11.


 今から、17年前のことだった。
 アデレードに、ある日、豪奢なローブが届けられた。それはアデレードの髪によく似合う豪奢な黄金を縫い取った絹のローブ。このはるか北方のブランシュタインでは非常に貴重なものだということが一目で分かるドレスだった。幾重にもたたまれた絹ドレープのアンダードレス。大粒のエメラルドを飾った首飾りと耳飾りは、それぞれ、この国ではことのほか珍重される萌え出でる春の翠をかたどったもの。
 それらのドレスを収めた櫃には、金と瑠璃の象嵌で、薔薇の紋章が描かれていた――― ブランシュタインという国をあらわす紋章が。
 アデレードは、父の前でその櫃を見せられた。父がいて、兄がいた。凍りついたように櫃を見下ろすアデレードは、当時、まだほんの16歳の少女だった。……父は、「アデレード」と、重々しい口調で彼女を呼んだ。
「光栄なことではないか、アデレード」
「……」
「ローラント殿下…… いや、陛下は、お前をお望みでいらっしゃる」
 当時、シュバインノルン公爵として、ブランシュタイン王国の宰相を勤めていた、父。
 だが、アデレードの見上げる父の頬はこけ、かつて、さながら刃のようと詠われた宰相の面影はすでにない。父は老いた…… とアデレードは思う。それだけではなく、おそらく父は病魔に侵されていたのだろう。そして、それがただの病であったのか、それとも、『高貴なるものの病』であったのかは、16歳のアデレードには、判別に耐えぬことだった。
 アデレードよりも、10以上も年長の兄。次代のシュバインノルン公爵が父の傍らに控えていた。臙脂色の分厚いマントを羽織った兄は、けれど、本来ならば公爵領の統治のためにシュバインノルン領へと赴いていたはずだ。それがこの場所に居るということ。その意味がアデレードの心を押しつぶしそうになる。
 アデレードは、思わず、ドレスのスカートを、きつく握り締めた。
「……や、です」
「アデレード」
「厭ッ!!」
 それほどの強い拒絶をいぶかしんだのだろう、兄が僅かに顔をしかめるのが視界の端に見えた。だが、アデレードには、アデレードにだけは、ローラントと結ばれるわけには行かない理由があったのだ。誰にもけっして知られてはいけない理由が。
 父が、立ち上がった。
 殴られることを覚悟して、アデレードは思わずぎゅっと目をつぶる。だが、足音高く歩み寄ってきた父は、予想に反して、アデレードの前に膝を突いた。アデレードは翠玉の目を見開いた。父が、生まれながらの公爵であり、貴人である父が、なぜ、己のような小娘の前に膝を屈する?
「お父様……」
「アデレード。……いや、妃殿下。お分かりでしょう。これは、我がシュバインノルン公爵家のみの問題ではない。このブランシュタインの未来を左右する婚姻なのですよ」
 顔を背けたかった。厭だ、とさらに叫びたかった。だが、舌は乾いて口の裏に張り付き、満足に言葉も紡がない。父の手が伸びてアデレードの拳を解き、代わりに、強く握り締める。その強さには有無を言わせぬ力が篭っていた。
「先王陛下は、じきに、崩御召される」
「……」
「我らは誰一人として争いなど望まぬ。じきに冬がおとずれます。さすれば、リヒテルビンごとき南蛮なぞ、我らが大地に手を触れることすら望めぬ。氷雪こそ我らが真の砦。存じておりましょうな?」
「……」
「たったの一月なのです。さすれば、アデレード、貴女こそが妃殿下となられる」
「……お父様、国王陛下はご健在にあられます。そのようなことを申されては不敬となりますわ」
 必死の思いで震える声をふりしぼりながら、アデレードは同時に、悟っていた。
 父が、いったい、何を望んでいるのか。
 何を、為さんとしているのか。
 父が、哂った。その翠の眼、己の身にも確実に受け継がれている『ブランシュタインの翠』のあまりの昏さに、アデレードは総身が凍りつくような思いを感じる。父の手は皮の手袋に包まれていても、はっきりと分かるほどに冷たかった。そして、アデレードの手を、きつく握り締めている。
「お分かりでしょうな、妃殿下?」
「ひ……ッ」
「リヒテルビンが仮に戦を望むならば、我らに勝機があるか否か。そなたは賢明だ。『貂の徳』を備え、そして、なによりも女であるのだ。……分かろうな、アデレード。そなたはこのブランシュタイン一門で最も賢く、そして、優れた血を受け継いだ女子であるということを」
 救いを求めるように見上げるが、けれど、兄は黙り込んだまま、翠の眼を陰々と光らせて、アデレードを見下ろしていた。兄は悟っているのだ、とアデレードは思う。なぜこのタイミングでアデレードにほぼ確定したローラントからの求婚があり、また、父がなぜ確信したように現王の死を語るのか。
「そなたは我がブランシュタインの娘よ、アデレード」
 父は凍りついたように立ち尽くすアデレードからひとたび手を離し、そして、踵を高く鳴らしながら、櫃のほうへと向かった。櫃から取り出された翠玉の首飾りをアデレードの首へと巻きつける。ブランシュタイン伝統の意匠に従った首飾りはずっしりと重く、さながら、枷を付けられたかのようにアデレードの双肩へと圧し掛かった。奥歯がカチカチと小さな音を立てて触れ合い出す。恐ろしい。震えながら立ち尽くすアデレードの姿を、病に落ち窪んだ眼で、父は、満足そうに見上げた。哂った口の中に歯が無かった。まだ、初老に差し掛かったばかりという齢にもかかわらず、病を得た父の口からは、すべての歯が抜け落ちてしまっていたのだ。
 『高貴なるものの病』……
 それが、『毒』を意味するということを、アデレードは知っている。シュバインノルン一門の女子として、おそらくは、誰よりもはっきりと、強く、知っている。
 立ち尽くすアデレードの傍らから、父は、ばさりと外套を翻して離れた。ふたたび執務椅子へと戻る。病を得てなおその威容を失わぬ声が、はっきりと、「今宵は祝宴ぞ」と告げた。
「次の満月、王子殿下の14の年を寿ぐ祝宴にて、アデレードは王子殿下より拝下されたローブをまとって祝賀に参る。全ての貴族たち、将軍たちにそれを知らしめよ。次の祝宴ではアデレードが我が名代よ。アドベルト、そなたが妹の護衛として共に参上いたすのだ。わかったか」
「心得ましてございます、父上」
 兄は深々と頭を下げた。アデレードは、ただ呆然と、立ち尽くしたままだった。




 ……揺らめく蝋燭の炎。ときおりはぜるかすかな火花。アデレードは、沈鬱な横顔を鏡に写したまま、ただ、静かに過去へと思いをはせる。17年前。アデレードが16歳の乙女だったとき。ローラントとの婚礼を迎えたときのことを。
 アデレードはおそらく、16歳の少女とあり、当時の貴族の子女の中にあって、最も賢明な娘の一人だったともいえただろう。常の16歳の姫君にあって、恋物語や美しい装飾品に心を躍らせることもなく、彼女の元に集められていたのは政治や軍事のことについて記された本や、それらを深く心得た無骨な軍人や軍師といった教師たちばかりだった。仕方の無いことだったろうとアデレードも思う。当時、このブランシュタインは危機の元にあった。現在の隣国にあたるリヒテルビン…… 当時の国王であった"白鷲王"シーグルドが、今となっては『白鷲の聖戦』とすら謳われる、奇跡の進撃を続けていた時代だったからだ。
 それ以前には、時代もさほど古いとは言えず、それこそ、ブランシュタインの目から見れば『南蛮の小国』であったに間違いなかったリヒテルビン…… だが、彼の国は"白鷲王"シーグルドを戴いてから確かに変わった。その容貌から"白鷲王"と銘されたシーグルド王は、戴冠した折にはただの無力な若造としか思われていなかったのが、あるとき、『聖戦』を宣言してより、奇跡とすら呼ばれた猛進撃を開始したのだ。
 当時には、確実にリヒテルビンよりも強国であると思われていた国々が、次々とリヒテルビンの進撃の前に屈した。その数、8年にして8国。リヒテルビンの版図はすさまじいまでの勢いで広がり、同時に、支配者としても素晴らしい手腕を見せたシーグルドの元で、リヒテルビンは聖戦の栄光を極めつつあった。
 国土こそ広くともはるか北方の果てに過ぎぬブランシュタインなど、それこそ、"白鷲王"の前にあっては薄氷の城も同然のはかなさであったに違いない。当時の隣国であった国が陥とされ、リヒテルビンの白鷲の爪が己が国家の際にまで迫った当時、リヒテルビンの国政は擾乱の極みにあった。すなわち闘うか、それとも屈するか、の二つの選択肢の前にあって、である。
 おそらく当時にあって、"白鷲王"の力をもっとも評価していたのは、当時のシュバインノルン公、すなわちアデレードの父であったろう。貧しい国土を持っていかにして国を維持するか、支配者たるものがいかにして民を治めるかということを誰よりも強く思っていた父は、だからこそ、小国リヒテルビンを率いて八つの大国を呑んだ"白鷲王"の力に驚愕したのだ。その観点から見れば、"白鷲王"は紛れもなく英雄であった。もしも長生が叶ったのならば、彼は実際にこの大陸を平らげたやもしれぬ。その力を持ってすれば、北方の果てであるブランシュタインを呑むことなどたやすいことであったろう。……父は、先シュバインノルン公は、それを畏れた。
 この国を失いたくなくば、護りつづけるほかにない。おそらく父の判断は、その一点に尽きた。
 たしかに、ブランシュタインには地の利がある。国土は貧しいが、峻厳な山地と凍てつく凍土、そして、魔物たちの巣食う黒い森に大半を覆われているということは、逆に、それらの地理条件が砦となって国土を守るということでもある。打って出ることなく、ひたすらに護りつづける。北の果てブランシュタインは、そして、侵略者たちが疲弊するのを待ち、少なくとも最も国にとって有利な条件での講和を取り付ける。それこそが生き残る道、と父は判断したのだ。
 その判断は概ね正しかった、とアデレードは今でも思う。
 少なくとも――― リヒテルビンを新興の国と甘く見て、逆に打って出んとする愚昧よりは、はるかにましな判断であったろう。
 ブランシュタインの先王、ローラントとゾフィーの父は生半可に賢すぎた。
 なまじ武才に恵まれていたからこそ、攻め込まんとするリヒテルビンに対し、逆にこちらから迎え撃たんと望んだ。
 ブランシュタインに亡命してきた他国の王族を擁し、それを持ってリヒテルビンに立ち向かわんと、そうもくろんでいたのだ。
 ブランシュタインは、王の国だ。王は神聖なものであり、誰にも侵すことなどできぬ。……少なくとも、表立っては。ゆえに亡国の臣民の甘言にうつつを抜かし、『義』とやらのために国を出て攻め入らんと目論む王は、宰相であるシュバインノルン公にとっては国を滅ぼす愚王に他ならなかった。
 だから――― 王は、『病死』した。
 『高貴なるものの病』を得て。
 柔和しいローラントは、わずか14歳の少年であることもあり、決して宰相に逆らうことはなかろうと父は目していた。その妻に己が娘を嫁がせれば尚のこと、シュバインノルンの権力は磐石のものとなる。これもすべて国を思ってのこと、ブランシュタインという国を守るためのこと。それが17年前のこと。
 先王が凍てつく冬を前にして倒れ、ブランシュタインは長い冬の間に新王ローラントを戴き、同時に、『護り』へと全てを固めた。その結果、次の冬を見る前に"白鷲王"シーグルドが弱冠29歳にして謎の死を遂げ、リヒテルビンの『聖戦』が終わったというのは、おそらく、ブランシュタインにとって僥倖であったにほかなるまい。
 父は己が予見していたように、ローラントの治世を見る事わずか数年にして世を去ったが、その後は長子であるアドベルドが継ぎ、抜かりなくすべてを受け継いだ。シュバインノルン一派――― 『青薔薇派』は、それ以来、ローラントを戴き、常に国を操ってきた。巨大な版図を持ちながら崩れることのないリヒテルビンに対しても虎視眈々と隙をうかがい、時に攻め入り、時に講和を申し出た。すべては『青薔薇派』の思うがままに。
 シュバインノルンは決して剣を持たぬ。その手に握られたものは杯である。その内に充たされたものが豊穣な蜂蜜酒であるのか、あるいは毒酒であるのかを誰も知らぬだけ…… そうして、このブランシュタインは、『青薔薇の平和』を守り続けてきたのだ。
 たったひとつの、不安だけを残して。
 ……
 鏡の奥で、何かがゆらめいた。
 アデレードはすぐに物思いから引き戻される。鏡を見る。そこに写るのは己の顔。豪奢な黄金の髪にふちどられ、翠玉の瞳を持つ美貌の王妃、アデレード・マリア・シュバインノルン・フォン・ブランシュタインの顔。
 鏡の奥に何かがちらつく。それは合図。アデレードは、ゆっくりと、決められた言葉を口にした。
「鏡よ、鏡よ、鏡さん」
 燭を手にし、ゆっくりと鏡に近づく。この鏡は明るい側においては鏡と見え、暗い側から見れば透き通った硝子と見える。技巧を凝らしたからくり鏡。おそらく、そういった鏡が存在しているということすら大勢には知られまい。だからこそアデレードは、お妃は魔法の鏡を持っている、という人々の噂を隠れ蓑に、『鏡の中の狩人』たちに、思うがままにその腕を振るわせることが出来る。
「白雪姫は、いまどこに?」
『深い、深あい森の中、七人の小人の住む家に』
 短く息を止め――― アデレードは、言った。
「白雪姫は…… 無事かしら」
『小鳥の羽毛一つほどの傷も御座いませぬ』
 目眩がした。安堵の余り。
 まぶたの裏に火花が散り、面影がゆらいだ。
 おもわずくらくらと膝が崩れそうになるのを必死でこらえ、アデレードは「そう」と短く答える。
「ならば、これからも、白雪姫には傷一つ付けぬように」
『然り、然り』
 返事を確かめ、アデレードは紐を引いた。緞帳が下りて鏡を覆う。そして、アデレードは燭を手にしたままに、ゆっくりと鏡の間を離れる。―――そして、部屋を出ると、そこに置かれた天鵞布張りの椅子に、座り込んだ。
 目の奥が痛い。それは安堵ゆえか、不安ゆえか、それとも。思い出す面影はたったひとつ。淡雪の面差し、漆黒の髪、血紅のくちびる。けれどその瞳は『白雪姫』の淡紫ではなく、潤んだような漆黒を湛えていた。
 もう、17年も前に消えた面影。その肖像すらすべて葬り去られ、今では誰一つとして顧みる事のないだろう面影。
 優しく、強く、そして誰よりも哀れだった王姫。
「ゾフィー……」
 小さな呟きは、蝋燭の炎に揺らぐように、闇に消えた。




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