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 私は教室に戻った。
 結局その日、ユイコは女子便所には連れて行かれなかったらしかった。リナが私の思わぬ造反に驚いて、それどころじゃなくなったからだ。代わりに昼休み、私はリナと同じ机で弁当を食べなかった。自分の机でひとりで食べた。
 教室でひとりでご飯を食べているのは、私とユイコだけだった。ユイコの弁当には何かがいれられていたらしい。ユイコは黙ってゴミ箱に行き、その何かをすてて、それから机に戻ってきた。……『何』が入れられていたかなんて知りたくもない。
 自分ひとりでかみ締める玉子焼きは、まるで消しゴムみたいな味がした。黙ってお昼を食べていても、背中にちくちく視線を感じる。リナたちがこっちを見ているのだ。ひそひそと何かをささやき交わしているのは、私の悪口でも言ってるのかもしれない。何を言っているのか聞こえないけれど、その感触は針のように私の背中を刺した。
 こうなることなんて、分かりきってた。
 だから私はずっとリナの言うことに逆らわないようにしていたのに。腐った生ゴミを用意しろとか、毛虫をたくさんあつめてこいとか、そういう嫌な命令も全部聞いてきたのに。流星一人のせいで全部が台無しになってしまった。ひとりで食べるご飯は味がしない。こういう女子校で、たったひとりになることがどれくらい怖いことか、流星は知らないのだ。
 でも、その流星は、私の正面に座って、お弁当の中身をのぞきこんでいる。
「わ、おにぎりだ。何が入ってるんだろう」
「……どうせただのふりかけが入ってるだけ」
「おいしそうだなぁ……」
「食べたいならあげるわよ」
「食べられるなら貰ってるけどね」
 胃がなんだかきりきりして、食欲がぜんぜん湧かなかった。私はそうそうにお弁当箱のふたを閉めた。流星は残念そうな顔をすることもなく、私の後をふわりと飛んで付いてきた。
 リナたちはくっつけあった机に集まったまま、何かをおしゃべりしている。私が近づいても誰もこっちを見ない。そのくせみんなが私を気にしてる気配がする。リナがふわりと振り返る。自分の髪の毛が、どうやればきれいにゆれるのかを、しっかりと考えた振り返り方。
「なに、どうしたの、アイ」
 はきはきとして明るい話し方。リナはいつもこんなしゃべり方をする。でも、何を考えているかはすぐわかる。リナの目はちっとも笑ってない。
「その…… さっきは…… ごめんなさい」
「なんのこと?」
 リナは空とぼけている。でも、目はまっすぐに私を見ている。感情の無いプラスチックみたいな目だ。背筋がぞくっとするのを感じる。私は声をふりしぼる。
「あの、……ユイコのこと、いじめてる、とか言って……」
「そうよね。何のことかと思っちゃった」
 リナは大声で「ユイコ!」と言った。
 ユイコの背中が、ぶたれたようにびくんと震えた。
「ねえユイコ、私、ユイコのこといじめたりしてないよね? アイの勘違いだよね?」
「……」
 ユイコは屠殺場の牛みたいに哀しそうな眼をしていた。でも、かすかに、確かに頷いた。リナはこれ見よがしに笑い、私を見上げた。
「ユイコもアイも私の友達だもん。いじめなんてしてない。そうよね?」
 ―――その通りでしょうね、と私の心の中のどこかがつぶやいた。
 リナはいつも直接手を下さない。私たちに全部をやらせる。生ゴミも、腐った牛乳も、毛虫も、ネコの死体も、全部私たちに用意させる。私はリナのために猫を殺したことだってある。可哀想な猫をアジフライで釣って、頭をブロックでつぶしたこともある。そのときの手触りが蘇ってきてゾッとする。私は無意識に手をこすりあわせる。その仕草にリナは神経質に眉を上げた。
「でもまあ、アイもたまには一人でご飯を食べたいことだってあるよね」
 リナはさばさばした口調で言った。
「でも、今度またみんなで食べたくなったらお弁当持ってきなよ。そしたら一緒にご飯食べよう」
 事実上の、それは、強制だった。今度一緒にお昼を食べなかったら仲間はずれにする。そして、リナに仲間はずれにされるってことは、私にとってどんなことを意味しているか――― 
 流星が背中越しに、何かを言いたそうに私を見ていた。でも私はそれを強引に無視して、「そうだね、ありがとう」と無理やりの笑みを浮かべた。



 その後、私は校庭の隅っこの水のみ場で、手を洗った。
 洗っても洗っても手が臭い。どんなに洗っても汚れがとれないような気がする。私の手は汚れている。どんなことをしたってキレイにならないくらい汚れている。
 吐き気を催すようなことをいっぱいやってきた。ミミズをたくさん集めてきて、ユイコの上履きに詰め込んで、わざわざ石で上からつぶしてみた。猫を殺した。ユイコの体操服におしっこをかけるときは、わざわざ私のおしっこをトイレから持ってきた。リナは全部見ているだけだ。見ているだけ。何もしない。それをみて、ガラスのビーズみたいなきれいな声で、しゃらしゃら笑うだけだ。
 流星は黙って私を見ていた。その目が私を非難しているようでたまらなかった。私は両手を水のみ場のコンクリートに叩きつける。
「なんとか言いなさいよ!」
 金切り声で叫ぶ私に、流星は、静かに言った。
「アイはずっと逃げも戦いもしてこなかったんだね」
「そうよ! 悪い!? だって、何にもできっこないじゃない!! リナに逆らったら、今度は私がユイコになるのよ!!」
 YES/NO? YES/NO? そんなの答えなんて出せっこない。はじめから決まってる。リナは女王様で、私たちは家来で、ユイコはピエロだ。それはいつの間にか決まっていたことで、クラスのほとんどがリナの家来になってしまった今だと、抵抗のしようがなかった。しかもリナは直接手を下さない。全部を全部、家来にやらせるのだ。
 ユイコになるなんて耐えられない。それは豚になることで、虫になることだ。豚は殺される。虫はつぶされる。どっちもあたりまえのことでだれも疑問一つ抱かない。それがユイコの『係』なのだ。
 ユイコは何も悪くない。それは私にだって分かっていた。
 ユイコは気持ちが悪い。醜い。頭の回転が悪くて、場の空気を読めなくて、自分の自慢話ばっかりする。つまらないくだらない人間だ。でも、それはユイコのせいじゃない。立ち回るのが下手なせいで友達ができないのはユイコのせいかもしれないけれど、それ以上のことをされるのはユイコの『係』が決まってしまったというだけの理由でのことだ。
 それに、ユイコがくだらない人間だというのなら、私だってそうだ。
 リナに命じられたらなんだってする。自分がいじめられるのが怖いからというだけの理由で人の机に生ゴミを入れたり、カッターで汚い言葉を彫ったりする。こんなの、お母さんにもお父さんにも言えっこない。きっと一生誰にも言えない。言ったら軽蔑される。そういうことを私はしているのだ。現在進行形で。
 洗っても、洗っても、ちっとも手がきれいになった気がしない。
 重油のようなものがべったりとこびりついてるみたいで、石鹸で泡を立てて、爪で引っかくようにして洗っても、ぜんぜんきれいにならなかった。水を出す。どんどん出す。制服の袖が濡れてくる。でも洗う。一生懸命洗う。
 そんな、ときだった。
「あの…… 時原さん?」
 後ろから声をかけられて、体がびくんと反応する。時原、アイ。時原アイ、は私の名前。振り返る。すると、そこには、
 ユイコがいた。
 私は声を失う。ユイコはおどおどと地面のほうを見ていた。鈍重な感じのする細い目を伏せて、何かをいいたそうにしていた。
「な……」
 なに、と言いたかった。言いかけて黙った。ユイコと口を利いてるところを見られたら、後で何を言われるか分からない。でもユイコは勝手にしゃべりだす。息せき切ったように早口に。こういうところが嫌われる理由だってことに、たぶんユイコは気づいてない。
「今日ね、昼間、私のこと庇ってくれて、ありがとう。すっごく嬉しかった。クラスの人たちみんなリナの言いなりだけど時原さんはなんか違うなってずっと思ってたの。ありがとう。こうやって誰かに話しかけたのもすっごく久しぶり。学校来ててよかったなって思った。がんばって学校来てた甲斐があった」
「……そんなたいしたことしてないよ」
 だって、私は『逃げた』だけだ。しかも逃げたのは私ではなく流星だ。でも、そんなこと説明したら頭がおかしいと思われるのがオチだろう。私は黙っていることにした。どっちにしろユイコは蛇口が壊れた水道みたいにしゃべり続けているだけだ。
「学校とかっていじめが遊びみたいになってて理不尽だよね。なんで私が選ばれたのかなっていつも思ってる。でも、こういうゲームっていつまでも続かないって分かってるから我慢できるの。たぶんそのうち誰かが私の代わりになってくれると思う。そういうもんだもん。小学校の頃とか、リナとかすっごくいじめられてたしね」
 息継ぎの無い聞き取りにくい言葉の中に、けれど、私は予想外の言葉を見つけて、驚いた。思わず顔を上げると、ユイコはにやりと笑った。なんだか嫌な感じの笑い方だった。
「あれ、知らなかった? リナっていじめられっこだったんだよ、小学校の時」
 まさか、と私は思った。
 女王様のリナが? 決して自分だと手を下さないリナ、キレイで頭がよくて、運動も出来る、非の打ち所の無いリナが?
「リナってなんていうか、自分が美人だとかちょっと思い上がってる感じのところ、あるじゃない。そういうところ目を付けられたんだよね。小学校の頃むちゃくちゃにいじめられて自殺しようとしたりとかしてたみたい。でも、中学校になったらいじめっこ。なんかこういうのってすごく簡単だなって私思ったよ。ただのゲームなんだって。上手なプレイヤーが上にいって、要領悪いのが負けるの。誰が悪いとかじゃなくってさ。私要領悪いから最近負けっぱなし」
 ハハハ、というユイコの笑い声はむなしく響いた。
 出しっぱなしの水道が、じゃあじゃあと音を立てている。流星は私の肩の辺りで黙って話を聞いていた。無表情で何を考えているのかまったく分からない。
「でも、時原さんが私のことかばってくれて、なんか、運が向いてきたって感じ。なんかすごろくでサイコロ振ってて、ずっと1しか出なかったのが急に6が出たみたい。すっごく嬉しかった。だからそれだけお礼言いたくってさ」
 ―――お礼なんていわれるいわれは無い。
 私は今日ユイコの机に生ゴミを入れて、上にチョークの粉をかけたし、ほかにもいままでたくさん嫌がらせをしてきた。それはリナの命令だったけど、実行犯は私だったというのは間違いないことだ。ユイコがそれに気づいてないなんて思ってもいなかった。それともユイコは気づいててこうやって話しかけてきたんだろうか? そう思うと、ユイコの太った笑顔が、なんだか急に不気味に見えてくる。
「あなたは…… その」
 私が口ごもると、ユイコは意味を察したらしい。哂った。嗜虐的な笑みだった。
「いじめたよ? 小学生だから容赦とか無かったしね。いろいろやったね。すごい色々」
 リナとユイコは同じ小学校だったのか、と私はぼんやりと思っていた。同時に『いろいろ』の中身はなんだろうとも思う。子供の想像力は際限が無い。それが残虐性のほうに発揮されるんだったらなおさらだ。
 でも、リナが? あのリナが?
 リナの自信に満ちた笑顔を思い出す。あんなリナがいじめられていた――― 今のユイコと逆の立場に立っていたなんて想像もできない。リナも机に生ゴミを入れられたりしたんだろうか。臭いとか汚いとか言われて、トイレに連れ込まれて水をかけられたりしたんだろうか。何も見ない、何も聞こえないと自分に言い聞かせて、じっと耐えていたことがあるんだろうか。
 では、リナはどうやってその立場を抜け出したんだろう。ユイコの言葉を借りるんだったら、ゲームの中で勝ち上がって頂点に立ったのか。
 ―――その方法は、『逃げ出す』ことではないだろう、ということだけ、私にも想像が付いた。



 その日の夕方、私は、自転車乗り場で、リナたちに呼び止められた。
 その一瞬前、自転車の鍵を外そうとして、困惑していた。鍵の穴にガムが詰め込まれていたのだ。これでは鍵が開けられない。性質の悪いいたずら。でも、なんで?
「ねえ、アイ」
 困惑している私に、すっと通った声がかけられる。私は振り返る。そこにはリナと、他に数人が立っていた。私のことを見下ろしていた。リナの清潔できれいな髪の毛が、夕日を浴びて、つやつやと光っていた。
「どうしたの?」
 リナは無表情で問いかけてくる。私は戸惑いながら答えた。
「あ、あの、自転車の鍵にガムが詰め込まれてて……」
「そう。誰がやったのかしらね」
 私はその言い方に、ひどく嫌な感じを受けた。
 この言い方を、私は知っている。リナが私に何かを命令して、その結果を見届けた時、リナが言い放つような言い方だ。そう悟った時、脊髄が凍ってしまったように、背筋が冷たくなった。
 リナの目が無感情に私を見ていた。ガラス玉のような目だった。夕日を受けて薄ぼんやりと光る目。他のみんなも同じような目をしていた。人間は視線だけで重みを感じることが出来るのだ。初めて知った。
「あのさ、今日あんた、ユイコと話してたよね?」
 リナじゃない誰かが、冷たい声で言う。それに誰かが同意を重ねる。
「リナの悪口言ってたよね? リナが小学校の時どうしてたとかそういうの。マジ、趣味悪い。ウザいよ、アンタ」
「てゆーかさ、あんた、猫とか殺したりしてるんだよね? 学校に生ゴミ持ってきたりとかさ。キショいんだよね」
 口々に言い出す彼女たちに、私は次第に体が冷たくなってくるのを感じる。足から地面にずぶずぶと沈みこんでいくような脱力感。周囲がぐらぐらと揺らぐような感覚。
 何を言われてるの? 私が何かした? だって、それは全部リナに言われてやったことだ。それに汚れ役は私だけじゃない。みんなやってることじゃないか。みんなでユイコの机にカッターで悪口を彫った。ユイコの弱点を突くように、ユイコが出来るだけ傷つくような言葉を選んで。それにトイレでユイコに暴力を振るったんだって、モノを隠してゴミ箱に捨てたんだって、みんなでやったことじゃないの。
 そう、リナが言い出したことだ。全部、全部。
 私は助けを求めるようにリナを見た。でも、リナはガラス玉のような目で私を見下ろしているだけだ。そしてリナは言い放った。
「明日から、一人でお弁当食べてよね」
 それだけ言い捨てて、踵を返す。リナたちは何事も無かったようにがやがやと話し合いながら。膝から力が抜けて、私はかくんと座り込む。ユイコの言っていた台詞が頭の中でリフレインする。これはゲーム。ただのゲーム。誰かがビリから抜け出せば、他の誰かがビリになる、そんなゲーム……
「逃げ出す? それとも戦う?」
 流星が問いかけた。私は返事が出来なかった。


 翌日から、ピエロは、私になった。


 

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