
 テーアは目配せをした。……姫様のお召し物をお代えいたしなさい。
「では、姫様、お召し物をお着替えいたしましょう」
 そのさりげない目配せに気づいたユーリアは、シュネイゼに呼びかける。シュネイゼはきょとんと目を瞬く。
「お召し物が汚れてしまっておりますわ。お着替えなさったほうが気持ちがよろしいでしょう?」
「うん」
 今度はシュネイゼは素直に頷いた。そのままぺたぺたと二階のほうへと歩いていく。ユーリアは後に続いた。テーブルを片付けることに苦心しているテーアに、かすかな礼を返しながら。
 シュネイゼの寝室と衣裳部屋は、二階にあった。
 シュネイゼのために用意されたドレスは、どれも、いささか変わったデザインのものばかりだった。足に絡まるほどに長いスカート、広い袖口が最近の流行だというのに、シュネイゼのドレスはどれもスカートが動きやすくオーバードレスにスリットが入れられ、袖は手首の辺りで細くなっている。なるほど、普通の貴婦人のように座って刺繍をしたりばかりしているのならあのドレスでもいいだろうが、活発に動き回るシュネイゼにはこのようなドレスは辛いだろう。ユーリアはクローゼットから寝巻きの白いリネンのネグリジェを取り出した。そして、自分では満足にボタンを外せないシュネイゼを手伝って、服を脱がせてやった。
 するりとドレスが滑り落ちると、輝くような体が現れる。
 どちらかというと、ふっくらと肉付きのいいタイプだということだろう。その胸乳はふっくらと柔らかく、下腹は泡立てたクリームのようになめらか。背中も優美な曲線を描いていて美しい。けれど、シュネイゼはそんなことにはまるで無頓着に、裸のままで部屋の中をうろうろと歩き回る。
「ああ、姫様、お待ちくださいませ。お召し物をお召しにならないと」
 きゃっきゃっと笑うシュネイゼは、とまどうユーリアを見ているのが面白いのだろう。くるくると逃げ回ってなかなかつかまらない。けれど、ドレス片手にそれを追いかけていたユーリアは、ふいに気づいた。―――シュネイゼの背中に、奇妙な痣がある。
 痣は細長く、何十にも並んで背中に残っていた。青黒く変色したものも、まだ赤い色を残しているものもある。ユーリアはごくりと息を飲んだ。……シュネイゼに話しかけた。
「姫様」
「ん?」
 振り返ったシュネイゼは、白薔薇のように可憐なかんばせの美姫だ。けれど、その体を見ては、美しいだけの姫君とも、哀れな白痴とも言い切れなくなってしまう。ユーリアはためらいながら問いかけた。
「その…… お背中の傷はどうなさいましたの?」
 そのとたん、シュネイゼは、顔を曇らせた。
 下穿き一枚の姿で、ぺたんとそこに座り込む。
「……だめ。おしえてあげない」
「何故です?」
「おしえたらおとうさまにおこられるもん」
 お父様。シュネイゼの父親は、ブランシュタイン王ローラントだ。なぜそこで王の名が出てくるのかがユーリアには理解できなかった。
「どうして、お父様がお怒りになられるのです?」
「シュネイゼがわるい子だから。だからおとうさまがおこるの。でもおとうさまがおこるといたいからシュネイゼはいや。だからおしえてあげられないの」
 たどたどしい口調で言う内容が、じわじわと脳髄にしみこんでくる。ユーリアは立ち尽くす。陰鬱になりかけた空気を振り払うように、シュネイゼは、勢い良く立ち上がった。
「あのね、ユーリア、あそこにおかあさまがいるのよ」
 シュネイゼは窓枠に寄る。木々が高く伸びて視界を半分隠していた。窓枠は黒檀だ。はめ込まれたガラス窓を開くと、夜の甘い空気が部屋の中に流れ込んでくる。
 木々の向こうに見えるのは、ブランシュタイン城の姿だ。
 いくつもの尖塔がそびえたち、優雅な貝殻模様の施されたバルコニー。そして、雨水を吐き出す青銅製のガーゴイル。そんな中でシュネイゼが示したのは、丸いバルコニーを持った一つの部屋だった。
「あそこにおかあさまがいるの。おかあさまはとってもきれいなの。だからね、シュネイゼ、こうやってお城をみてたら、おかあさまがみえないかなあっていつも思うの」
「左様でございますか……」
 ブランシュタイン王妃アデレード。その姿は、ユーリアも知っていた。
 赤みがかかった金髪を豪奢に結い上げ、エメラルドの瞳をきらめかせる優雅な姿。王妃という名に恥じない威厳を持ったその美貌。
 けれど、とユーリアは思う。
 淡雪のような肌に、真っ黒な髪、野いちごの唇と淡い紫色の瞳のシュネイゼと、王妃アデレードには、似通ったところが一つもない。威厳に満ちた美貌のアデレードと、愛らしい顔立ちのシュネイゼ。それを言うのならば父王ローラントとシュネイゼの間にも似た部分は少なかった。ローラントはその端正で知られた美丈夫だったが、その暗い色の金髪と、線の細い美貌との間にも、シュネイゼとの共通点を見つけることは難しかった。それではシュネイゼは、いったい誰に似ているというのだろう。
「シュネイゼね、おかあさまだいすき。おかあさまもシュネイゼがすき」
「……」
 ユーリアは瞬間黙り込んだ。
 王妃と姫の不仲については、ユーリアも、知っていた。
 王妃は自らにまったく似ない娘を厭い、ほとんど会いに来ることもないのだという。その理由は自らを越える美貌の娘を厭うているのだとも言われていたが、今のユーリアには、白痴の娘を見るに忍びないという理由もあるのではないかという気もした。また、王妃は王とも不仲であるのだという。王妃は王と顔をあわせることも少なく、部屋に閉じこもり、魔法の鏡に向かいあっては、日がな一日自らの美貌に衰えがあらわれないかを確かめているのだという。
「なぜ、王妃殿下がシュネイゼ殿下を愛していらっしゃると、お分かりになるのです?」
 ためらいながら、ユーリアは問いかける。シュネイゼはあっさりと答えた。
「シュネイゼ、だれかがシュネイゼがきらいだったらすぐわかるもん。すきでもすぐわかるもん」
「……?」
「あのね、シュネイゼの手はね、まほう使いの手なの」
 笑いながら、シュネイゼは、こちらへと踊るように歩いてくる。そして手を差し出した。真っ白でやわらかそうな手を。
「あのね、ユーリア、おててかして」
「はい……」
 ユーリアはためらいながら手を差し出す。するとシュネイゼは眼をつぶり、その手を両手で挟み込んだ。しばらく黙っているが、やがて目を開く。その目には不思議そうな色があった。
「あれ? おかしいなあ。ユーリアのなかに、お水しかみえない」
「他の方だと、何かがお分かりになりますの?」
「うん。あのね、うれしいのか、かなしいのか、シュネイゼ、わかるよ。さわったらわかるの。だからおかあさまはシュネイゼがだいすきだってわかるの。だって、おかあさまの手は、シュネイゼがだいすきだっていってるんだもん」
「……」
「でも、へんだね。なんでユーリアの中にお水しかないのかなあ。ユーリアのこころのなかはお水でいっぱいだよ。まるでみずうみの中みたい」
 ふしぎね、とシュネイゼはさかんに首をかしげる。ユーリアは思った。……接触型の感知能力。
 ときおり、人間の中には、魔女、と呼ばれる人々が存在している。
 彼女らは触れもしないものを宙に浮かせ、火種のないところに炎を作り出し、人の心を読み、未来を予知する。それは後に修行をして身につく力ではない。生まれながらに備わる力だ。
 それでは、シュネイゼは『魔女』だというのだろうか。ブランシュタインの『白雪姫』が、人の心を読む魔女だというのだろうか。
 
 ……おもしろい。

 シュネイゼは、きょとんと目を瞬いた。
「ユーリア、なんでわらってるの?」
「あ、いえ…… なんでもございません」
 ユーリアは微笑んだ。シュネイゼはひとつくしゃみをする。
「ほら、お召し物をどうぞ。お風邪を召されてしまいます」
「うん……」
 丁寧に縫製され、フリルや刺繍の施された寝巻きを着せて、釦を一つづつ留めてやる。
「あのね、シュネイゼ、ご本よんでほしい」
「かしこまりました。では、お好きな本をお選びくださいませ」
「うん!」
 シュネイゼは顔を輝かせ、本棚のある部屋へと走っていく。その後姿を見送り、それから、ユーリアは振り返った。
 窓の外では、王妃アデレードのいるだろうブランシュタイン城の丸いバルコニーに、ぼんやりと光が点っていた。



 
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