6.



 おかあさま、は おはな がすき。
 シュネイゼ が おはなを とると わらって くれます
 おかあさま は いい、におい。
 シュネイゼ に わらって くれます。

 でも 今日、は、おかあさまがきて くれない の
 なんでか、なあ?

 おとうさま が ちかしつ の
 べっとで
 おしおき したから、かなあ?

 だって、おとうさま は いいました
 シュネイゼ は、わるいこ だって

 シュネイゼ が いなかったら あねうえ が いなくな、らなかった って
 あねうえ ってだあれ?

 シュネイゼ は ななつ に なりました。





 シュネイゼが眼を開くと、頭上には、やわらかい布のかけられた天蓋がある。
 天蓋付きのベット。そのやわらかい布。けれど、体のあちこちがじんじんと痛み、とりわけ、足の間の痛みが酷い。股間には何か布が当ててあるような気がした。血が止まっていないのか。
「ふぇ……」
 何をされたのかが不意に記憶に蘇り、シュネイゼは、泣き出しそうになる。けれど、その額に、誰かの手がひたりと触れた。
 ひんやりと冷たい、心地いい手。
 シュネイゼはそちらをみる。―――ユーリアがいた。
「大丈夫ですか、シュネイゼ様?」
「……ゆーりあ?」
 声はかすれて、喉が痛い。悲鳴をあげ続けていたせいだろう。ユーリアは心得顔で頷くと、傍らの水差しを取って、吸飲みの先端を唇にあてがってくれた。
「ゆっくりとお飲みくださいませ。喉にいい薬草茶を作らせました」
 飲み物は甘く、やわらかく、喉にやさしかった。シュネイゼは赤子が乳を吸うように無心で飲んだ。やがて、吸飲みが空になると、ユーリアは傍らのテーブルに吸飲みを置いて、シュネイゼの額にまた手を当ててくれた。
「お辛いことを、よく我慢なさいました」
「……」
「もう国王陛下はお帰りになられましたわ。大丈夫です」
「あぅ……」
 ユーリアの手は優しい。シュネイゼは声を詰まらせる。口が開くと掠れた息だけが漏れた。涙がぼろぼろと頬を流れた。
 血、鉄、鞭、ありとあらゆる種類の暴力と陵辱。けれど、我慢をしていれば終わる。そのとおり、今日もちゃんと『おしおき』は終わった。しかも、ユーリアが傍で見ていてくれた。助けてくれた。まるで『おかあさま』みたいに。
 手を伸ばすと、そっと、けれど力強く握り締められる。大丈夫だ、とその手から心が伝わってくる。シュネイゼは掠れた声を上げ、ただ、泣きじゃくる。
 怖かった。怖かった。怖かった。
 けれど終わった。もうまたしばらく父親は来ないだろう。父親は傷の残った体を嫌うから、今度、この傷が治るまでシュネイゼに会いにはこない。恐ろしい暴力と陵辱は、収まるわけではないけれど、また、遠くへと退いていった。
 ―――初めて、シュネイゼが『地下室のベット』へと連れて行かれたのは、7歳の時だった。
 それまでは幸せだった。アデレードが傍に居てくれたし、無関心な父親は存在しないも同然の存在だった。毎日遊んでくらしていればよかった。温かくて幸せなこの日々が、ずっと続くのだと思っていた。
 今は、母の手は無い。暴力を振るう、父の手だけがある。
「なぜ、国王陛下は、このような無体なことをなさるのでしょう……」
 ユーリアは、シュネイゼの手を握り締めたまま、ぽつん、と呟いた。
「シュネイゼ様は、国王陛下の、ただ一人の愛娘でございましょうに」
「……ちがう、もん」
 シュネイゼは息も絶え絶えに呟く。ユーリアが目を瞬く。シュネイゼは泣きながら、掠れた声で、叫んだ。
「シュネイゼじゃない! シュネイゼ、『あねうえ』じゃないもん! シュネイゼ、おとうさまのあねうえじゃないもん!」
 シュネイゼの手は人の心を読む力を持つ、魔法使いの手だ。だからこそ父親がなおさら恐ろしかった。なぜなら、父の中は、狂気、しか存在しないということがわかっていたからだ。
 そこに存在するのは、ただ、実姉への狂愛だけだ。
 きゅ、とユーリアの手に力がこもった。
「姉上とは、ゾフィー殿下のことでございましょうか」
「……っく、あぅ……」
「なぜ、国王陛下が、姉姫様にそこまで執着なされるのです」
「……わかんないよぉ」
 ただ、シュネイゼに判るのは、自分は自分として見られたことは一度とてなく、常に、父の姉であったゾフィーの身代わりとしてしか見られていない、ということだった。
 シュネイゼのなかに、かすかな記憶がある。今の自分と良く似た顔の女の記憶が。
 長い黒髪をフードに隠し、黒い眼を伏せ、雪の野を馬車で行く。自分はその女の膝に抱かれている。その指が伝える。まだ当時のシュネイゼにはわからなかった思い。

『あなたは生まれてはならなかった子。それでも私は愛している』

「ユーリア……」
 シュネイゼの、淡紫色の瞳から、涙がこぼれおちる。
「シュネイゼ、生まれてきちゃいけない子だったの? だから、おとうさま、シュネイゼをいじめるの? おかあさま、あいにきてくれないの?」
 ユーリアの、青緑色の瞳が、わずかに揺らいだ。
 ユーリアは長いまつげを伏せる。そして手を伸ばしシュネイゼの体を抱いた。シュネイゼは『そのこと』に気づく。驚きに眼を見開く。
「ユーリア?」
「シュネイゼ様、人が生まれてきて許されるのか、許されぬのかは、己で決めることです」
 ユーリアの目は伏せられ、触れる手からも深い水の感触しか伝わってこない。けれど、ユーリアの中の『水』が揺らいでいることにシュネイゼは気づく。心の中に存在する暗く深い水が、かすかなさざなみを立てている。
「己が己の生を許さなければ、誰も人は生きられぬのです。ですから、お許しなさいませ、シュネイゼ様。貴女様の生を、貴女様でお許しなさいませ」
「……」
 ユーリアの言うことは難しく、その半分もシュネイゼには理解が出来なかった。けれど、抱きしめてくれるユーリアの腕の力強さが何かを教えた。痣だらけの醜い顔のユーリアの目は、けれど、まるで宝石のような美しさを持っている、とふいにシュネイゼは気づく。
「おのれ、じしんで、ゆるす……?」
 鸚鵡返しに繰り返すシュネイゼに、ユーリアは少し微笑んだ。そしてシュネイゼの頬をそっと両手で挟むと、

 口付けを、した。

 唇を唇が触れ合っていたのは、ほんの一瞬のことだった。
 やわらかい唇の感触。シュネイゼはぼうっと眼を見開き、ユーリアを見る。
「シュネイゼ様、きっと、全てが正される日が来ます。それまでどうぞお待ちを」
「……」
 シュネイゼは涙で紅くなった眼でユーリアを見上げた。ユーリアは微笑んでいた。
 ―――痣だらけのユーリアのその微笑みは、けれど、さながら天使のように、美しい。




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