7.



 ―――そして数ヶ月。



 霧の中を、すさまじい音を立てながら、馬車が、走る。
 轍が砕けた石を跳ね上げ、馬は泡を咬み、御者が必死で手綱を引く。すさまじくゆれる馬車の中で、一人の貴婦人が必死で席にしがみついていた。
「もっと急ぎなさい! もっと!!」
「ですが、これ以上は……!!」
 貴婦人は唇を咬み、背後を振り返った。追っ手は、五騎。軽い二輪の馬車とはいえ、この悪い道では追い込まれていくばかり。追いつかれるのも時間の問題だ。
 このような場所で追い込まれるとは、油断をしていたとしか思えない。相手は一体誰だ。どちらにしろ己に敵対する勢力のものだろうと思う。どれも山賊らしい拵えをした男たちだが、馬が違う。あのような血統、体つきの馬などを山賊が所持しているはずが無い。ここで自分を襲い何を奪うのか。命は奪われぬだろうとは思うが…… 貴婦人は、アデレードは、手にした筒を硬く握り締めた。これを奪われるということは命を奪われるのと同じことだ。
 だが、道は次第に深く隘路へと入り込んでいく。このままではどの道逃げ切れない。そう思った瞬間、馬車がひときわ激しく揺れた。馬が嘶いた。
「う、うわぁっ!!」
 すさまじい音と共に、馬車が横転し、アデレードは激しく体を馬車の戸に打ち付ける。横に倒れた馬が悲鳴を上げた。見る間に背後の五騎が近づき、馬車の周囲をぐるぐると巡った。様子を伺うように。
 アデレードは壊れた馬車の中で呻いた。御者の名を呼ぶ。だが、返事は無い。見ると、近くの岩の上に御者が叩きつけられていた。地面に真っ黒いしみがじわじわと広がっていく。背筋が冷たくなった。
 私は死ぬの? こんな場所で? ―――何一つ、望みを果たせぬままで?
 アデレードは硬く硬く唇を噛んだ。このような場所で死ねるものか。私には使命がある。決して、このような場所で死ぬものか!
 アデレードは馬車の戸にはさまれたドレスのすそを裂きながら、馬車の下から這い出そうとする。五騎は馬、自分は徒歩、逃げられるはずが無い。けれども、生きなければならない。なんとかして、生き延びなければ。
 だが、馬車から這い出そうと必死でもがくアデレードへと、弓が向けられた。五騎のうち一騎が、石弓を構え、アデレードを狙う。アデレードは思わず目をぎゅっと閉じる。灼熱の痛みと死の暗黒を予感して。
 だが。
「ぎゃあっ!!」
 悲鳴と共に、弓の男が、のけぞった。
 アデレードは翠玉の目を大きく見開く。その喉には、短い矢が一本突き立っていた。この濃い霧の中で遠くから一撃で喉をしとめるだと? 誰だ!?
 残る四騎もまた、同じ疑問と衝撃を抱いたらしかった。騎手を失った馬が高く嘶き、何処とも知れぬ霧の中へと駆け去っていく。さらに矢は霧の向こうから打ち込まれた。何本かが騎馬に突き刺さり、腿を射抜かれた馬が高く前脚をけ上げ、嘶いた。それをなだめようと手綱を引いた騎手がバランスを崩して落馬する。その瞬間だった。
 黒い影が、奔った。
「な……ッ!?」
 銀光が、ひらめいた。
 それは、黒い服、黒いマントを纏った男だった。その手には銀の剣が握られ、自ら光を放つかのように霧の中輝く。一刀の元に落馬した男を袈裟懸けに切り伏せ、返す刀がさらに別の騎馬の足を、一撃で両断した。
 馬の足を一撃で切り裂くだと? アデレードは驚愕する。馬が騒ぎ、一頭が狂乱すると、他の騎馬たちも吊られたように高くいななき、暴れだす。襲撃者たちは、予期せぬ闖入者の排除と、アデレードの抹殺のどちらを優先すべきかで迷っていた。その迷いが致命的な『隙』となった。
 男が舞う。漆黒の鴉の翼のように、マントが翻る。壊れた馬車を足台に、跳ぶ。その剣が振るわれ、さらに一騎の男の首が、血しぶきと共に落ちた。首をなくした騎手を乗せたまま、馬が悲鳴のように嘶き、走り去っていく。
 一撃。それぞれたったの一撃で、二騎が葬り去られた。黒衣の男を強敵と見たらしい。残った男たちが馬を飛び降り、それぞれ剣を抜き放った。山賊風を拵えた男たち。だが、その構えは正式なブランシュタイン・スタイルのそれで、彼らが正規兵、さもなければそれに近い立場の教育を受けた人間だということを知らせていた。
 男たちが剣を振るった。黒衣の男がふわりと跳び下がった。勢いあまった剣が馬車の轍へと食い込む。隙。それを見て取った黒衣が凪いだ。わき腹を切り裂いた斬撃に、飛び散った血が、馬車の中のアデレードにまで飛沫した。
 二人の男が切りかかる。黒衣の男が片手でマントを大きく翻す。一人の男は幻惑された。その剣はマントの布を切り裂いただけだった。一人の男の剣は、銀剣に受けられた。
 金属の悲鳴が上がった。
 ギィン、という甲高い音と共に、折れた剣が回転しながら飛んで行く。それに呆然とした。一撃で鋼の剣を折るような剣だと? そう油断したのが一瞬の隙。その男は、一刀の元に切り伏せられた。
 残るは、二人。
 無傷の男とわき腹に傷を負った男。無傷の男はじりじりと円を描くように黒衣の男の周りを巡る。隙をうかがうように。その瞬間、涼しげな声が、霧に響いた。
「逃げないか」
 アデレードは、はっとした。
「……君たちは、王党派の手のものか?」
 答えるはずが無い。それを隙と見て取って、無傷の男が、絶叫と共に打ちかかった。
 ギイン、ギイン、という鋭い音と共に、鋼の剣と銀の剣が、一撃、二撃、と打ち合った。
 だが、黒衣の男の剣は鋼の剣すらもへし折る。その腕にある力はさらに大きい。鴉のごとき黒衣で体格は分からない。けれども、決して巨漢ではない。では、その痩身に秘められた力は何だ? 渾身の力を込めて打ち込んだ男の剣が、黒衣の男の剣によって、そのまま受け流される。男はバランスを崩す。黒衣の男は銀の剣を薙いだ。男の背に、深々と、銀の剣が突き刺さった。
「うあああああ!!!」
 その瞬間、わき腹に傷を負った男が、剣をまだ抜けない黒衣の男へと、突っ込んでいく。一撃に渾身の力を込め、腰溜めに剣を構えて。
 だが、男は剣に執着をしない。徒手空拳のままに傷ついた男へと向き合う。その剣をすっと一歩ステップを踏んで避けると、伸ばした手が、男の剣を持つ手を掴んだ。
「ぐぅっ!?」
 傷を負った男の体が、宙を、舞った。
 男の駆け込む勢いをそのまま利用した黒衣の男は、そのままに男の体を宙へと舞い上げたのだ。投げ飛ばされた男はふっとび、頭から近くの岩へと叩きつけられる。衝撃に動けない。その男を見ながら、すでに絶命したもう一人の男の体から、黒衣の男は、ゆっくりと剣を抜いた。
 男が短くつぶやいた。
「……すまない」
 そして男は、岩に叩きつけられた体、その心臓へと、精密に狙いを付けて、銀の剣を、突き刺した。
 飛び散った血は、その広げたマントにさえぎられた。男の白い顔には血の雫一滴付いてはいなかった。アデレードは瞠目した。この男は、一撃を受けることすらなく、五騎の精鋭を葬り去ったのだ。
 抜いた剣をびゅっ、と振ると、磨きぬかれた銀の刀身には、血脂ひとつの濁り一つ残らない。呆然と見上げるアデレードの方へと、男はゆっくりと歩いてくる。馬車にドレスのすそがはさまれているということに気付くと、男は剣を納め、腰から短剣を抜いた。丁寧にわびながら、ドレスのすそを切り裂き、アデレードを馬車の下から救い出す。よろめきながら立ち上がったアデレードは、呆然と周囲を見回した。
 首を失った男、心臓を貫かれた男、足をなくし苦しみもがき続ける馬。その、惨状というにはあまりに鮮やかな手口。たった一人で、この男は、それをやってのけた。
 男は、立ち尽くすアデレードの前に、跪いた。
「高貴なる妃殿下に置きましては、見苦しきこの非礼をお許しいただきたい」
「そなた…… 何者じゃ?」
 男は少し笑い、深く被っていたフードを跳ね除ける。現れるのは焦茶色の髪だった。襟足のあたりでくくられている。見上げた顔は端整と言っていいほどに整っていたが、その頬には三筋の深く古い傷痕があった。青灰色の目が、アデレードを見上げた。
「……『鏡の中の狩人』?」
「然り」
 顔を見たことは無い。だが、それは、彼女にとっては、またとない味方となるはずの名だった。
 男はしずかに立ち上がる。血にまみれた手袋をゆっくりと外す。現れたのは意外にも細い指をもつ手だった。剣を収め、顔を上げた男は、霧の彼方を見る。
「王党派へと妃殿下の行幸が漏れたとの報を聞き、私はここへとはせ参じた次第」
「何者が……」
 アデレードは顔を抑える。必死で冷静さを取り戻そうとする。血を見たせいか、目の前で行われた鮮やか過ぎる虐殺劇のせいか、頭がひどく混乱していた。
 ふと、アデレードは我に帰り、慌てて手元を確かめる。そこに筒はあった。護るべき文を納めた筒は。
 顔を上げ、男を見る。黒衣の男は静かに傍らに控えている。このような男が、いままで鏡の裏に潜んでいたのか。不思議に思いながらも、アデレードは、命令を出した。
「か…… 『狩人』、私を離城へと送りなさい」
「城塁へと?」
「御者は死んでしまいましたが、私が道をおぼえております。馬を持ちなさい。どの馬でも…… 無事な馬なら」
「かしこまりました。私めの馬を持ちましょう」
 男は静かに頭を下げる。アデレードは周囲を見回す。血みどろの惨状。人里離れた場所だ。屍骸を捨て置いたところで、どうといったことはあるまい。だが、壊れた馬車は問題だ。印章らしきものは無いものを用いているが、念のため手のものに始末をさせておいたほうがいいかもしれない。
 立ち尽くし、血の惨状を見つめたまま、アデレードは、思う。
 内情が漏れていた…… 密通者がいた? 
 ……いや、違うかもしれない。
 単に青薔薇派の何者かが、アデレードの行状を疑い、追っ手を付けていただけなのかもしれない。だが、それにしてはこの中途での襲撃が不可解だ。城へとたどり着いた後に襲えば、他のシュバインノルン派…… 王妃の属する派閥のものたちを一掃にできた。だとしたら、彼らは何故途中でアデレードを襲おうとしたのだろう。
 単に人目のなくなったところでアデレードを襲い、文書を奪おうとしただけか? ―――それならば、説明は付くが……
「妃殿下」
 黒衣の『狩人』の声が、アデレードの定まらぬ思考をさえぎった。
「馬を持ちました。非礼ながら、私と共に馬をお使いください。馬を引いて差し上げては、城に着くまでに時間がかかりすぎる」
「わ…… わかりました」
 鴉のごとき黒衣、死神のごとき鮮やか過ぎる太刀筋に見合わぬ、どことなく涼やかな眼の男だった。それがアデレードへと手を差し出している。
 本当にこの男は『狩人』なのか? ……そんな疑問が、ふいに、頭を掠めるが。
「……頼みます」
 アデレードは、そんな埒も無い思いを振り切ると、『狩人』の手を、取った。




 黒衣の『狩人』の馬に共乗りし、馬を駆けさせて、一刻ほど。
 ―――厳しい山岳の裾野に、ひとつの、古城が現れる。
 もう何百年も前に建造され、かつてはこの森を治めていた領主のための砦だった。だが、今は打ち捨てられ、近隣の領地から老管理人が派遣されているにすぎない。古城趣味の物好きな貴族が、時に狩りの折にでも立ち寄ることはあっても、人がそこに集まることなど無い。……すくなくとも、そういったことになっていた。
 馬を城の前まで走らせた『狩人』は、門の前で手綱を引いた。門の錠前はさび付き、薔薇園は茨の園と化している。だが、人の気配がかすかに確かにそこにあった。アデレードよりもさきに『狩人』が馬から滑り降り、ずたずたに裂けたドレスのアデレードを、うやうやしく馬から降ろした。
 アデレードは、硬く握り締めていた筒から指を解き、その中に入っていたものを取り出す。それは鍵。ブランシュタイン家の紋章である双頭のグリフォンを象嵌した、銀の鍵だった。
 アデレードは『狩人』に鍵を渡す。命じる。「開けさせなさい」と。
 『狩人』は頷くと、鍵を手に、門へと近づいた。
 『狩人』が近づくと――― 門の裏から、誰何の声が響いた。
「何者」
「恐れ多くも、アデレード・マリア・ブランシュタイン・フォン・シュバインノルン殿下の行幸である」
 『狩人』の涼しい声が、凛、と言い放つ。短い時間の間があった。内側から、扉が開いた。
 現れたのは、『狩人』と同じように、黒衣を纏った男たちだった。男たちは剣を抜き、警戒の色も露わに、『狩人』を取り囲む。だが彼が鍵を見せると、彼らの態度が一変した。
 襤褸のようになったドレスを纏ったアデレードの前に、次々と走り出てきた男たちが跪く。ついで、慌てた様子で貴族らしい拵えの男が出てき、これも跪いた。アデレードの姿に瞠目する。アデレードは開口一番、言う。
「刺客に襲われました」
「なんと……」
 男が驚く。アデレードは冷静に続けた。
「けれど、そちらの『狩人』の助けで文書に傷はありません。だれか着替えを持ちなさい。それと、壊れた馬車と刺客の屍骸の始末を」
「ははっ」
 黒衣の男たちは一様に頭を深く垂れているが、けれど、ちらちらと『狩人』のほうを気にする気配も見てとれた。あれほどの腕を持った男はそうはいまい。おそらく彼は黒衣の男たちの中でも頭一つ抜きん出た存在なのだろう。けれども、それがあれほどに若く涼しげな身なりの若者だというのが不可解といえば不可解だった。―――ふと思い立って、アデレードは言った。
「そこの『狩人』は、私と来なさい」
「は……?」
「かくなる上はいつ襲撃があるとも知れない、護衛が必要です。それは、私が刺客に襲われたときに一番にはせ参じた忠義者。護衛には相応しいかと思います」
「はっ。かしこまりました」
 男は胸に手を当て、頭を垂れた。信頼できるのだろうか。ふとそう思う。だが、この際えり好みをしている場合ではない。アデレードは引き裂かれたドレスのすそを翻すと、他の兵たちのまねびに従って、城壁の中へと進んだ。



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