10.


 ―――逃げ出した森の中、女は、つんのめるようにして、立ち止まった。
 足元を湖が洗う。もう、湖のほとりだった。水が凍り、雨で水が増しても城が水浸しにならぬように築かれた堤防の、その、ほとりをすでに下ってしまっている。
 心臓が胸の中で痛いほどに暴れている。目の奥が痛く、鼻の奥が金臭い。けれども、女は、テーアは、泣かなかった。泣きはしなかった。自分には泣くほどの価値すらないと理解していた。
 幼い時分より知っている、無邪気な天使のような、『白雪姫』。
 それは神の愛なのか、それとも無慈悲なのか、シュネイゼの心は幼い子供であっても、その魂はたしかに17歳の乙女のものだった。彼女はもしかしたらすでに悟っているのではないだろうかと、テーアは幾度も思わずにはいられなかった。だとしたら残酷すぎる。このような運命など。
 誰からも祝福されずに生まれてきた、シュネイゼ。
 姉と弟の望まれぬまぐわいから生まれてきた彼女は、青黒く淀んだブランシュタインの血の歪みそのもの。その狂気は父王に色濃く、シュネイゼに置いては幼いころから顕著だった。言葉は遅く、いくら教えても文字を覚えず、歩けるようになったのは、普通の子供ならばとうに走れる年を過ぎたころだった。それでも、『聖なる青き血』の為せる技なのか、その容姿だけを見れば、シュネイゼは雪のように白く、黒檀のように黒く、血のように紅い。この上もないほど美しい。そして似ている。……母であるゾフィーの乙女のころに、今、彼女は生き写しといってもいいほどに似通っていた。ただ、母よりもさらに美しく、その微笑は天使さながらというその一点を除いては。
 だが、その美すらも、呪わしい。いっそ心ではなく容姿が歪んでいたのなら、どれほど幸福だったことか。そうならばシュネイゼは幼いころに殺され、あるいは遠い城へ幽閉されての生涯を終えていたことだろう。何の幸福も知らぬ生涯だ。けれども、それですら今の運命よりははるかに良いとテーアには断言が出来た。
 だれも許しはしないだろう…… 母の弟であり、実の父である人に犯され、その子を孕むという運命など。
 もしもその真実が明らかになったならば、ブランシュタインの『聖なる青き血』の名は、奈落へと堕すだろう。
 近親での結婚を続け、いまや淀みきった血であるのなら、その聖性など無いも同然だ。それどころかシュネイゼの腹の子の存在は人間としての倫理を侵す。実の姉を犯し、さらにはその姉と自らの子までをも手にかけるような男など、誰が王座に許すものか。
 生まてはいけない。シュネイゼの腹の子は、生まれては、いけないのだ。
 けれど…… それを言うのなら、シュネイゼ自身が、そうだったのではないだろうか?
 彼女の存在そのものが、すでに、あってはならないものだった。その罰として神は彼女に英知を与えなかった。人並みに走ることのできる体を与えなかった。
 ならばさらに罪を重ねた子はどのような姿で生まれるのか。人の形をしていないかもしれない。あるいは恐ろしい狂気に侵されているかもしれない。生まれてはいけないのだ。そう、これは正しい選択。そうでなくともただの一介の小間使いなどに選ぶ力など無い。命じられたとおりに薬を与え、腹の子を流してしまえばよい。そうすれば日々は続く。
 シュネイゼは何も知らぬ子供の笑顔で微笑み、不器用に駆け、甘い菓子を喜び、珍奇な物語には目を丸くし手をたたいて―――

 ―――己の父に、犯され続ける。

 同じことが何度繰り返されるのだろう? テーアは自問する。
 これはいままでに無かったほうが不思議なことだった。血が濃く、白痴であるシュネイゼだから、子を産む力がないのだと無意識に信じていた。願っていた。けれどもそれは誤りであると今回で証明された。シュネイゼも並みの女子のように子を孕む。それも、その受胎はシュネイゼの体にとっては大変な負担となるようだった。まだ産み月ははるか遠いにもかかわらず、シュネイゼは、床から起き上がることすらできなくなった。
 二度、三度、同じことがあれば、シュネイゼの体が持つかどうか、分からない。
 何も知らぬまま父の子を孕み、それを流され、命をすり減らし、幾度も繰り返した末、やがて消耗しきって死んでいくのか? それがシュネイゼに神が与えた運命なのか? 実の姉弟の子、その呪われた生まれにふさわしい死に様が、そうだというのだろうか。
 もしも嫁いだのなら、このブランシュタインの真実が外に漏れかねない。もしもシュネイゼが婿を迎えるにしても、それは必ずやブランシュタインの貴種の子、この城を出ることすら許されまい。もしかしたら結婚してすらこの呪われたまぐわいは続くのかもしれない。狂王は娘の体と苦痛を貪らねば神経の安定を失う。ローラントを王と戴きつづける限り、娘との姦淫は、ひそやかに認められつづけるだろう。
 逃げ道が無い。この塔は、小さなうつくしい庭園の森は、地下室のベットと変わらない。シュネイゼを縛り付け、その体と心に苦痛を与え続けるために作られた牢獄だ。
 はあ、とため息をつき、はりさけそうな胸を抑えて、テーアは塔をふりあおいだ。塔の上にはちいさく明かりが点っている。シュネイゼの寝室。若いユーリアが、その傍らにはべっているだろうシュネイゼの部屋。
 あの娘は、あの薬を、たしかにシュネイゼに与えただろうか?
 あれは、とても強い薬だ。
 確実に子を堕ろす代わりに、母体への影響も強い。翌朝には彼女の床は血にまみれていることだろう。仮にユーリアに意気地が無く、薬をあたえられなかったとしても、テーアの手には予備の薬が存在している。今度は手ずからテーアがシュネイゼに薬を与える。
 もし、ユーリアがためらったようならば、あの娘は二度とは使えまい、とぼんやりとテーアは思った。
 顔こそひどく醜いが、陰日向無く働く良い娘だった。だが、この後宮へと仕えさせられた以上、なんの事情であるにしろ、元より帰る家を持たぬ身だろう。この後宮で使えぬのなら、ブランシュタインの秘密を知った以上――― 始末せねばなるまい。
 ほっそりとしたユーリアの首が両断され、地面に転がるさまを想像して、テーアは乾いた笑いを浮かべた。何を驚く。元よりこの城は地獄、権力の座は剣の上に座すがごとく。この城に仕えさせられている以上、テーアとてただの女ではない。すべてを理解している。すべてを了解している。ブランシュタインの『聖なる青い血』は、種々様々な犠牲の上にこそなりたっているのだ。……小間使いの娘が一人死んだところで、いまさらというものだ。
 戻ろう、とテーアは思った。
 明日、交換するための寝具を用意せねばならない。真っ白な敷布、新しい掛布。まだたったの二月、たいした血ではあるまい。赤子は赤子の形すらしてはいまい。呪われた子など、未生のうちに消えていくほうがしあわせなのだ。
 しあわせ…… しあわせ?
 しあわせとは、なんだろう?
 けれど、そんな益体もない思考は、ふいに、視界の端をよぎった何かに、さえぎられた。
「?」
 かさり、と草が鳴った気がした。
 誰でもないだろう。この後宮に足を踏み入れることを許されるのはテーアとユーリア、そして特別に許された王の側近のみ。さもなければ主であるシュネイゼ自身。おそらく誰か貴婦人の飼っている犬か猫でも迷い込んだのだろう。テーアは無造作に草の間を覗き込んだ。
 
 胸から、剣が、生えた。

「……え?」
 灼熱。
 それは、痛みですらなかった。
 それが何であるのかすら理解しないまま、テーアは、己の胸に生えた、それを見た。
 血にまみれた鋼の刃。……己の胸の中心を貫いた、鋼鉄の剣。
 なに、と口にしようとした言葉の代わりに、ごぼり、と血が唇からこぼれおちた。真っ白なエプロンを血で汚した。
 血…… 血?
 血を流すのは、自分ではなく、シュネイゼではなかったか。これは何の間違いだ?
 テーアはぎこちなく首をねじった。背後を見ようとした。目に入ってきたのは、闇に溶け込む漆黒の衣装。そして、顔を覆った同じく漆黒の仮面。
 無造作に剣が抜かれた。テーアは崩れ落ちた。
「……あ、が……」
 胸から、口から、血があふれる。遅ればせながら痛みがやってきた。けれど、驚愕がそれに勝っていた。テーアは見た。何人もの黒衣の男たちを。揃いの黒衣、黒い仮面、そして剣。このうつくしい庭園の森に存在するはずがないものたち。これは何の間違い? 何が起こったの?
 これは、誰だ?
 テーアの手が、草をつかみ、土をえぐった。もがきながら必死で体を起こそうとする。何が起こったのかわからない。けれど、知らせなければ。守らなければ。シュネイゼを。無邪気な、愛らしい笑顔の、あの『白雪姫』を。
 一撃でテーアが絶命しなかったと見て、背後の男は、再び剣を振り上げた。
 剣が振り下ろされた。テーアの意識はそれで途絶えた。








 
 ―――男たちは音も立てずに塔の階段を登る。

 ―――彼らは静かに戸を開ける。まるで影のように戸を潜り抜ける。
 
 ―――彼らは剣を携えている。彼らは仮面で顔を覆っている。彼らは黒衣をまとっている。

 ―――彼らはほかの部屋には目もくれない。速やかに、静かに、塔を駆け上がっていく。たったひとつの部屋を目指して。

 ―――そして、ひとたび部屋の前に足を止めると、彼らは頷き交わす。
 
 ―――先頭の男が、戸を開いた。

 月光が、部屋を、照らし出していた。
 湖の上に浮かんだ真円の月。まばゆいばかりのその輝き。それをさえぎって誰かが立っている。それはほっそりとした背の高い影だ。先頭の男が目を瞬く。
 その影は、ベットと戸との間に、さえぎるように立っていた。
 逆光になって顔は分からなかった。その双眸だけが見えた。澄んだ二顆の宝玉さながらの瞳。湖水の色彩。
 手には、何かを握り締めている。短刀だった。まるで守るようにベットの前に立ちふさがっている。銀鈴を振るような声が響いた。
「……望まれぬ闖入者たちよ、答えなさい。シュネイゼ様の安息を乱すお前たちは、何者です」
 男たちの間に、瞬間、動揺が走った。
 目が月光に慣れれば、それは、小間使いだと分かった。通りがてらに殺してきた小間使いと同じ服装。濃い紺色のドレスと、真っ白なエプロン。胸に青薔薇の刺繍。ぴったりと結い上げた髪は焦茶色、顔は醜い痣でまだらに彩られていた。
 たかが女一人。だが、その隙はたしかに相手に利を与えた。彼女は床を蹴った。その動作に、瞬間、惑わされる。
「……!!」
 先頭の男は、避け損ねた。
 短刀の先端が、二の腕を、掠めた。黒衣が裂けた。
 だが、女の抵抗は、そこまでだった。
 先頭の男は、すぐに体勢を立て直し、剣を握りなおした。ふたたび跳びかかってくる女と、その剣が交錯する。
 真紅が、散った。
 女は、瞳を大きく見開いた。
「ア……!!」
 小さく声を上げる。だが、それだけだった。女の体が大きく痙攣し、すぐに、だらりと弛緩した。
 だが、その手は剣を握ったまま、その手は、男の肩をつかんだままだった。
 黒衣の男の表情は、仮面で分からない。彼はどんな表情を浮かべたのか。女の首をつかんで引き剥がすが、手はまだ肩をつかんでいる。男は窓へと歩いていく。その窓の外へと、女の体を投げ落とした。
 しばしあって、水音が、響いた。
 男たちは、目を、見交わしあった。ベットを見る。そこには空だった。手を当てる。暖かい。
 肩に傷を負った男は、無造作にシーツを引き剥がし、ベットの下を見た。そこに、掛布に包まった誰かが、震えていた。
 手を伸ばし、引きずり出す。抵抗。金切り声。けれど、はかない抵抗もかなわず、引きずり出されたのは、黒髪の少女だった。雪の膚、やせ衰えていてもくっきりと明らかなその美貌。涙をいっぱいにたたえた淡紫の瞳。間違いない。シュネイゼ・ブランシュだった。
「や……! ユーリア…… どこ……!!」
 シュネイゼは闇雲に手を振り回し、自分を押さえつける男の胸を、顔をたたいた。だが男たちはそのような抵抗など歯牙にもかけない。肩に軽傷を負った男が、何かの壜の中身を布に染み込ませた。
「姫」
 男はシュネイゼの前に立つ。シュネイゼは男を精一杯の怒りを込めて睨みつける。目にはいっぱいに涙が溜められていた。瞬間、瞳が仮面の影に見えた。青灰色の瞳。
「非礼を、お許しを」
 言うなり、男は、シュネイゼの口と鼻を、布で覆った。
 刺激臭が、喉を突いた。
「ぐ……!!」
 声を上げ、息を止めようとする。けれども、むなしい抵抗だった。シュネイゼの頭の中は真っ白になり、真っ赤になり、そして、真っ黒になった。
 最期の思考で、思う。

 ……ユーリア、ユーリア。
 どこに、いるの?

 それを最期に、シュネイゼの意識は、闇に沈んだ。



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