9.
……夏。美しい季節だ。
夏、ブランシュタインでは短い季節に木々がきらめき、花が咲き乱れ、麦は収穫の黄金を迎える。麦の夏、湖の夏、花々の夏。
渡り鳥が夏の輝きを歌い、人々は北国であるブランシュタインの短い季節の喜びに満ち溢れる。果物は甘くみずみずしく実り、家畜たちは存分に太って乳を蓄え、子供たちは喜び裸足で空の下を走る。夏。もっとも美しいその季節。
そして、夜には、天空に乳の川が流れる。
中天を渡る星々の川、そして、天使の名を与えられし星座の数々。月が太り、痩せ、消え、また現れる。それを二回繰り返すだけの季節のため、この星々はぞんぶんにきらめくのだ。
「ごらんくださいませ、シュネイゼ様。賢者の星がきれいですわ」
ユーリアは夜の窓にカーテンを開き、風を入れた。軽い麻のものに交換されたカーテンがおおきくはためき、ユーリアの背後にたなびく。まるで翼のように。
だが、シュネイゼは、それを見ない。返事もしない。ユーリアは軽い燭を片手に床に近づく。そっと、その顔を覗き込んだ。
そこには、やせ衰えた顔が、あった。
「ユーリア……」
「ここにおりますわ」
ユーリアは手を伸ばし、伸ばされたシュネイゼの手を握り返す。痣に覆われたその顔に微笑みを浮かべて、床の傍らにある椅子に腰を下ろした。ほのぐらく揺らめく手燭が陰影を踊らせた。やわらかい羽根の枕に埋もれたシュネイゼの顔に。
そこにあったのは、この夏にあって、やつれはてた少女の顔だ。
かつて薔薇色だった頬はこけ、目の下には青黒く隈が浮いている。編まれた髪だけが変わらぬつややかさで白蝋の顔をふちどり、その顔の変化を知らせた。
「何かほしいものはございますか?」
「なにも、いらない……」
病床にあって、か細い声で少女はつぶやく。代わりに手にかすかに力がこもった。指先は冷たかった。
「ユーリア、ユーリア、こわいゆめをみたの……」
「さようでございますか」
ユーリアはその手を握り返し、もう片方の手を重ねた。やさしく問いかける。
「どのような夢でございますか」
「おとうさまが…… シュネイゼをおしおきするの……」
ユーリアは動揺ひとつ見せなかった。微笑む。慈母のごとき優しさで。
「ただの夢でございますわ、シュネイゼ様。国王陛下はいらっしゃいません」
「ほんとうに?」
「ええ、たがいなく」
ユーリアが力強く手を握り返すと、かすかにシュネイゼが微笑んだようだった。ユーリアは頬を緩める。そして、冷たい手を温めようとするように撫でさすりながら、もう一度、問いかけた。
「喉は渇いていらっしゃいませんか? なにか、甘いものでも召し上がりませんか」
「……のど、かわいた、かも」
「かしこまりました。では、檸檬を入れた蜂蜜湯をお持ちいたしましょう」
ユーリアは立ち上がる。けれど、シュネイゼの手が、すがるようにわずかに手を握り返した。淡紫の瞳が不安に満ち、羽根枕と黒髪の海からユーリアを見上げる。ユーリアは微笑み返した。力づけるように。
「どこにも行きませんわ」
ほんの一瞬だけ、力強く、手を握り返す。
「いとしい、私のシュネイゼ様」
「うん……」
ようやく、シュネイゼは手を解いた。ユーリアはその額をそっと撫でる。そして、静かにスカートを持ち上げ、手燭を取って、部屋を辞した。
下の階へと降りる。そこには、女官長のテーアの姿は無かった。壁に手燭の明かりが揺れ、静まり返った階に影を落とした。窓の向こうにかすかに明かりが揺れたように思う。水場へと蜂蜜湯のピッチャーを取りに行く足をふと止めて、ユーリアは、窓から外を見た。
―――主人を無くしたうつくしい庭園の森。そして、小さく美しい塔。
夏、このブランシュタインの最も美しい季節。けれど、このちいさくうつくしい庭園の森は主人をなくし、そこに歌声や笑い声が響くことは絶えて無い。もう二ヶ月のこととなる。
この森、そして塔の主人たるシュネイゼ・ブランシュが病床へとついたのは、夏が来るほんのわずか前のことだった。
彼女はある日、原因のわからないめまいを訴え、外へと出ることを嫌がるようになった。食べたものはすべて吐いてしまった。耐えず吐き気やめまいを訴え、ぐずぐずと泣きながら不機嫌を訴えることが増えた。その体調の変化は明らかだった。
何らかの病気だろうか? だが、城の典薬医がしたことは、彼女の体を養うために滋養のあるものを与えること、そして、遠方から、異国から取り寄せられた滋養強壮の薬物のたぐいを処方することだけだった。その理由は分かることが無かった。シュネイゼは見る間にやせ衰え、床から立ち上がることが少なくなった。
短い間ならば立ち歩くこともできる。けれども、床についているほうがずっと楽なようだった。聞き分けの無い赤子のようにぐずぐずと泣き、繰り返し悪夢を見ては悲鳴を上げて飛び起きた。彼女の体を侵す病の存在は明らかだった。けれども、原因が分からない。すくなくとも分からないと医者は言った。
けれども、それがただの口実だということくらい、ユーリアにも分かっている。
テーアは何かの話があるといい、塔を空けていた。シュネイゼは今では年長のテーアよりも年の近いユーリアのほうを親しく感じるらしい。ユーリアが専らシュネイゼの看護のために病床にはべり、何くれと彼女の世話を焼いた。吐き気や頭痛、めまいを訴えるときには辛抱強くそれを慰め、退屈だとぐずるときにはおとぎ話を語り聞かせた。ユーリアは良い語り手だった。ありとあらゆる種類の物語に精通していた。まるで、年老いた熟練の語り手のように。
……テーアはどこだろう?
ユーリアは料理用の炉の熾き火をかきたて、水を満たした薬缶を火にかける。その水が湯になるまでの短い間に、窓を押し開け、外を見る。
夜でも暖かな空気が流れ込み、その涼やかな湖を渡る風が赤痣の頬を撫で、きっちりと結い上げられた焦茶色の髪を撫でた。天を見ると真円の月が天頂に近い。ユーリアはしばし、淡い青緑色の目を細めてその月を見上げていた。
ふいに、ぎい、と音を立てて、背後の扉が開く気配が聞こえた。ユーリアは振り返った。
そこには、テーアがたっていた。
「……ユーリア」
「どうなさいました、テーア様?」
彼女は、なぜか、青ざめているように見えた。その白灰の髪も、皺の目立ち始めた頬も。
炉の上では薬缶が湯気を上げ始めている。湯気の微細な水の粒子が燭のかすかな明かりに光る。そのゆらめきをわずかの間見つめ、そして、テーアはユーリアに向き直った。
「シュネイゼ様が何かをご所望ですか」
「檸檬を入れた蜂蜜湯をさしあげると申し上げました」
「そう。では、」
テーアは瞬間、言いよどんだ。……けれど、次の瞬間、大股に近づいてくると、ユーリアの手を握り締めた。痛いほどに。
「これを入れて差し上げなさい」
何かが、ユーリアの手の中に、押し込まれた。
ユーリアは瞬間、自分よりも小柄なテーアの顔を、見た。
青ざめ、土気色になった顔。こわばった唇。ユーリアは手の中をそっと見る。そこにあるのは小さな薬包だった。なにか、さらさらとした白いものが入っている。
ユーリアが口を開くよりも先に、テーアが、硬い声で言った。
「これは薬です。シュネイゼ様を幸福にして差し上げるための薬なのです」
テーアの早口はユーリアの質問を許さない。矢継ぎ早に継がれる言葉が、却って、その裏にある『真意』を鮮やかに伝える。
「さる方からいただいたとても、とても貴重な薬です。けっして無駄にするわけにはいかない。できるだけすみやかに、シュネイゼ様に召し上がっていただかなければなりません。……わかりますね、ユーリア?」
ユーリアの淡い青緑色の目が、瞬間、テーアの目を見つめた。
テーアは、ユーリアの目を決して見上げようとしなかった。だから、そこにある感情に気付かない。代わりに硬く硬く、爪を立てるようにしてユーリアの手を握り締める。その手がかすかに震え、汗ばんでいた。
やがて、ユーリアは、短く問い返した。
「薬、なのですね?」
「その通りです」
「シュネイゼ様を、しあわせにして差し上げるための?」
「ええ。……あなたは忠義な小間使いだったはずです。わかりますね、ユーリア?」
ユーリアは答えない。テーアは爪を立てる。ユーリアの顔をキッと睨んだ。けれどもそのとき、すでにユーリアの目は、己の手へと伏せられている。
「この事は他言無用です。それでは、確実にシュネイゼ様に差し上げるように」
それだけ言うと、テーアは、その手を解いた。すばやくきびすを返すと、部屋を出て行く。音高く戸が閉じられた。
革の靴の底が、音を立て、走っていく音が聞こえた。足音はおそらく戸を潜り抜け、もう一枚の戸を開いた。塔から外へと駆け出していく。まるで、事の顛末を見届けるということから、逃げるように。
ユーリアは手を開いた。そこには薬包が残されていた。ちいさな薬包。何かの結晶を細かく砕いたような、白い粉。
背中では湯が沸き、重い鋳鉄の薬缶の蓋がことことと音を立てている。ユーリアは静かに手の中を見つめ、それから、窓の外に目を移した。空を見た。真円の月が昇る空を。
足音が階段を上り、音を立てて、戸を開いた。
「ユーリア」
「もうしわけございません。遅くなりました」
ベットの上に横たわったままのシュネイゼが、手を伸ばし、ユーリアを迎えた。ベットの傍らにある小卓に盆を下ろし、ユーリアはシュネイゼの手を迎える。細くなった雪白の手が、闇雲にユーリアの手を求めてくる。ユーリアは手を貸して、シュネイゼをベットの上に起き上がらせてやった。
「ユーリア、あのね、かげがね、おとうさまなの」
「影が、国王陛下に見えるのですか?」
「おとうさまが、……っていうの。シュネイゼ、……じゃないのに」
抱きついてくるシュネイゼの背中を抱いて、ユーリアは、その背中をとんとんと軽くたたいてやる。赤子をあやすように。
「それは恐ろしい思いをなさいましたね。よくぞ我慢なさいました。シュネイゼ様はお偉くていらっしゃいます」
「うん……」
そう言われてやっと、シュネイゼは、微笑みを浮かべた。こけた頬、落ち窪んだ目であっても、変わらぬ無邪気な笑顔だった。一度も変わったことの無い、無垢なままの笑顔だとユーリアは思う。
シュネイゼが幻覚を見ているのか、それとも、子供が天井の木目を恐れるのと同じ類のことなのか、それは、ユーリアには図りかねた。
けれども、シュネイゼが何かに対してひどくおびえているのは本当だ。それは、彼女の口から出れば『おとうさま』になる。けれども、シュネイゼにとって恐ろしいものは、すべて、『おとうさま』なのだ。一度とて変わったことは無い。
「シュネイゼ様……」
ユーリアは、シュネイゼの背を抱いたまま、その耳元にささやきかける。
「シュネイゼ様にとって、しあわせとは、一体何なのですか?」
「……しあ、わせ?」
シュネイゼは、きょとんとしてユーリアを見た。
透き通る淡紫色の瞳。水のように澄んだ青緑色の瞳。二つの瞳が交錯する。ユーリアはそっとシュネイゼの手に手を重ねる。
シュネイゼは、『魔女』だ。
彼女の手は、触れたものの想いを読む。シュネイゼの知能によるものか、それとも、その力そのものの限界なのか、その力自体はごく弱いものだ。ただどのような感情を感じているのか、あるいは、強く心に思い浮かべていることは何なのか、その程度を感じることしかできない。それでも、この想いは言葉で言うよりも強くシュネイゼに伝わるはずだ。ユーリアは信じ、シュネイゼの手をぎゅっと握り締めた。
「シュネイゼ、しあわせ、わからない……」
「ええ、私にも分かりません…… けれど、今、シュネイゼ様はしあわせでいらっしゃいますか?」
瞬間、シュネイゼの目に、陰が差した。
色あせた血紅の唇がわなないた。かすかに言葉を押し出した。
「……しあわせ、じゃない」
「何故でございますか?」
「だって、シュネイゼは、シュネイゼだもん……」
ぽたり、と音を立てて、シーツに小さなしみが出来た。シュネイゼは拳を握って、幼い子供のように顔をこする。
「ほかのだれでもないもん。シュネイゼだもん。……でも、ここにいるシュネイゼは……」
「ここにいては、シュネイゼ様は、シュネイゼ様ではない?」
言葉は難しく、彼女に理解することは難しかっただろう。けれど、シュネイゼはこくんと頷いた。
それを見て取って、ユーリアはふわりと微笑んだ。
いや、微笑んだのではなかった。それは決して笑顔ではなかった。けれども、それは、『微笑み』という名以外で呼ぶことの出来ない、曰く言いがたい、密やかな、穏やかな表情だった。
「私の可愛いシュネイゼ様」
ユーリアは、シュネイゼを抱き、その背を撫でた。
「かしこまりました。ならば、私がシュネイゼ様を、しあわせにして差し上げましょう」
「……ユーリア……?」
その手から何かを感じ取ったのか、シュネイゼは不思議そうにユーリアを見上げた。けれどユーリアは答えなかった。腕を解いてシュネイゼの顔を見たユーリアは、もう、何時ものような忠義な小間使いの顔をしているだけだった。
「さあ、蜂蜜湯を召し上がってくださいませ。そうしたら、もう一度お休みになられるとよろしいでしょう」
「……ねむくないもん」
「でしたら、私めが添い寝をしてさしあげましょう。そして、物語を聞かせてさしあげましょう」
ユーリアがそういうと、シュネイゼが、ぱっと顔を輝かせた。
「どんなおはなし? 人魚のお姫さまのおはなし? 百年ねむっていたお姫さまのおはなし? それとも、赤いずきんの女の子とおおかみのおはなし?」
「お好みのままに、どのようなお話でも」
ユーリアは微笑み、小卓から蜂蜜湯のピッチャーを取り上げ、磁器の器に蜂蜜と果汁を溶かしたものを注いだ。すでに飲みやすい温さにまで冷ましてある。シュネイゼは両手でたどたどしく器を持ち、すこしづつ、中身を飲んだ。ユーリアはじっとそれを見詰めていた。
器が空になる。器は卓の上に戻される。ユーリアはシュネイゼの髪を撫でる。そして、靴を脱ぐと、シュネイゼのベットの掛け布を除けて、その傍らに滑り込んだ。
手だけならば暖かいのに、シュネイゼの体温よりも、ユーリアの体温のほうが低い。寄り添い合うと、くすぐったそうにシュネイゼは微笑った。そして、ユーリアの胸に頭を持たせかける。耳には、カチ、カチ、カチ、というかすかな音が聞こえてくる。
「ユーリア、つめたいね……」
「寒うございますか?」
「ううん。……ユーリアは、さむくないの?」
「シュネイゼ様はとてもお優しくていらっしゃいますのね」
ユーリアは、腕を伸ばし、ぎゅっとシュネイゼを抱きしめた。
「おはなし、してくれる?」
「望まれるのならば、この
遊戯盤
にあるすべての物語を」
シュネイゼは微笑んだ。とても、幸福そうに。
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