14.



 月が昇る城塁の上へと、二人は、昇った。
 狭い螺旋の階段。無骨な玄武岩を削り出した城壁は硬く分厚く、所々に弓兵が覗くための細い窓が切られている。城の壁には蔦が這い、ときに中にまで入り込み、天井にちいさく葉を茂らせる。貝殻模様に切られたバルコニー。塔の頂上、見張り台へとたどり着いた瞬間、びょお、と冷たい風が吹いた。眼前に広がる暗い森。赤くくすんだいびつな月。
 ……そこに、細い人影が、一つあった。
 シュネイゼは呆然と眼を瞬く。理解した瞬間、それは、喜びへと形を変えた。自らを支える男の腕を振り解くのももどかしく、シュネイゼはまろぶように駆け出した。転びかけた彼女を細くたおやかな腕が抱きとめる。湖水の色をした瞳が微笑みを浮かべ、そのまま、シュネイゼを抱きしめた。
 身体に伝わってきたのは、間違いなく、シュネイゼにとって覚えのある体温だった。
「ユーリア……!!」
 ユーリア、ユーリア、とただ名前を繰り返し、その身体を抱きしめる。安堵の余り涙があふれそうだった。そんなシュネイゼを、ユーリアもまた、やわらかく抱き返してくれた。乱れた髪をそっと撫でた。
「お久しゅう御座います、シュネイゼ様」
 たった二日ほどしか離れていないのに、もう、二度と会えないほどに離れていた気がした。ぽろぽろと涙をこぼすと、ユーリアは少し困ったような顔をして、シュネイゼの涙をぬぐってくれた。
「眼が真っ赤になっておりますわ、姫様。痛くはございませんか」
 シュネイゼはただただ、首を横に振った。痛くない。痛いなんて思わない。
「ユーリア、いたくない? だいじょうぶ?」
 問いかけると、ユーリアは微笑んで首を横に振る。シュネイゼは思わずユーリアの身体を確かめた。怪我をしていないか、どこか痛くないか。……ユーリアの身体には傷一つ無いようだった。身体を貫かれ、窓から落ちるのを、確かに見たような気がしたのだけれども。
「ユーリア、げんきで、よかった……」
 涙と同時に、笑みがこぼれた。心からの笑みを浮かべて、ユーリアを抱きしめる。自分より幾分か長身のユーリアを。
 ユーリアの細くて白い指が、丁寧に髪を撫でてくれる。抱きしめられて身動きのままなら無いユーリアは、けれど、少しばかり可笑しそうにくすくすと笑った。
「まあ、シュネイゼ様、髪もドレスもひどいことになってしまっていますわ。きちんと身づくろいをなさらないと」
「そんなの、しらないもん…… だって、ユーリアもテーアも、いなかったんだもん……」
「ええ、そうでございますね。もうしわけございません。けれど、シュネイゼ様がご無事で、ようございました」
 強い風が吹き、シュネイゼの髪を、ユーリアの髪を、あざやかに夜になびかせた。いつもは小間使いらしく堅苦しくひっつめていた髪も今は流され、ユーリアの髪は腰の辺りにまで水のように流れていた。水のように滑らかで、絹のように光沢のある髪。紺色のドレスと白いエプロンを脱ぎ、赤い月の光に照らされたユーリアは、まるで、妖しのものであるかのように美しい。
 ユーリアはシュネイゼの肩越しにかるく見張り台の様子を伺った。
 たった一つの階段の入り口には、黒衣の男が影のように控えている。他の場所へと連絡をするための筒はふさがれ、そもそもこの見張り台でもっとも大切な役割を果たすための鐘も取り外されていた。あたりまえだろう。今となってはこの城の役割は"青薔薇派"の密かな会合を催すということにある。この見張り台で話すことは、黒衣の男が裏切らぬ限り、決して誰かに聞かれることは無い。
 そして彼は、決して、裏切らない。
 彼は青灰色の眼を伏せ、己の腰のものに手を当てた。ただ、その意思を示すように。
 軽くうなずいて、ユーリアは、シュネイゼの肩に手を乗せた。その淡紫の眼を覗き込む。
「申し訳御座いませんが、シュネイゼ様…… 私はこのあとすぐに、シュネイゼ様の元より暫しのお暇を戴かなければいけません」
「ユーリア……?」
「今日は、大切なお話があって参ったのです」
 シュネイゼは口をつぐむ。意味はよくわからないが、何か、シュネイゼが大切なことを言おうとしているらしいということは分かった。微かに不安を覚え、見上げると、ユーリアは静かにシュネイゼを見つめ返した。
「シュネイゼ様の身体には、今、御子が宿っていらっしゃいます……」
「……」
 ユーリアの手が、シュネイゼの腹にそっと触れた。まだ膨らみ始める前の、ただ、少女らしくやわらかいだけというだけの腹。けれどその胎には、確実に、胎芽が育ちつつある。
 シュネイゼは己の手で腹を押さえる。まだ、言われたことが理解しきれない、という顔で。
「このまま十月十日を待たれたのなら、姫様は、母君になられることでしょう」
「……シュネイゼが…… おかあさまに、なるの……?」
 ユーリアはうなずいた。
「父君は、シュネイゼ様の父君、ローラント陛下でございます」
「……」
 シュネイゼの面差しに困惑が浮かんだ。
 自分が母親になる、などと言われても、理解など出来ない。己の周辺に、そして己の身体に何が起こりつつあるのかは、シュネイゼの理解力や判断力をはるかに超えていた。
 なぜ自分がここに連れてこられたのか。なにが起ころうとしているのか。誰が、何を望んでいるのか。
 不安に揺れそうになる眼を、ユーリアの眼が、ひたと見つけた。
「姫様、それは17年前に、姫様の母君が通られたのと同じ道でございます」
「……おかあさま、が?」
 ユーリアは、首を横に振った。
「アデレード妃殿下ではございません。……産みの母君である、ゾフィー殿下のお話でございます」
 その名前。
 とたん、シュネイゼの表情が、凍りついた。
 その名を知らぬわけがない。それは、シュネイゼにとって、呪わしい名なのだから。
 月ごとの閨で繰りかえし囁かれ…… 痛みと共に体の隅々まで焼き付けられた名。茨のように絡みつき、シュネイゼを呪縛し続ける、最も呪わしい名前。
 そう、確かに父王ローラントは、シュネイゼを愛した。
 姉姫を愛するその愛、そしてその裏腹の憎しみを、純粋に、シュネイゼの身体と心に、刻み付けたのだ。
「ゾフィー殿下は、ローラント陛下を愛され、シュネイゼ様を身ごもられた。そしてシュネイゼ様をお守りするために、お命を失われたのです」
 そこで短く言葉を切り、ユーリアは、シュネイゼを見つめる。
 その淡紫の眼には恐怖が浮かんでいた。
「いや……」
 シュネイゼは、身体をゆすり始める。指が無意識のように上がり、爪を噛み始めた。
「やだ…… やだよ、シュネイゼ、しらないよ……」
 ユーリアの眼は、湖水のように澄み渡り、そして、静かだった。身体を激しくゆすり始めるシュネイゼの肩に手を置き、「シュネイゼ様」と呼びかける。
「ゾフィー殿下はローラント陛下を愛していらっしゃいました。そして、シュネイゼ様がお生まれになった。……それを、シュネイゼ様は、どうお思いになります?」
「……!!」
 シュネイゼの体が、凍りついたように、動きを止めた。
 ピンで縫いとめられたように眼を離せない。目の前にはユーリアの眼がある。その瞳はあくまで静かだ。澄み切り、凍てついた深い水のように、なんら感情を含まない。ただユーリアは事実だけを告げる。そして問いかける。決してそこに、なんの恣意も含まずに。
 シュネイゼは、凍りついたように、言葉を失う。
 冷たい風が吹く。赤く歪な月が夜空から見下ろしている。シュネイゼの漆黒の髪が風に靡く。白いドレスの裾もまた。
 シュネイゼは、ユーリアの瞳の中に、自分自身を見る。
 漆黒の髪、雪白の膚、血紅の唇。
 世に類ない、と詠われる、絶世の美貌。そして、シュネイゼ自身は見たこともない、今は亡き美姫の色濃い面影。
 ―――シュネイゼにとって、もっとも哀しいこと。
 どれだけ長じても子どもの知恵しかもたず、乙女らしい恋も、嫉妬も、ささやかな傲慢さすらも知ることのできないシュネイゼが、たったひとつ、耐え難く哀しく思うこと。
 それは…… 
 シュネイゼの体から、力が抜けた。
 白いたおやかな腕が、力なく垂れる。シュネイゼはうつむいた。一滴の涙が落ちた。……たった一滴の涙が。
「ユーリア、シュネイゼはね……、……」
 その答えは、風に攫われて、夜風に消えた。
 目の前に立つ湖水の瞳持つ人以外の、誰の耳にも伝わることなく。
 ユーリアは、微笑んだ。そして腕を伸ばし、シュネイゼの身体を抱きしめた。強く、強く。
「心得ましてございます、シュネイゼ様」
「ねえユーリア、ユーリアは、シュネイゼをきらいにならないよね?」
 すがるようにその身体に腕を伸ばし、シュネイゼは、心細げに問いかける。
「シュネイゼがだれでも、きらいにならないよね?」
「ええ、けっして」
 耳元に囁くように答える。睦言のように、誓いのように。
「ならば、私は貴女を愛しましょう、シュネイゼ様……」
 赤い月の元、抱き合う二人へと強く風が吹き、二色の髪が風に靡いた。混ざり合い、舞うように揺れる長い髪。漆黒の髪と、白金の髪―――
 それを見つめていたのは黒衣の男一人。彼の眼には、ただ、ひどく複雑な色が浮かんでいた。





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