5.
その、数日後。
「今晩はローラント陛下がお渡りになられます」
昼食が終わったとき、テーアが言った。その言葉の意味を理解するのにユーリアにはしばしの時間が必要だった。
「準備をしなければなりません。手伝いなさい」
「……はい……」
思い出した。地下室に満ちた冷たい水の匂い。冷え切った石の床。錆びた鉄の枷。たっぷりと油をしみこませ、しなやかにされた革の鞭。
それから、二人は、シュネイゼを飾り立てた。
普段は編まれている髪は、ほどけば腰までの長さがあり、さながら夜を紡いで作り上げた絹の糸だ。しなやかなその髪を丁寧に梳き、半分だけを結い上げて、もう半分はそのままに背中に垂らす。髪には白いリボンが編み込まれ、銀と宝石で作られた宝冠がかぶせられた。
スカートはやや古風な流行にしたがって、たっぷりとした生地に細かなプリーツをたたんで。銀糸をで刺繍を施されたガウン。しなやかな薄い絹の袖は長く、地面に引きずるほどのボリュームがある。最後に頭からふわりとかぶせられたヴェールには、精緻な刺繍が縫い込まれ、咲き誇る白百合のモチーフが、偏執的な細かさで編み込まれていた。その全てが白い。純白の古風なドレスを身にまとった『白雪姫』は、その名にまったく恥じぬほどに、高貴ではかなく、また、美しい。
ふっくらとした乳房にも、折れそうに細くくびれた腰にも、しなやかな手足にも、あらかじめ異国の高価な香油がすりこまれていた。髪もまた香草の香りを移した水で洗って香りを移される。ほのかに甘く、官能を誘うようなその香りは、シュネイゼにまとわされたもう一枚の見えないヴェールだ。乳のごとく、淡雪のごとく白い肌を、その着衣をすべて剥ぎ取られた後もなお包み続ける、目には見えない高貴なヴェール。
二人が無言で作業を続ける間、シュネイゼは、小刻みに震え続けていた。
抵抗をしようとしない。それが奇異なことに初め思えた。けれど、ユーリアは間もなく真実に気づいた。シュネイゼは抵抗しないのではない。『できない』のだ。
「……こわいよ…… こわい、こわい、こわい、こわい、……」
ぶつぶつと間断なくつぶやき続け、体を左右にゆすり続ける。爪を磨き上げることは出来なかった。噛み千切られてギザギザになり、血がにじんでいるから。真白い指先に滲む血はシュネイゼにしみこまされた恐怖の証だった。
なぜ、逃げないのだろう。ユーリアは髪を解きながら思う。そのとき、シュネイゼの眼がユーリアを見上げた。うつろな眼だった。希望を失い、屠殺へと引かれていく家畜のような哀れな眼。
……逃げないじゃないの。逃げられないの。
その瞳が訴えていた。ユーリアは気づいた。シュネイゼはユーリアの疑問に気づいている。髪を解く手から、その問いを読み取っている。
―――彼女は、忠実な家畜のように、『躾けられて』いる。
ユーリアは、砂糖細工の人形を飾るように、シュネイゼを丁寧に飾り立てて行きながら、一つのことを思い出していた。かつて聞いたことのある実験の話、家畜にまつわる話だ。
片方の道を行けば餌が得られ、片方の道を行けば鞭打たれる道。そこを繰り返し歩かされれば、いつしか家畜は迷うことなく餌の道を選ぶようになる。けれど、どちらの道を選んでも鞭打ち続けていた場合にはどうなるだろう?
逃げなくなるのだ。
家畜は、どちらの道を選ぶこともなく、その場にうずくまり、甘んじて鞭を受けるようになる。たとえ扉が開けられていたとしても、そこから逃げ出すことは出来なくなる。
絶望というのは、学習されるものなのだ。
今のシュネイゼが、そうであるように。
うつろな瞳が蝶の羽の粉のようにきらきらしい美粧に彩られ、野いちごのように美しい唇に紅がさされる。そしてシュネイゼはこの上もなく美しい一人の姫君へと変身を遂げる。哀れだが幸福な白痴の娘はそこにはいない。そこに存在しているのは、絶望にすべての意思を奪われた、可憐極まりない一体の人形だった。
長いスカートが足に絡まぬよう、二人はシュネイゼを両脇から抱えて階段を下らせる。すると、普段ならばシュネイゼと侍女二人のほかには足を踏み入れるはずの無い部屋に、見覚えの無い侍女たちと、それに、兵士たちの姿があった。美々しく身を飾った兵士たちに、いずれ劣らぬ美貌の娘たち。彼女たちに囲まれて、一人の男が椅子で葡萄酒を嗜んでいる。硝子の杯に満たされた深紅の液体を通して、紫の瞳がこちらを見た。
「ああ、姫―――」
男は立ち上がる。豪奢な刺繍を施したガウン。黄金細工のベルト。髪を飾るのは略式の黄金冠。ユーリアは一目で悟る。この男こそがブランシュタイン王ローラントなのだと。
ローラントは、美しい男だった。
線の細い横顔が憂いを帯び、さながら病床の美女のよう。肌はあくまで白く、瞳は葡萄酒を満たした紫水晶の杯。髪は古い黄金。高い頬骨にも、細い鼻筋にも、王という名には似つかわしくないほどの繊細な美が宿っている。さながら名工の手になる美女の彫像のような美貌。その繊細な面影に、ユーリアはたしかに、シュネイゼの面差しに繋がるものを見た。
だが、そのローラントの眼は、暗い。―――まるで、淀んだ井戸を覗き込むような暗さ。濁って冷たい狂気をたたえた眼。
その眼に喜びを宿し、ローラントは大きく腕を広げた。シュネイゼは下唇を噛み、必死で耐えようとするような表情でローラントに近づく。ローラントは娘を抱擁する。いとおしげに黒檀の髪に、淡雪の肌に、血の唇に触れる。
「久しいね、姫。私と会えない間、寂しい思いはしていなかったかい?」
「……」
シュネイゼは唇を開きかけ、また、閉じた。その哀しい眼が瞬間背後を顧みる。ユーリアを見た。
ローラントもまた眼を上げる。ユーリアを見る。かすかに眼を細めた。
「あたらしい侍女かい、姫?」
「……はい」
「なんと醜い娘だ。汚らわしい」
頬やまぶたを赤痣に覆われたユーリアの顔。ユーリアは無表情を崩さず、静かに、優雅に頭を垂れる。
「あのようなものを雇うとは、何を考えているのやら。……そちらの侍女よ。どうだ?」
「恐れながら、ユーリアはレヴァーテイン侯爵家の係累の娘でございます」
テーアは慇懃に、けれど、感情のこもらない声で答える。けしてユーリアを弁護はしない。ただ、事実だけを述べる口調で、淡々と。
「育ち良く礼儀をわきまえ、また、陰日向なく良く働いてくれる娘です。恐れながら、偉大な陛下に置かれましては、そのような瑣末なことをお気に召されずとも、私どもで十分に姫君をお守りすることができるかと存じます」
「そうか」
ローラントは関心がなさそうに答えた。
「まあ、姫が気に入っているのなら構わないよ。私は姫の幸せだけを願っているのだからね。……ああ、姫。姫の髪はなんとかぐわしいのだろう。春の香りがする」
手にすくいあげた髪の一房にいとおしげに口付けると、ローラントはシュネイゼの手を取った。そしてテーブルの向こうに座らせる。目の前に置かれた杯に葡萄酒を注がせた。
「さあ、飲みなさい。カルシュテインから届けられた極上の葡萄酒だよ。姫のために選んできたものだ。気に入ってくれるといいのだが」
「はい……」
本来、渋味の強い赤葡萄酒は、シュネイゼの好むところではない。けれどもシュネイゼは赤葡萄酒を飲んだ。硝子と歯とがぶつかり合う、カチカチというかすかな音が聞こえるような気がした。
奇妙な晩餐。ローラントはひどく上機嫌に何くれとシュネイゼに話しかけるが、シュネイゼはそれに「はい」としか答えない。答えようが無いのだ。知恵の足りないシュネイゼには、ローラントの話がどれほど理解されているかが疑わしい。けれどもシュネイゼはいつものように体を左右にゆすることもなく、ただ眼だけをおどおどとさまよわせながら、忠実にローラントの言葉に相槌を打っていた。
「ああ、そうだ、姫。君のために持ってきたものがあるんだ」
やがて、思いついたようにローラントが言う。一人の侍女がその言葉に答えて前に進み出た。手にしているのは天鵞布の布に載せられた首飾りだ。ほのかな薔薇色と、沸きあがるような虹を秘めた大粒の真珠。雫型をした大粒の一粒を中心に飾り、周囲を取り巻くやや小粒の真珠が、蝋燭の淡い明かりを受けて、海の泡のさながらにほのかに光った。
「リヒテルビンより持たせた真珠の首飾りだ。姫の首を飾るにふさわしいだろうと思ってね」
ローラントは立ち上がる。王は手ずからシュネイゼの首に付けられていた首飾りを外し、持ってきた真珠の首飾りを巻きつけた。襟を飾るガウンの縁飾りの豪奢な刺繍に、真珠はやわらかな光を添える。
シュネイゼはそのとき、初めて、わずかな精気を眼に宿した。不思議そうに真珠を見る。これほど大粒の真珠を見たことは初めてなのだろうか。そっと手で触れようとする。
「姫は真珠が好きかい?」
「……はい……」
「ああ、そうだ。姫は海を知らなかったね。いつか姫に海をみせてやりたいものだ。だが、ブランシュタインから海は遠い……」
ブランシュタインは山岳に囲まれた国だ。海は少なく、山を越えたわずかな国土しか海岸には接しない。平地を旅して海に行こうと思うのなら、隣国のリヒテルビンを通過せざるを得ない。シュネイゼを人目から隠さねばならぬ以上、海への旅は難しいだろう。わずかにローラントの眼に考え込むような色が浮かんだようだった。
けれど。
次の瞬間には。
「……姫?」
ふいに、ローラントの手が、シュネイゼの細い手首を、掴んだ。ひっ、とシュネイゼが息を呑んだ。
「この爪はどうしたのだね?」
ぎざぎざに噛み千切られ、血を滲ませた爪。シュネイゼの噛んだ爪だ。
貴婦人ならば美しく磨き上げられ、時に色鮮やかに染められ、たおやかであるべきその爪。だが、シュネイゼの場合は話が違う。彼女は少しでも苛立つようなことがあれば激しく体をゆすり、爪を噛む。爪はぼろぼろに噛み千切られ、半ば血すら滲んでいた。ローラントを待つ間に噛み続けていたせいだった。
ぎり、とローラントの手に力がこもる。男と思えぬたおやかな手に筋が浮いた。シュネイゼが怯えた様子で体をゆすりはじめる。ローラントが怒鳴った。
「やめろ!!」
瞬間、シュネイゼは、打たれたようにすくみあがる。体をゆする動きを止める。
「こんな爪はふさわしくない…… ああ、ふさわしくない。姫には、姫には、……姉上には、ふさわしくない」
ユーリアはひそかに息を飲んだ。ローラントの眼に、さながら鬼火のような異様な光が宿っていた。ぎらぎらと光る目でシュネイゼを見下ろす。シュネイゼはとたんに体を硬くする。眼がみるまに潤んだ。涙があふれそうになるが。
「泣くな!!」
怒鳴りつけられて、ふたたび、体を硬くする。
ユーリアは気づいた。兵士たち、侍女たち、ローラントの伴ってきたものたちが、いつの間にか姿を消している。部屋にはローラントとシュネイゼ、それにテーアとユーリアの四人しかいない。なぜ彼らが姿を消したのかを容易にユーリアは理解した。そして思い知った。
―――これこそが、ブランシュタイン王家の『秘密』なのだ。
ローラントは乱暴にシュネイゼの手を引いた。シュネイゼは椅子から転がり落ちる。悲鳴が上がった。それが口切だった。シュネイゼは壊れた楽器のように、すさまじい声量で悲鳴を撒き散らす。
「いやあ! いやあ! いやあぁぁぁ―――ッ!!」
だが、ローラントは構わない。そのまま乱暴にシュネイゼを引きずっていく。わずかに抵抗するような様子を見せるシュネイゼだったが、それが儚いものであることは明らかだった。悲鳴を上げながらもその眼は淀んでいた。すでにこれから起こることを受け入れてしまっている眼だった。
「姉上、私と遊びましょう」
ローラントは、低い声でつぶやいた。
「二人きりの遊びです。きっと楽しい。……そう、とても楽しい」
じゃらり、と音がする。ローラントのガウンから鍵が取り出されたのだ。ユーリアはひゅっと息を呑む。それは地下へと続く扉の鍵だった。
「たすけて、たすけて、たすけて、たすけて…… 地下室、きらい、きらい、きらい、ちかしつ…… いやぁ、いやあ、いやぁ―――!!!」
狂王。
そんな言葉が、ふいに、ユーリアの頭に浮かぶ。
呆然と立ち尽くすユーリアの手を、ふいに、テーアが引いた。その眼が命じていた。立ち去ろうと。ここから先は見ることが許されない領域なのだと。
ユーリアは思い出す。地下室を。手枷、足枷の繋がれたベット。何種類もの鞭。無数の拷問器具。
そして、シュネイゼの白い背中に縦横に残された、痣。
髪をつかまれ、体を引きずられ、地下室のほうへと連れて行かれながら、最期にシュネイゼの眼がユーリアを見た。
涙を浮かばせた眼。
うつろな眼。
そこには、自らの受ける苦痛と残虐を自明の理として受け入れてしまった、哀しい絶望の色が浮かんでいた。
テーアはさらに強くユーリアの手を引いた。ユーリアはためらいながらも従わざるを得ない。地面に沈み込むように重い足を引きずって歩き出す。ふと見ると、石床に、シュネイゼが口にしていたままの葡萄酒の杯が、粉々の欠片となって砕け散っていた。深紅の葡萄酒が作る血のような染みが、大理石のモザイクの床に、広がっていた。
ユーリアは思わず足を止めそうになる。だが、テーアが手を引く。やむなくユーリアは歩いていく。だが、最期までシュネイゼから眼を離そうとしなかった。その悲鳴と眼で助けを訴え続けるシュネイゼから、眼をそらそうとはしなかった。
「泣かないで下さい、姉上。すぐに楽しくなる。そう、楽しくなります。楽しくなります。とても楽しく……」
二人は階段を上っていく。そして重い樫の扉が閉められ―――
全ては、遮断された。
侍女たちのための部屋に戻った時、二人の間には重苦しい沈黙が落ちていた。
テーアは静かに椅子に腰掛け、まっすぐに背中を伸ばした。ユーリアは立ち尽くしていた。燭が一つ、たよりなく燃えているだけの部屋。
沈黙を破ったのは、ユーリアの、力ないつぶやきだった。
「……何故、あのようなことに?」
「ローラント陛下は、姉上のゾフィー殿下を、この上なく愛していらっしゃいました」
テーアは答えた。石のように無感情な声で。
「ゾフィー殿下はすでに亡い方です。けれども、ローラント陛下は、ゾフィー殿下がいらっしゃらなければ、この世に生きられぬお方なのです」
「ですが、シュネイゼ様は、ゾフィー殿下ではございません」
硬い声で言うユーリアに、テーアは眼を上げた。―――諦めの色。
「お前はゾフィー殿下のお顔を存じておりますか?」
「いえ……」
「白雪のような方、と謳われた姫君でございました。黒い髪に白い肌、赤いくちびる…… ブランシュタインにゾフィー姫の他に美姫無しと言われたほどのお方です」
黒い髪。白い肌。赤いくちびる。
「この上もなく…… シュネイゼ様と似ていらっしゃいます」
「何故です?」
ユーリアは問いかけた。なぜなら、ローラントも、アデレードも、二人とも、シュネイゼにはほとんど似ていない。
並べてみたならば、ローラントの繊細な美貌は、シュネイゼのそれに似通っているということが分かった。二人はたしかに似ている。まるで兄妹のように。けれども、琥珀の髪に翠玉の瞳を持つアデレードの威厳に満ちた美貌と、シュネイゼの可憐さの中には、ほとんど共通点を見つけることが出来ない。
なぜ、ローラントはシュネイゼの中にゾフィーを見るのか。
テーアは黙ってユーリアを見た。それだけだった。
テーアは、何も答えはしなかった。
それほどまでに、二人の姫君が似通っているのか。
ふいに、ユーリアの脳裏におぞましい想像が浮かび上がる。
ローラントとゾフィー。この世にただ二人の姉弟。その二人の関係。
否定のしきれないおぞましい想像。だが、ありえぬはずだ。シュネイゼはアデレードの実の娘。そういうことになっている。だが、この国の青い神聖な血のよどみには、いまや、どのような醜悪な事実が淀んでいてもおかしくないということを、ユーリアは悟りつつあった。
シュネイゼの母親は、いったい、誰なのだろう?
……思いながらも、ユーリアの美しい青緑色の瞳は、感情を見せず、まるで硝子玉のように静まっている。
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