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「くう……」
 私はカッターナイフの刃を出す。チキチキチキと音を立てて刃を出す。刃は白い。プラスチック部分は黄色い。100円ショップで買ったカッターナイフ。ポーチに入れていつも携帯していた。それは誰にもヒミツにしていることだった。
「くううう……」
 カッターの刃を、足首に、当てる。
 力を入れて刃を引くと、ぶちぶちぶち、と肉に刃の引っかかる感触が伝わってくる。
 まず、白い肉が見えた。そこから紅い点のように血の粒が盛り上がる。傷口全体から血が盛り上がる。つ、と滑る筋を引いて、血が足の甲へと流れ落ちていく。
 それを見ながら、私は、泣いた。
「く、くう、くうううううううう……」
 私の足は汚い。ちょうど靴下で隠れるくらいの場所から下が、醜い傷だらけだ。
 まだ赤い傷痕、かさぶたのような茶色に変色した傷痕、すでに肌色に変わった傷痕。けれども、傷だらけであることには間違いが無い。そこにさらに傷が加わる。私は逆手にカッターを持ち直す。再び、足にカッターを突き刺した。
 ぶち、ぶちぶち、という感触。肉が切れていく感触。
「うううううううう!!!」
 血が流れるように、涙が流れていく。私は呻く。自室のベットの上。私は、カッターを握り締め、血を拭うためのタオルを手にしたまま、だらだらと涙をこぼした。
「どこにいるの、流星!!」
 私は叫ぶ。声は金切り声に近かった。その声にこたえるように、すっ、と青い影が揺らいだ。
 窓の外から、流星が、私のほうをのぞきこんでいた。
「何をしているの?」
「なんだっていいじゃない……!!」
 ―――あれから、もう、一週間が過ぎていた。
 ピエロはユイコではなく、私になった。それ以外日常は何一つとして変わらなかった。
 腐った生ゴミの臭い。隠されて切り刻まれる制服。トイレに連れ込まれて、顔で床を拭かされる。水をかけられる。引きむしられる髪の毛。服に隠れた場所に増えていく痣。
 リナたちのしゃらしゃらと硝子のように透き通った笑い声が、私の上に降り注ぐ。
 私には分かっていた。それがどれだけ残酷なことか分かっていた。辛いことかも分かっていた。ずっとユイコにやってきたことだったんだから。でも、自分がその立場になった時、どんな風に感じるかなんて、本当に分かっていたわけじゃない、ということが、この一週間で心から思い知らされた。
 逆らっても無駄だ。逆らえば逆らうほど、この檻は私を傷つける。学校はさかさまの棘が生えた拷問具の檻のような場所となった。私は心から知っている。私があがくほど、私が苦しむほど、みんなが喜ぶ。みんなが笑う。それがリナの作ったルールだった。
「くうううう!!!」
 無様に血と涙を垂れ流す私を、流星は、静かに見つめていた。
「この一週間、キミはボクの力を借りようとしなかったね……」
「しかたないじゃない……!!」
 戦う、逃げ出す? どちらの選択肢も、地獄へと繋がっているだけだ。
 戦って勝てる相手じゃない。リナには仲間がたくさんいる。リナに逆らった時に訪れる地獄の恐怖を痛いほどに知っている仲間たち、ほんの一週間前の私みたいな仲間たちが。
 逃げ出す。どこへ? リナたちから逃げ出す、それは学校から逃げ出すということだ。不登校? 親が赦すはずが無い。そして、もしも私が登校を拒んだということがリナたちに知られたら、いじめはさらに強度を増していくことだろう。
「どこにも逃げ道なんてないんだよ!! これはゲームなの!! 誰かが鬼になったら、鬼はどこにも逃げられない!! あたらしい鬼が出来ない限りは!!」
 私は叫ぶ。叫んで、カッターを足につきたてる。痛み。血がじわりと湧き出した。
「だからアイはそうやってずっと自分を傷つけてるの? 自分を傷つければ何か変わるの?」
「変わるわけ…… 変わるわけ無いじゃない……」
 不思議と、麻痺したように傷は痛まない。昔からそうだった。このいじめが始まった頃ぐらいからの癖だった。自分で自分を切り刻む。そんな癖。
 自分を切るのではなければ、たとえば、服を切り刻んだ。ぬいぐるみは手足をもぎ、腹から綿を引きずり出した。弱いものはさらに弱いものを虐める。そんな言葉がなんとなく頭を過ぎった。
 今日、私の上履きの中に、はらわたを引きずり出されたねずみの死体が入っていた。誰がねずみをつかまえて、誰がはらわたを引きずり出したんだろう。そんなことを思う。そんな誰かは、リナのとなりで何も知らない顔をして、私のことを笑ったりしているんだろう。心の中だと自分のあまりの醜悪さに、内蔵をすべて嘔吐してしまいたいような嫌悪を感じながら。
 これはいったい誰が始めたゲームなんだろう? 私はカッターを握り締めたまま、ぼんやりと思う。足からはたらたらと血が流れ落ちて、タオルを汚し始めていた。
 答えはあきらか。リナだ。でも、リナのことを、あの清潔できれいな髪と、しゃらしゃらときれいな笑顔を思い出したとき、私にはぼんやりと思うことがある。
 ―――リナも、いじめられっこだった。
 ユイコが言ってたこと。リナは小学生の時は、そのなまいきさのせいで虐められていた。今の私には、わかるような気がした。このゲームは逸脱したものを許さない。それが負の方向であれ、正の方向であれ、逸脱したものは必ず迫害の対象に選ばれる可能性が格段に上がる。
 リナは突出している。成績もいいし、リーダーシップがある。でも、それは別の言い方をすると、何事も先んじてやりだそうとする出る杭だということだ。先生にも愛される。それは、教師にこびるという意味でもある。教師にこびる生徒は嫌われる。リナにはいじめられる資格が十分にある。
 リナもこんな思いをしたことがあるんだろうか? みんなに蔑まれ笑われて、屈辱を舐め、ストレスのあまり自分自身を傷つける。そんな思いをしたことがあるからこそ――― 先に誰かをスケープゴートにしようとする。
 可能性は、あるような気がした。
 黙りこむ私を、流星が不思議そうに見る。私はタオルを取って足の血を拭くと、置いておいた救急箱のガーゼを貼り付けた。
「どうしたの?」
「思いついたことがあるの」
 私は、言った―――
「……リナが本当にいじめられてたかどうか、調べるの」



 

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