8.


 城は荒廃している。薔薇園は茨の園に変わり、タペストリは襤褸となって垂れ下がり、塔の一つなどは崩れかけてすらいる。けれども、それは外見だけのことに過ぎない。奥へと進めば、そこには、豪奢ではないが高価な絨毯が敷かれ、簡素だが作りのいい調度が整えられている。それは客を迎えるためのものではなく、わずかな時を逗留するものたちのため。その証に全てが堅牢だ。―――いざというときにはこの城に閉じこもり、兵を整えることが出来るように。
 そして、その城の最奥、かつて宴の催された部屋に、今は、簡素だが堅固な胡桃材の長卓が、置かれている。
 女中代わりの女兵士に手伝われてドレスを代えたアデレードは、その部屋へと向かった。戸が開き、閉じると、そこには既に何人もの貴人たちが座している。数にして7人たらず。それぞれ、決してここに集うことが知られてはならぬものたちばかり。中には代理人もいる。まだ年若い青年や、信頼の置かれているだろう執事など。そして長卓の最も置くには、アデレードの兄…… シュバインノルン公爵その人が座していた。
 本来ならば美しい湖畔でワインでも傾けているだろう彼らの前には、しかし、酒の一杯も置かれてはいなかった。ただ喉を潤すための清水を満たした素焼きのピッチャーが置かれている。ここは酒宴の席ではない。ひとかけらの酔いすらも存在してはならない。
 アデレードが座すと、重々しく、公爵が切り出した。
「……アデレード、いったいどうしたことだ? このようにいきなりに我らに集合をかけるとは」
 アデレードと同じ琥珀金の髪、けれども違う黒曜の瞳を持った壮年の男だ。厳しく引き締められた彼の表情には不安の色が濃かった。彼らがこうして同席に座すということは、決して敵には知られてはならぬという事実だから。―――アデレードはしずかに筒を長卓に置き、言った。
「先にひとつ、お話しておくべきことがありますの」
 貴人たちの目が集まる。アデレードは言う。
「……ここにくる時、兵の襲撃がありました」
 ざわり、と貴人たちがざわめいた。公爵が黒曜の目を見開く。
「何だと? 何者だったのだ?」
「いえ、全て始末してしまいましたので、誰の差し金かはわからずじまいでしたわ。どちらにしろ吐くような男たちでは無いのでしょうけれど」
「この集まりは計画されたものでは無かったはずだ。……それも、お前が、だと?」
 ブランシュタイン正妃たるアデレード。彼女はこの席に座しているということを最も知られてはならぬ者だ。それが発覚すれば、事件は血で血を洗う粛清劇へと発展しかねない。
 ―――彼らは、主に、シュバインノルン派と呼ばれる者たちだった。
 公爵、侯爵、司教、将軍、誰一人をとってもこのブランシュタインの重鎮ではない者は無い。年若い青年は司教の代理であり、老境近い貴婦人はさる侯爵の夫人だった。彼らはアデレードを要とし、水面下で常にこのブランシュタインの支配権を取ろうと手を組み合っていた。彼らに次ぐ勢力である王党派とは相対する。王を抱くということに一つの疑問も無くとも、彼らは、それぞれ政に対して別の考え方を持ち合わせていた。暗愚な王を抱く以上、それは完全な対立を意味する。現在ではブランシュタインの宰相はここに執事を座らせているさる公爵が勤め、王妃アデレードはこうしてこの場に座している。現在では骨牌は彼らの手に有利な札ばかりを集めている。
 けれども、アデレードが手にしたその筒には、それら全てを覆すだけの爆発力が秘められていた。
「皆様に先に伺っておきとうございますの。何か、不穏な動きをご存知の方はいらっしゃいまして?」
「不穏だと?」
「正教派、青年党、リヒテルビン派、どれでもようございます。けれども、何か私たちを脅かそうとする手を感じていらっしゃる方はいらっしゃいませんこと?」
 しばし、貴人たちが、ひそやかに言葉を交わした。
 重々しく手を組んでいた公爵が、やがて、やや困惑の色を含めて答えた。
「……『リヒテルビン派』で、ハルトヴィック侯爵家の侯子、ダリウスが留学より帰還したとのことだ」
「それは、予定よりも?」
「ああ。本来ならばダリウス侯子はまだ海峡の向こうに居るはずだ。まだダリウス侯子は齢18、年としてはまだ勉学に励んでいるべき年頃だろう。ハルトヴィック侯爵には何か思惑があったのやもしれんという話だが……」
 それに続くように、次々と、名が挙がった。
 その中に、時折、その名も絢爛とした貴公子たちの名が現れる。侯爵家、公爵家。あるいは聖卿の名を与えられし青年。彼らは皆、このブランシュタインの未来を背負ってたつべき若人たちばかりだった。彼らの名が陰謀の座へと上り詰めるには今しばしの時を必要とするだろう。けれども。
 アデレードは、不吉なその合致に、思わず、にぶい頭痛を覚えた。
 錆びた釘をこめかみへとねじ込まれるような痛み。既視感。かつてのこの席には彼女は座しては居なかっただろう。けれども、まったく同じような話がささやかれたことがあったのやもしれない。まったく違う娘の名が刻まれた文書が、この同じ長卓の上へと差し出され、人々の目を受けたことがあったのかもしれない。
「偶然の合致か、それとも、同じ情報が漏れ出しているのか……」
 その可能性は極めて薄いと思いながら、アデレードは、蝋の封印を切り、筒から文書を抜きだす。
 彼らの会議が不穏なのは何時ものことだった。彼らの権勢はさながら剣の上に座すがごとく。おびやかさんとする勢力は弱小から強大まで種々存在する。もっとも恐ろしいのは王党派であることは無論だが、敵はどこに存在しているか分からない。いつ誰が彼らへと向けた弓を、満月のごとくに引き絞っているか分からないのだ。
 けれど、この度放たれた、まだ行方すら知れぬこの矢は――― あまりに決定的だ。
「皆様、どうぞご覧下さいませ。後宮に潜ませた女官からの文ですの」
 アデレードは紙を広げる。わざと分かりにくく、暗号で書かれた文。最期には血を持って彼の女官の印が刻まれ、その文が紛れも無く危急のもの、そして、真性のものだということを示している。
 アデレードは紙を差し出す。忠実な兵が公爵へとその文書を渡す。それを読み解くうちに――― 公爵の目が大きく見開かれ、顔色が青黒く変色した。
 がたん。高い音が響いた。
 立ち上がった公爵の後ろに、大きな胡桃材の椅子が転がる。長卓に突かれた手が震えていた。動揺を隠せない声に、貴人たちの目が、いっせいにアデレードへと向けられた。
「……こ、これは誠か、アデレード!?」
「はい」
 アデレードは、静かに目を伏せ、頷いた。
「まだ月浅く、完全な確証はございません。けれども……」
 頭痛。既視感。けれども、振り切って、アデレードはその言葉を口にした。

「……『白雪姫』は、その腹に子を身ごもっておりますわ」

 その衝撃は、あまりに大きかった。
 次々と、貴人たちが立ち上がった。
 誰かは我を忘れたように叫び、誰かは手を伸ばして公爵から文書を奪い自分の目で確認しようとする。若い司教代理は一人震える指で聖印を切り、アデレードを見た。アデレード一人が石の彫像のように冷静だった。
 もしシュネイゼ・ブランシュが身ごもっているとなれば、その腹の父親は、ただ一人しか存在し得ない。なぜなら彼女は塔の中の姫君。堅牢な城の最奥に閉じ込められ、二人の女官のほかには決して言葉すらかけられることのない存在なのだから。この出来事自体が遅すぎるくらいだとアデレードは冷静に思った。
 白痴ゆえに、子を成せぬことも多い青黒き血を継いでいるがゆえに、シュネイゼは子を持てぬと、半ば無意識に皆が思っている節があった。事実彼女には月の物が少なく、その懐妊が発覚したのもある種の薬物、そして、妊娠初期にはありがちな反応によるものだ。そして、何よりもおぞましい真実は、ここに在席を許されるほどの位を持つものにしか明かされない。塔の中の姫君は新雪さながらに純潔そのもので、男の手が触れることすらないと信じられている。
 そこまで思って、アデレードは、大理石のように冷たく冷え切った脳で思った。
 実の父の子を身ごもった、シュネイゼ。
 ……かつてゾフィーが己が弟の子を身ごもったときもまた、同じような茶番が演じられたのだろうか、と。




 その日の会議は、ただいたずらに踊るままに終わった。
 全て、予想外なあまりの衝撃に、貴人たちがその答えを失ったが故。重ねられた禁忌はすさまじい重さをもった醜聞となっていた。シュネイゼは姉と弟の間に生まれた子であり…… さらに、その腹の中には、己の父の子が存在するというのだから。
 混乱したまま、公爵が、一夜の逗留を貴人たちに命じた。それは無理を重ねることだったのかもしれない。この城に逗留しているということを知られる可能性が高まる。けれども、この事態に対策を打たずにいることはどうしてもできない。これは、王家の『神聖なる青き血』への冒涜とすら捕らえられかねないほどの醜聞だったからだ。
 会議が終わっても、相手を捕まえて何ごとかを言い合っている貴人たちを置いて、アデレードは一人場を辞した。
 その頃にはすでに日も暮れて、空には半月が昇っていた。
 アデレードに与えられたのは、本来ならば彼女のような地位の貴婦人には到底相応しくない小さな部屋だった。古めかしいベットと、小さな卓がひとつ。衣装を納めた櫃。切り裂かれたドレスが丁寧にたたまれて櫃のうえに置かれているのを横目に見ながら、アデレードは静かに窓へと歩む。古い丸硝子の嵌められた窓。開くと、眼下には茨の園、そして、眼前には黒い樹海と山陰に浮かんだ月が見えた。
「―――葡萄酒を持ちなさい」
 振り返りもせずに命じると、静かに頷く気配がした。気配が去り、そして、戻った。小さなテーブルの上にピューターの小さな杯が置かれ、深紅の葡萄酒が注がれた。
 それは男、青灰色の目、傷のある頬の、端整な顔立ちの青年だった。彼は今は黒いマントを脱ぎ、けれども、身に着けているのはやはり黒ずくめに近い服装だった。漆黒の長衣に革帯を結び、片方の腰には剣、もう片方の腰には短剣が指されている。その長い洋袴も、編み上げのブーツもまた、黒く染められている。
 アデレードはひといきに葡萄酒をあおった。そして、男が何も言わずに次を注ごうとするのを、手で制した。
「一杯で十分。……これ以上酔うわけにはいきません」
 男は無言で頷いた。アデレードはベッドに戻り、座ると、窓の外を見た。冷たい空気が外から流れ込んでくる。
 17年前――― そのときも、きっと誰かがこのベットに座っていたはずだ、とアデレードは思う。それは誰だったのだろう? いくつかの名前を、顔を思い浮かべることが出来るが、全てはあいまいにぼやけて消えていく。己の父の顔ですら。
 頭痛、頭痛、頭痛。
 既視感、既視感、既視感。
 すべて作られた喜劇のように感じられる。自分は人形に過ぎない。誰かが舞台の上座に立ち、己の手足に絡んだ糸を操っているかのような錯覚。ああ、その通りだ。自分は所詮操り人形に過ぎない。王妃の座へと上り詰めたことも、ローラントと愛の無い夫婦の劇を演じることになったことすら、誰かによって決められて、そのような運命へと導かれたことに過ぎない。
 アデレードは必死で流れに抗してきた。違うだろうか? けれども、それすら、『大局』という大きな運命の流れの前だとちっぽけなあがきにすぎないのではないだろうか。―――いや、『大局』ということすら愚かしい。それはただのこっけいな人形劇にすぎない。
「そこの『鏡』」
 アデレードは、顔も見ないままに、言った。
「はっ」
「ゾフィーの名を存じておるか?」
「……王女ゾフィー・クレティア・フォン・ブランシュタイン殿下のことでございましょうか」
 ゾフィー。雪白の膚。漆黒の髪と、黒い瞳のゾフィー。
 アデレードは振り返り、望む返事を返した『狩人』を見た。唇にかすかに自嘲の笑みが浮かんだ。なるほど、この男は『鏡』だ。己の望んだとおり、己の心を覗き込んだがごとくに、答えを返してくれる。
「ならば、ゾフィーは如何した」
「純白の雪のごときゾフィー殿下は、乙女の純潔のままに、夭折なされました」
「違うであろ?」
「……」
 アデレードは、腹の中で、先ほど飲んだ葡萄酒が、わずかにゆらめく炎となって立ち上がってくるのを感じる。たった一杯の葡萄酒から得られるだけのわずかな酔い。けれども、それは、鏡に映った己の顔に、自嘲の笑みを浮かべる程度の弱さは許してくれた。
「鏡よ鏡、答えなさい。ゾフィーはいったい何故死んだの?」
 狩人の目がわずかに揺らいだようだった。けれど、それは一瞬の錯覚だった。彼は答えた。揺らぎの一つも無い冷静な声で。
「ゾフィー殿下はローラント陛下の御子を身ごもられ、出産された後、御子を連れて国境を越えてリヒテルビンへと逃れようと図られました。ゆえに、弑逆し奉った次第」
 思い出す。―――可憐で、やさしく、哀れなゾフィーの笑顔。
 アデレードの唇から、乾いた枯葉の触れ合うような、かすかな笑みが漏れ出した。
「……鏡よ、鏡」
 笑うしかない。涙などとうに枯れ果てた。応えの帰らぬ問いも尽き果てた。ゾフィーの呟く言葉は、たった一つしかなかった。
「鏡よ鏡…… この世で最もおろかな女は、一体、だあれ?」
 『鏡』は応えなかった。……沈黙に、小さな燭だけが、かすかに揺らめいた。




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