3.


 一人の女が、鏡の前に立っている。
「鏡よ鏡、この世で一番美しいのはだあれ?」
 問いかける、けれど、その声には感情がこもらない。女ならば誰しも持ち合わせるだろうナルシシズムのかけらすらもない。この国の特産であるガラスを用いた鏡は、周囲を細かな草花の彫刻で囲まれて、女の上半身を写し込むほどの大きさがあるだろうか。
 そう、それは美しい女だった。年のころならば30を過ぎた頃か。けれど、その美貌には未だ衰えの影もなく、威厳に満ちた蒼白な美しさを保っている。
 金の冠で抑えられ、編み込まれて肩から流れ落ちる髪は、古代の琥珀のような豪奢な金、赤みの強い黄金。瞳の色はエメラルド。頬骨が高く、端正な唇がわずかに薄く、それは、苦行に生きる尼僧のような、厳格さに満ちた美貌だった。萌え出づる草花がびっしりと刺繍された錦織のガウン。暗い葡萄酒色のアンダードレスとの境目を、紫水晶のピンで留めつけて。
『……この世でもっともお美しいのは、ブランシュタイン王妃、アデレード妃殿下でございます』
「御託はいいわ」
 アデレードと呼ばれた女は、冷たく答えた。
「シュレースヴィヒ派の動きが知りたいの。レヴァーテインの侯爵がお加減を崩されたそうね?」
『然り』
「それはご病気? それとも……」
『然り。お察しの通り』
「犯人は誰?」
『ただいま調べてございます』
 部屋には他の誰の姿も見えなかった。重い天鵞布の緞帳が幾重にも張り巡らされ、その鏡は部屋の奥に巧妙に隠されている。それ以前に、この『鏡の間』は、王妃その人にしか足を踏み入れることが許されない極秘の場所だった。
 国の人々は語っている。王妃は魔法の鏡を持っていると。その鏡に問いかけたなら、どのような問いでも答えられ、どのような謎でも解かれることのできる鏡であると。
 その答えは半分あやまり、半分が正しい。
 王妃の部屋の鏡は仕掛け鏡だ。向こう側には細い廻廊が設けられ、そこには人が潜むことができる。鏡の向こうに潜んだ密偵は、王妃その人すら顔を知らない極めつけの兵だった。『鏡の中の狩人』たち。正確には彼らは王妃その人に仕える兵ではない。王妃の出身であるシュバインノルン公爵家に仕える兵たちだ。
「レヴァーテイン侯爵は、リヒテルビン帝国派だったわね……」
『然り』
「ならば、その方向で調査を進めなさい。リヒテルビン派の動きについては、考えるだけ杞憂でしょうけれど、外憂は取り除いておくに限るわ。それと、青薔薇派にあたらしい動きは?」
 鏡はいくつかの名を答えた。何人もの貴族の名、彼らの動向。それは、すべて、王族ブランシュタイン家の血を引くものたちの名だ。青薔薇派。その名で呼ばれるものたちこそが、このブランシュタイン王家の紋章である青い薔薇を奉じるものたちだ。
 このブランシュタインは、600年の歴史を誇る、古い王国だった。
 かつて今だこの地に神の力が大きかった時代、ブランシュタイン王族は、この地に住まう冬の女神から、ブランシュタインを統治することを命じられたのだという。厳しい冬には氷雪から人々を守り、美しい春には萌え出づる花々の喜びを共に分かち合うようにと。そして、それ以来、ブランシュタインはブランシュタイン王家の手によって治められてきた。愚昧な王があり、英邁な王がいた。そして、現王であるローラントが即位したのが、今から10年ほども以前のことだった。
 それ以来、この国では、政争の絶えることが無い。
 アデレードは、一度大きく息を吸い込み、決心したように言った。
「もう一度問うわ。この国で最も美しいのは誰かしら?」
『それは王女、王女シュネイゼ・ブランシュ殿下は、処女雪のごとく、黒檀のごとく、血のごとくに美しい』
「では、その純白の雪を踏みにじり、汚すのは誰?」
『……』
 鏡は答えなかった。アデレードはわずかに眉を寄せた。
 鏡は沈黙した。アデレードは踵を返す。かつ、かつ、かつ、と音を響かせながら歩いていき、幾重にも張り巡らされた天鵞布の緞帳を分けて進む。するとやがて、かすかに室内楽の音が聞こえてくる。奏でられるのは優美ながら荘厳な楽の音。夕食の時間が近づき、宮廷楽団が、夕餉の間で音楽を奏でているのだ。
 鏡の間を出ると、音楽は、大きくなった。侍女が鏡の間の外に控えていた。アデレードは言いつける。
「着替えを持ちなさい。夕餉の時間だわ」
「畏まりました」
 濃緑色のドレスに白のオーバードレスをまとった侍女は、忠実にアデレードの後ろにつき従う。アデレードは衣装の間に向かった。
 



 このブランシュタイン王国は、600年の歴史において、常に、女神の招命を受けたブランシュタイン王族によって統治されている。
 王妃アデレードもまた、ブランシュタイン王家の傍系である、シュバインノルン公爵家の出身だ。薄いとはいえその身には王家の血を引く。ブランシュタイン王家はその女神に祝福された聖なる青い血を汚さぬよう、常に近親婚を繰り返す。けれど、それでも人の血というのはしだいに分散し、薄まっていくものだ。水に落とされた一滴の葡萄酒のごとくに。そして、アデレードは薄められた葡萄酒だった。その身に流れるブランシュタインの血の濃さは王であり夫であるローラントにははるか及ばず、娘であり王女であるシュネイゼ・ブランシュにおいてはそれ以前の問題だった。
 そして、王女シュネイゼ・ブランシュは、王族たちとの夕餉の席に同席することは決して無かった。
 腹に木の実を詰めて焼き、ソースをかけた子羊、泡立てたクリームでまろやかな舌触りとなったポタージュ、白い小麦粉で焼いたパン、香辛料をたっぷりと用いたレバーのパテ。けして食べきれないほどの料理たちが並ぶ食卓には、何人もの王族たちが座していた。すでに壮年近い先王の弟や、王の従姉妹にあたる侯爵夫人たち。そして、アデレードと、王であるローラント。毎日のこの夕餉の時は、社交の時でもある。
 室内楽が心を浮き立たせるような楽の音を奏でる中、王族たちはそれぞれに言葉を交わしつつ、ときに葡萄酒を飲み、時ににこやかに言葉を交し合う。さらには食後にはサロンでの歓談の時が待っているのだろうと思いながら、アデレードは、傍らの席に座った夫を見た。
 ローラント・ヴィルムート・ヴァン・ブランシュタイン。現ブランシュタイン王。
 王は、美しい男だった。
 金糸銀糸で縫い取りを施した長衣をまとい、長く伸ばした髪を背中にゆったりと流し、額には略式の黄金の冠があった。王の髪の色は古い黄金。瞳は葡萄酒を満たしたアメジストの杯。顔立ちはあくまで繊細で、すでに30の歳を過ぎ、娘すら設けた男とは思えぬような、美女さながらの美貌を誇る。名工の手による彫刻のような面差しには欠けるものなど一つも無く、逆に、その異様なまでの完璧さが、どことはなしに危うさのようなものすら漂わせるほどだった。
「陛下。わたくしは明日より、レヴァイテンの森へと赴きとうございます」
 丁寧に切り分けられたパテを給仕される王にそう話しかけると、ローラントは振りかえった。どことなく夢でも見ているような風情の、赤みの強い紫の瞳。
「ほう、レヴァイテンかい。どのような用なのだ?」
「レヴァイテンには春の離宮がございますわ。それに、レヴァイテンに程近い鉱山で、新しく大きな孔雀石が見つかったとのこと。もしもよい石でしたら持ち帰り、サロンに飾る柱にしとうございますの」
「それはいい話だね」
 おっとりと微笑むローラントの目は、やはり、何処とはなしに茫洋としているかのようだった。この夫はアデレードの話すことに反対することはまったく無い。それは裏を返せば、ローラントはアデレードに対してまったく無関心である、ということだ。
 それどころか、ローラントは、政にも、社交にも、ほとんど興味を持とうとはしない。周りのものがいくら薦めようと寵姫一人持つことがないということもそれをあらわしている。この美貌の王に懸想する貴婦人は多いという話はアデレードも知っているが、いくら想おうと無駄なことだ。古い書籍を研究することを好むローラントは『学者王』などという名で呼ばれることもあるが、本来ローラントは『たったひとつのこと』のみにしか、本当は興味を持たないのだから。
 かつてのローラントはこのような少年だっただろうか。銀のナイフで、川魚のキッシュを切り分けながら、アデレードはぼんやりと思う。
 二歳年下の夫。かつての親友の弟。あのころ、アデレードとゾフィー、ローラントが三人で暮らしていた子供の時代、ローラントはもう少し活発な少年だったと思う。姉であるゾフィーにまとわり付くようにして、何くれと甘えていた姿が今でも記憶に残っていた。ローラントの割ってくれた石榴のルビーの粒。ローラントの摘んだ百合の、こぼれる花粉のあざやかな黄色。
 ローラントがこのような姿に変貌してしまった理由は、分かりきっていた。

 ―――それは、姉王女であったゾフィーの死だ。

 ゾフィー、とアデレードは心の中でひっそりと呼びかける。いつものように。親友の死を防げなかった自らへの責めとして、常に彼女を忘れず、彼女に語りかけると、アデレード自身が自らに定めたように。
 ゾフィー、ローラントは今日もまるで糸が絡んだ操り人形のよう。
 ゾフィー…… あなただったら、いったい、何を望んでいるの?



 夕餉が済み、気分が優れないといってサロンでの会話を辞して、アデレードは一人部屋へと戻った。
 アデレードの寝室からは、城の裏の森が見える。
 城の裏に広がり、背後を山々に囲まれたちいさな森には、離宮にして後宮である小さな塔がある。かつてはゾフィーがそこに暮らし、今はシュネイゼがそこに住んでいる塔だ。寝間着への着替えを手伝わせると侍女を全て下がらせ、アデレードは一人バルコニーに出る。
 貝殻文様の施された御影石のバルコニー。足元は薔薇色と白の大理石がタイルのようにモザイク模様を描いている。夜になると、まだこの季節、寝間着では少々外は寒い。それでもアデレードは寝間着一枚の姿で、バルコニーに立ち、かすかに白く浮かび上がった、後宮の塔を眺めやった。
 今の季節――― あの森には、花が咲き乱れているはずだ。
 野菊、ルリハコベ、紫蘭、すみれ、野薔薇。さまざまな花々が咲き乱れ、森は、さながら楽園であるかのように美しい。目を閉じればアデレードは、その様をまるで今日眺めたもののように明々と思い出すことが出来る。
 あの森に、今は、ローラントの娘であるシュネイゼが暮らしている。
 まるでゾフィーの生まれ変わりのようなあの娘が。
 小さな塔には明かりが点っていた。そこにはシュネイゼがいるはずだった。まだ起きているのか。それとももう眠る時間か。
「……」
 アデレードはわずかに唇を噛むと――― 踵を返し、明日からの旅行に備えるべく、部屋へと戻った。





 
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