13.
「……っく、うっく……」
乱れた髪が額にはりつき、淡紫の眼の周りが腫れぼったく腫れあがっている。それでもシュネイゼの眼からこぼれる涙はとまらない。ぽたぽたと音を立てて、冷たい石の床へと落ちた。
ここはどこなのだろう。なぜ、自分はこんなところにいるのだろう。シュネイゼには何も理解できなかった。ただ、気が付いたら、生まれてこのかた一度も足を踏み出したことの無い花園の庭ではなく、この、見知らぬ冷たい部屋にいた。
窓はあるが、鉄の格子がはめられ、逃げることなど到底適わない。おそらくシュネイゼが己の身体を傷つけることを怖れてのことだろう、部屋には燭台の一つも無い。夜になれば真っ暗になる。寝台は清潔で柔らかだったし、食べるものや飲むものはあてがわれていたものの、シュネイゼは到底泣きやむことなどできなかった。
記憶の中に残っているのは見知らぬ男たちの襲撃。黒い靴踵が音も無くやってきて、シュネイゼを寝台の下から引きずり出し、何か良く分からないものを嗅がせた。その瞬間に意識が途切れたのは覚えている。……そして、大好きなユーリアが、自分をベットの下に隠し、男たちの前へと立ちふさがったことも覚えている。その前にユーリアが自分の手を握り締め、頬に口付けをして、囁いた言葉。
『姫様、ほんの僅かなお暇ですわ。もしも姫様が哀しまれるようなことがあれば、すぐにまた馳せ参じます』
……ユーリアは、すぐに戻ってくる、と言ったのだ。
だが、シュネイゼは見た。血塗られた鋼の剣を持った黒衣の男を。ユーリアは殺されてしまったんだろうか。テーアはどうしたんだろうか。シュネイゼにとって唯一慕わしく懐かしかった人たち。二人とも、あの黒い男たちに、殺されてしまったんだろうか。
「ユーリア…… テーア ……っく」
ぽたぽたと涙が滴る。シュネイゼの白い寝巻きに滴り落ちる。あの日、塔から攫われてより、一度も着替えさせられてはいない。シュネイゼが着ているのは、あのときから変わらない白くやわらかい生地の寝巻きだけだった。
どうしてなんだろう。
どうして、こんなことになるんだろう。
シュネイゼは、どうしても上手く思考をまとめることの出来ない頭で、一生懸命に考える。
自分が、『ばか』であるということはシュネイゼも知っていた。文字も読めない、走ることも出来ない。上手にフォークとナイフをあやつって物を食べることも出来ない。自分は出来損ないの半端ものだ。……けれど、それだけならまだ耐えられる。けれど、こんなシュネイゼにも、どうしても哀しくて仕方の無いことがある。
それは、自分が、……であるということ。
「姫」
ふいに、戸が叩かれる。シュネイゼはびくんと顔を上げた。
思わず逃げ出そうとするが、けれど、あまり長い間同じ姿勢で泣き続けていたせいか、足がしびれてままならない。座り込んだままで身を硬くするシュネイゼの前で、戸が開いた。現れたのは一人の男だった。
「姫様?」
「ひっ……!!」
黒ずくめの姿。黒い洋袴に、鋲を打った黒い長靴。身に付けたチュニックも、腰に回された剣帯すらも全てが黒い。彼は片手に盆を手にしていた。温かく湯気を上げる皿の載った盆を。
「やだ、やだよう……」
座ったまま、ずるずると這いずって逃げるシュネイゼに、彼は少し悲しそうな顔をした。それから戸ととじ、ちいさな卓の上に盆を置く。白くてやわらかいパンといい匂いのするシチュー。キノコの酢漬けと茶色い糖蜜のかたまり。素焼きのピッチャーに入ったミルク。
「やだよ、やだ……」
部屋の隅にうずくまり、シュネイゼは両手で頭を抱えて、カタカタと震える。知らない人は怖い。男の人だったらなおのことだ。ぶたれるかもしれない。蹴られるかもしれない。もっと怖いところにつれていかれるかもしれない。ただ本能的な恐怖のままに、身体を縮めて震えているシュネイゼに、彼は、しばらく考え込んでいるようだった。
……やがて、彼は、何かを呟き出す。
「……パフ、魔法の竜が暮らしてた、海に秋の霧たなびくホナリー……」
シュネイゼの肩が、ぴくんと動いた。
一杯に涙を溜めた眼で、驚いたように振り替える。彼は微笑む。そして、軽く節をつけるようにして、素朴な唄を口ずさみ始める。
「ボートをこいで 旅を続けた 大きなしっぽに ジャッキーを乗せて 王様たちは 挨拶をした 海賊たちは 旗を下げた」
シュネイゼも、知っている唄だった。
淡紫の眼を大きく見開いたシュネイゼが見つめると、青年は青灰色の目を細めた。ゆっくりとシュネイゼのほうへと歩いてくる。シュネイゼが怯えることが無いように、ゆっくりと、ほんとうに、ゆっくりと。
「歳をとらない竜とは違い ジャッキーはいつしか大人になり とうとうある日 遊びに来ない さびしいパフは 涙を流す」
すぐ側までやってきた青年は、けれど、シュネイゼに手が届かないぎりぎりの距離で、足を止めた。ゆっくりとしゃがみこむと、シュネイゼに向かって微笑みかける。襟首で結わえられた暗い茶色の髪。やさしくてきれいな顔立ちをしている。けれど、その頬には、恐ろしい三本の傷痕が走っていた。
「パフ 魔法の竜が暮らしてた 海に秋の霧 たなびくホナリー……」
青灰色の眼を細めて微笑む。優しい笑み。シュネイゼはただ赤くなった眼を丸く見開いていた。
その唄。一人ぼっちの竜に友達ができて、そして、大人になった友達に去られた竜が、またひとりぼっちになってしまうという唄。
シュネイゼは、たった一人の口からしか、その唄を聴いたことが無かった。……痣だらけの、醜い、優しいユーリアの口からしか。
眼を見開いてこちらを見つめるシュネイゼに、青年はにこりと微笑んだ。
「姫、お腹は空きませんか?」
「……」
「鹿の肉のシチューと、白い粉のパン。それと、糖蜜もあります。ほんとうはパンに塗るものですが、ミルクに糖蜜を入れたものも、お好きでしょう」
なぜ、彼がそんなことを知っているのだろう。シュネイゼは全身を警戒させたまま、けれど、ほんの少しだけ青年のほうを向く。
「……あなた、だれ?」
青年は困ったように小首をかしげた。どう名乗るか、と悩んでいるのか。
代わりに彼は手袋を外す。そして手を差し出す。剣を握り続けて硬くなった、その手を。
シュネイゼは、青年の青灰色の目、そして、その手を、かわるがわるに見比べた。
「姫様は、人の心を読む力を持っているとおっしゃいます」
青年は、静かに言う。
「俺が『誰』なのかは、姫様がどうぞお聞きください」
シュネイゼはためらった。伸ばした手を掴み取られたら、と思うと怖かった。けれども青年の穏やかな青灰色の眼を見ていると、彼はそんな乱暴なことをしないのではないか、となんとなく思えた。だからおずおずと手を伸ばし、青年の手を握った。
シュネイゼの指先から、ぬくもりが沁みるように、じんわりと、青年の『想い』が沁みてくる。
……優しくて、強い。そして、とても痛く、とても哀しい。
そして、シュネイゼのことを、傷つけるつもりはない。それどころか、護りたいとすら、想っている。
シュネイゼはいつの間にか泣きやんでいた。青年を見上げる。青年は微笑んだ。優しい笑みだった。
「俺のことは、カスパール・ハウザーとおよびください」
シュネイゼが不器用にスプーンを操り、シチューをこぼしながら食事をしている間、彼はずっと横に座っていてくれた。素焼きの器にミルクを注ぎ、パンに糖蜜を塗ってくれる。パンは少し固かった。「少し前に焼いてあったものだから」と彼は申し訳なさそうに言う。
悪い人じゃない…… とシュネイゼは思う。そして、彼は、ユーリアのことを知っているのだろうか。気が付くと一昼夜以上も何も食べていなかったから、普段はあまりなれない味付けの鹿肉のシチューも、硬くなったパンも、美味しく食べることが出来た。でも、キノコの酢漬けはちょっと苦手だ。食べるのを嫌がってぐずると、彼は苦笑した。
「なんだか、聞いていた通りですね。けれど、食べないと体が持ちませんよ」
「カスパール、ユーリアをしっているの?」
「……」
彼は少し困ったような顔をした。それが皮切りになった。シュネイゼは、思わず、問いかける。
「ここ、どこ? カスパール、だれ? なんで、シュネイゼ、ここにいるの? ……ユーリア、テーア、どこ?」
早口になると舌がもつれる。きちんとすべて聞こえているのだろうか。だが、ずっと閉じ込められ続けていたのだ。一度はじけてしまうと、閉じ込めていた不安が止まらなくなる。シュネイゼは思わず手を伸ばし、彼の袖を掴んだ。
「ここ、いや。こわいの。みんなこわい。みんなシュネイゼがきらいなの。おうちにかえりたいの。シュネイゼ、ここにいたくないの。かえりたいよ。ユーリアとテーア、あいたいよ。かえりたいよ、かえりたい……!!」
不器用にまくし立てると、じわり、と目の奥が、熱くなった。
鉄の蔓薔薇が覆った窓。見下ろす庭は茨の廃園。黒々と遠くまで広がる森。まるで知らない土地。知らない人たち。無理やりにここにつれてきて、戸を閉じきってシュネイゼを閉じ込めた。ドレスを着た老女や、司祭らしい格好をした青年の姿をちらりと見かけた記憶があるけれど、彼らの眼は害虫でも見るかのように冷たくて、シュネイゼのことを怯えさせた。知らない場所は怖い。知らない人は怖い。……ここは怖い。ここはいや。
「……っく、うっ……」
しゃくりあげはじめるシュネイゼの眼から、ぼろぼろと涙が零れた。ぎゅっと目をつぶっても止まらない。手の平で眼をこすると、手がびしょぬれになった。17歳の乙女が4つの幼子のように泣きじゃくる姿を、ここにいる人たちは皆、軽蔑と嫌悪の目で見た。
けれど、カスパールは、そうではなかった。
ふいに、頭にあたたかさを感じて、シュネイゼは、眼を開いた。カスパールだった。澄んだ青灰色の眼が、痛ましそうにシュネイゼを見ていた。
「姫様、お気の毒に。どれほどお辛く、不安でいらっしゃったか……」
カスパールの手が、髪を、そっと撫でた。剣を握るための硬い掌。けれど、その手は暖かかった。今までシュネイゼが知らなかった暖かさ。
シュネイゼが腫れぼったい眼でぼうっと見上げると、カスパールは両手でそっとシュネイゼを頭を抱いた。胸に抱き寄せることは無い。貴婦人に対する礼儀だろう。シュネイゼには知るよしも無いが、それは、淑女に対する礼儀を超えない限りでの、精一杯のぬくもりだった。
幼い少女を見るような眼。彼は、17歳という年の姫君を見る眼ではなく、一人ぼっちでよるべのない、孤独な幼子を慰める眼で、シュネイゼを見た。
彼は、三本の傷がある頬に、青灰色の眼に、笑みを浮かべる。まるで幼い妹をいつくしむ兄のような笑み。
「俺は…… 俺とあの方は、あなたをお守りするために、参りました」
「あの、かた?」
彼は眼を移す。鉄の薔薇の向こう、太陽が沈みつつある。代わりに浮かんでくるのは真新しい銅貨のような月だった。
「立てますか、姫様?」
「……?」
彼は立ち上がる。腕を貸されて、シュネイゼもよろめきながら立ち上がった。体がたよりなく、足が上手く地面を踏まない。もともとの生まれつきで、シュネイゼは歩くのが苦手だったから。けれど、まるであらかじめそれを心得ていたかのように、彼の腕は力強くシュネイゼを支えてくれた。
「どこ、いくの……」
青灰色の眼がわずかに伏せられた。その想いはあまりに複雑で、シュネイゼには読むことは出来ても理解は出来ない。彼は言った。
「『ユーリア・ベルトラント』が、姫様をお待ちです」
シュネイゼは、ただただ、呆然と眼を瞬いた。
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