12.



 ―――"白雪姫"の名で呼ばれる王姫の姿が衆目へと現れたのは、これが、初めてだったろう。
「あけてぇ! あけてよぉー!!」
 舌っ足らずの声で声も枯れんばかりに泣き喚き、まるで小さな子どものように、しゃくりあげながらドアを叩き続ける。長い黒髪は乱れ、顔は涙でぐしゃぐしゃに汚れていた。小さな砦の中の一室。七人の青薔薇派首魁、そして、王妃アデレードが密談を行うための隠れ城。
 泣き声はすでに丸一日たらずも途切れず、つれてこられたシュネイゼは、誰一人として近づけることを許さず、泣き、わめき、そして哀願をする。淑女らしいたしなみなど欠片も無い。ほとんど母親から引き離された4つの子どもも同じだ。嗅がされた麻酔の効果が切れてから、そのような様子はまったく変わることが無い。普段なら沈黙に支配されているはずの隠れ砦に響く少女の金切り声。……遠く反響するその声に、一人の老貴婦人が、あきれ果てたようなため息をつく。
「あきれたものだわ。……本当に、妃殿下の言う通りね」
「まったく」
 応えるのは、まだうら若い、けれど、司教の座を示す聖印をその胸に下げた男だった。それぞれさる高名な公爵の夫人、そして、大司教の後継として認められた青年。"青薔薇派"の首魁に最も近いところへと座す二人。だが、彼らがここにいるということは、決して彼らの本当の主人、公爵にも、大司教にも知られてはいない。
 城の奥に閉ざされていたはずの姫君が森の奥の隠れ城へとつれてこられてから、わずか、まだ一日。
 全ては、本来の"青薔薇派"の人々に知られないままに、ことが運ばれている。
 ……本来ならば、"青薔薇派"は、王家の紋章である"青薔薇"の名が示すとおりに、ブランシュタイン王家を擁し、それによって国を統治することを目的とした人々の集まりだった。
 だが、決して青薔薇派とて一枚岩ではない。今代の王であるローラントを擁してより、先代より宰相を務めているシュバインノルン公爵の権力が膨れ上がっている現在ならなおさらのことだった。すでに二代に渡って宰相の座に座しているシュバインノルン公の権力はいや増しに増し、政にまったく興味を示さないローラントの元においては、ほとんど、シュバインノルン公がこの国の支配者であるといっても過言ではない。王妃であるアデレード、そして、唯一ローラントの興味の関心であるシュネイゼ・ブランシュを擁しているのならば、シュバインノルン公に逆らうすべなど、この国にはほとんど無いとも言えた。
 けれど、はるか北方のブランシュタインにそうやって閉じこもったところで、未来は決して開けはしない。
「シュヴァンヴァイス卿、ほんとうにあの姫君でよろしくって? あれは見ての通り、あの通りの白痴ですわ。それも実の父親と通じた罪深い娘。あのように淀み歪んでしまっては、ブランシュタインの聖なる青い血とて、ただの汚泥も同然で御座いますのに」
 上座に座した一人の男は、その言葉に、ものやわらかに微笑んだ。
「ええ、分かっております。それに、あのような様であっても、シュネイゼ姫は決して悪い姫君ではございませんよ」
「白痴ならば思うが様に操れようということはありましょうが…… シュヴァンヴァイス卿の御名誉を汚しはいたしませぬか」
 口々に不満を漏らす老婦人と青年を、若い彼は面白そうに眺める。白い頬にかすかな笑みをたたえて。
「あなた方はご不満でしょうか、あの姫が」
「それは…… 当然でございますわ」
 老貴婦人は、いかにも憤慨したように応えた。
「あれは不義の子、いえ、罪の子でございますもの。実の父と通じようなどと、人にあってならざる所業。その結果に生まれてきた上、さらに己の父の子を孕むなどと…… 犬畜生にもおとるとしか言えませんわ」
「あのような見苦しい様こそ、おそらく、神のお告げでございましょうよ。あれは生まれてきてはならぬ姫だった、と」
 聖印の青年が首を振って応える。こちらは、諦めでも含んだような調子だった。
 だからこそ、彼らは己が主人を裏切る。
 老貴婦人は、己の夫を。
 青年は、己の師を。
 シュヴァンヴァイス卿、と呼ばれた男は、さも興味深そうに目を軽く細め、頬に指を当てる。
 ―――このブランシュタインでは、まだ、17年前の戦争の傷痕が、深く残されている。
 かつて、隣国リヒテルビンが"白鷲の聖戦"を思うがままにしたとき、彼らは決して討って出ることなく、極寒の祖国へと閉じこもり、決して戦わず護りつづけるという道を選んだ。
 だが、その結果は決して万全とは言いがたいものだったろう。その結果ブランシュタインはリヒテルビンと交戦することなく、結果、己が国土を失わずにすんだ。たとえばかつては大帝国であったことすらもあるヴァルトール皇国、あるいは葡萄が実り麦の平野続く豊穣な国土で知られたフランドル王国。リヒテルビンの白鷲王は8つの国を呑み、その影はなおもリヒテルビンという国を強く縛っている。英雄王の名声と、彼の血や遺志を引いたものたちの手によって大国リヒテルビンは発展を遂げ続け、今や、この大陸にあってリヒテルビンに戦いを挑むような愚昧を侵すものは一人としてありはしない。
 だが、それは『今』の話だ。
 リヒテルビンにも、かつては、瓦解の危機が訪れたことがあったのだ。
 それは、"白鷲王"シーグルドの、弱冠29歳という早すぎる死。
 シーグルドの死の真相は、謎に包まれている。シーグルドは戦士としても一流であり、王としても類も無い才覚を持つという、100年に一人の英雄王とすら謳われた男だった。その彼が病を得たのでもなく、戦場で倒れたのでもなく、何の前触れも無く突然に冥府へと連れ去られた。……その瞬間、リヒテルビンという国は、瓦解の危機へとさらされたのだ。
 リヒテルビンの支配下へと置かれていた旧国々が、次々と声を上げ、己が主権を取り戻そうとした。
 そして同時に――― その瞬間を持って、かつてならば決して戦を挑もうとは思いすらしなかったような相手へと、その隙を打って攻め入った国すら存在したのだ。
 ブランシュタインの国土は、貧しい。
 国土の半分以上を凍土に覆われて、耕作に適した土地が少ない。いくら大地の富に恵まれ、宝石や鉱石を産出することができても、その鉱山を年の半分も閉じていなければならないのでは話にならない。ブランシュタインの港は冬には流氷に閉ざされる。船を出すことすら出来ない。極寒の国、ブランシュタインは、その寒さゆえにリヒテルビンの北上から免れたが、同時に、その寒さゆえに決して富めることのできない定めを負っているのだ。
 決して凍りつくことの無い豊穣な国土。氷に閉ざされぬ港。それこそがブランシュタインの長の望み。
 だが、それを得るための千載一遇のチャンスを、シュバインノルン公は、むざむざと見逃した。―――ただ己が保身を保つ、それだけのために。
「ゾフィー姫……」
 ぽつり、呟く彼に、老婦人と青年が、顔を上げた。
 青年は卓に肘を着いた手の上に顎を乗せ、にっこりと微笑んだ。
「お美しい姫君であったと聞いております。もしや刀自はゾフィー姫を知っていらっしゃるのでは?」
 老貴婦人の皺深い顔に、苦いものが滲む。古い傷をえぐられたように。
「ゾフィー・クレティア・フォン・ブランシュタイン…… ローラント王の姉姫」
「ゾフィー姫は、聡明な方でしたわ。少なくとも現王陛下よりは」
 老貴婦人は、吐きすてるように言った。
「不敬とは存じておりますわ。けれど私、思うこともございますの。仮にゾフィー姫が王座を継いでいたのならば……」
「我がリヒテルビンとも、より良い関係を築くことが出来ていた、と?」
 それとも、と彼はごく何気なく続ける。
「ゾフィー姫ならば、現在ならばリヒテルビンの版図とされている地、そう、たとえば決して氷に閉ざされることの無い港一つ、豊かな黄金の麦の実る平野一つほども得ることが出来ていたかもしれないとおっしゃるのですね」
 聖印の若い司教は顔を上げる。まじまじと、シュヴァンヴァイス卿を見つめた。
 ……年若い青年だ。むしろ、少年といってもいいかもしれない。あどけなさの残る横顔など、まるで少女のようですらあった。だがその言葉の直裁さには、若さから来る愚かさ軽率さなど欠片も無い。彼は、まったくこだわることなく、真実ただありえたかもしれない可能性として、その言葉を語っているのだ。
 若い司教は緊張をごまかすように、杯の葡萄酒を一口飲む。そして応えた。精一杯に平然を装いながら。
「ぶしつけな言い方をすれば、そのとおりとなりましょう」
「……」
 シュヴァンヴァイス卿は、軽く目を細めただけだった。微笑うように。
「けれども、それも決して悪い取引ではございますまい。我がブランシュタインには豊富な鉄が、銅が、銀が、他にも無数の宝がある。リヒテルビンとてそれを求めぬわけではございませんでしょうに」
「ええ、その通りだ」
 今では、リヒテルビンとブランシュタインの関係は、決して良いものとはいえない。
 "白鷲の聖戦"のときに決して従属せず、争いすらもせず、ただ冷たい沈黙を保ったことがそもそも原因といえるだろう。その後も再三の和睦の機会がことごとく挫かれたことにより、それぞれの国の間には冷たい沈黙が横たわっている。陸路も海路もないのなら、せっかくの資源にも意味が無い。
 兵に篤いリヒテルビンならば、鉄や銀といった金属類、さらには弓や馬具に用いる木材などは喉から手が出るほどに欲しいだろうに、それすらも宰相シュバインノルン公の猜疑心により取引もままならない。逆に地味の薄いブランシュタインにとっては事態はもっと深刻だ。麦や豆といったものだけではなく、塩や香辛料といったもっと重要なものにいたっては、手に入れることが出来なければ、即、それは国力の減退を意味する。
「……シュネイゼ・ブランシュ姫は……」
 ふと、シュヴァンヴァイス卿の唇から、話の筋から漏れるような名が、零れた。
 老貴婦人が、若い司教が、眉を寄せる。
「お美しい姫だ。とても」
「……」
 老貴婦人と若い司教は軽く目配せをしあう。困惑の表情の語るものは同じだ。
 たしかにシュネイゼの面差しや体つきには、卓越した美質が存在する。だが、この城へとつれてこられて以来、彼女のやることといえばめそめそと情けなく泣き崩れ、目の前で死んだ侍女の名を呼んでぐずり、赤子のように駄々をこねるばかり。その振る舞いはとてもではないが王姫、それどころか年頃の乙女にふさわしいとはいえない。……あの狂女も同然の娘を、なぜ、『美しい』などと評するのだ?
「ゾフィー姫とよく似ておられると、そう、聞き及んでおります」
「……ええ……」
 老貴婦人が、苦々しげに応えた。
「母娘でございますもの」
 だが、ゾフィーの黒い瞳に宿っていた英知の光はシュネイゼには無い。明け染めた空さながらの淡紫の瞳にあるのは、ただ、愚者にだけ許される無垢さばかりだ。
 シュヴァンヴァイス卿は微笑む。微睡むように、美しい微笑み。
「ゾフィー姫がなぜ我が国へと身を寄せんと願ったのか…… それを、刀自はどうお思いでしょう?」
「……」
 若い司教はそれを知らぬ。ゾフィー姫存命の頃には、彼はまだ子どもという年齢だった。その忌まわしい物語を語らんとするものは誰も居ない。二人の青年の視線を受けて、老貴婦人はためらいながら口を開いた。
「ゾフィー姫は…… このブランシュタインの閉ざされた過ちを正そうと…… それに、ローラント陛下からも……」
 老貴婦人は皺のよった額を押さえ、首を横に振った。
「忌まわしいことですわ、己が弟に邪恋を抱かれるなどと。ゾフィー姫はそのような愚かな弟を見限り、このブランシュタインとリヒテルビンの間に和睦を結び、己が愚昧な弟を諌めんと願ったのだと思います」
「だから、己が大望を果たすため、ひとたびブランシュタインを離れ、リヒテルビンへと逃れんと望んだ、と?」
 それは、今から17年も前のこと。
 ……ブランシュタイン王姫ゾフィーが、"青薔薇派"によって、暗殺されたという事件。
 当時、このブランシュタインには、隣国であった今では名も無い国の王侯貴族が、幾人か亡命していた。
 はるか遠い血縁に当たるという事も在るだろう。彼らはリヒテルビンによって攻め落とされた自国から逃れ、極寒のブランシュタインへと身を寄せていた。先王は彼らの言葉を聞き、己もまたリヒテルビンに攻め入らんと望んでいた。……いたと言われている。全ては闇の中、なぜなら、彼らの亡命を受け入れてよりわずか数ヶ月で、王は病によって世を去ったのだから。
 それに代わって王子であるローラントが王位を継いだとき、同時に、亡命してきた王族たちは宰相シュバインノルン公によって処刑された。その罪状は先王を唆し、すでに当時病に倒れていた王の心を悩まし、遠回りにとはいえ王の命を奪ったということ。盗人猛々しいとは言うまい。全ては乱世のことだったのだから。
 だがゾフィー姫は、人々が陰謀がために次々と命を落としていくという世を、深く憂いた。
 ブランシュタインが国を閉ざし、決して人々を受け入れないがゆえに、ブランシュタインの国内すら擾乱の止むことがない。まして己が弟ローラントは宰相シュバインノルン公の傀儡とされるだろうことが明らかだった。国を開かねばならなかった。"白鷲王"シーグルドは、奇妙なことに、苛烈極まりない王であうと同時に、無慈悲な王ではなかった。戦を望まぬものに対しては、ふさわしいものを持って遇する。中には表立って支配されること無く、ただ、形式だけを持ってリヒテルビン王に臣下の礼を尽くすことのみを命じられ、一国としての形態を残すことを許された国もあったのだ。
 凍土の国であるゆえに、ブランシュタインは己が国家のみでは成り立つことが出来ぬ。リヒテルビンとの完全な断絶は、国民の餓死や、疫病の流行になどによって、報われることとなった。宰相シュバインノルン公はそれを黙殺し、同時に、僅か16歳の少年王ローラントにはそれを顧みるための知識さえあたえられなかった。シュバインノルン公は国を選んだ。だが、彼は民を選ばなかったのだ。心優しいゾフィー姫は、その惨状を深く憂いた。
 そして同時に、ゾフィーには、己が国を逃れんという理由がもう一つ存在していたのだ。
 己が弟からの禁じられた愛、という、もう一つの理由が。
 ゾフィーがリヒテルビンへと持ち去らんとしたものは、斬首された隣国の王族の首級、そして、王権の指輪。それらを手にブランシュタインの国境を越えようとしたゾフィーの手には、もう一つ、大切に抱きかかえられていたものがあった。
 己が弟との間に生まれた子。後にシュネイゼ・ブランシュ……『Schneeweisschen(白雪姫)』と名づけられる赤子が。
 ゾフィー姫がブランシュタインの国教を超えることが出来ず追っ手に討たれても、幼いシュネイゼは殺されずに残った。それは王妃となったばかりであったアデレードが、己が命をかけてその助命を嘆願した故でもあった。
 そして17年の時が過ぎる。かつての赤子は白痴の娘と育ち、愚昧な王は姉の面影を見出した娘にうつつをぬかした。宰相の支配は揺るぐことはなく、今となっては誰がこの国の王であるかも分かりはしない。"青薔薇派"の支配は決して揺るぐことは無い…… だがそれはただ、王を己の傀儡とした、宰相シュバインノルン公の天下が続いているというのみのことでもあるのだ。
「シュヴァンヴァイス卿」
 長く血塗られた17年の歳月。青く淀んだ『聖なる青い血』の物語。
 その全てを見てきた老貴婦人にひたと見据えられて、けれど、彼の微笑みは揺らがない。
「卿は約定を違えますまいな…… 我らがシュネイゼ姫を擁したのも、すべてがこのブランシュタインがため。全てが為されるとおりとなって後、卿は変わらず我らの朋であると」
 シュヴァンヴァイス卿、と呼ばれる少年はうなずいた。絹のように滑らかな髪が肩を滑った。
「違いなく。……我が、白鳥の紋章に賭けて」
 その白い面差し、優雅極まりない微笑。さながら、伝説に詠われる白鳥乙女のように美しい。
 老貴婦人と若い司教、二人の貴人は己が置かれた立場すらも忘れ、ひと時その無瑕の美に、我を忘れた。




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