その日、Yのすむ破れ長屋にやってきたのは、高価なインバネスを着、細い銀縁の眼鏡をかけた男だった。象牙の握りのついた杖をついていた。
 Yはというと、その日、いつも仕事をしている少年小説などの挿絵を描いていた。表向きの仕事だ。その向きにおいては、Yは実に平凡な仕事人であって、わざわざ相手のほうが仕事を持ち込んでくるような身分ではない。破れ長屋には不釣合いな男の様子を見て、Yはすぐに、これは例の仕事の話だろうと思い当たった。
 男は、まるで甲虫の背のように、艶々と磨きぬかれた革靴を履いていた、とYは言った。
「男は言ったのだよ。さる公爵が、おれに画を依頼したいのだとね」
 けれど、男は言った。もしもこの条件を飲まないのだったら、自分はすぐに引き上げて、二度とは会いにはこないだろう、と。
「娘の絵を描いてもらいたい。けれど、決して『娘を見てはいけない』―――」
 まったく奇態な話だ、とYは思った。
 相手を見ずに、画が描けるものか。そう返したYに、けれど、男はわずかも揺らがぬ声で答えた。
「それを出来るのが貴方だと聞いたのだから、この話を持ちかけにきたのです、とね。まったく、困ったものだ」
 Yが迷ったのは、けれど、ほんの僅かな間だけだった。
 Yは男に、「ほんの少しだけ待ってください」と言い、大急ぎで少年小説の挿絵を仕上げた。そしてその横に、画を取りにくるのだろう編集者への手紙だけを残して、急ぎ、足に下駄をつっかけて、長屋を出た。
 愚かしい奇行だと思うだろうか?
 Yという寡黙な人間をよく知っている私ならば、そのYの行動も理解できた。Yは、無残画、責め画などで知られなどしているけれど、本人は至って淡白な男だ。女にもさほど興味が無い。けれども、一つだけ特徴を挙げるとしたら、『異様なほどに好奇心が強い』のだ。
 そして、Yをひきつけるのは、往々にして、人の忌み嫌い、呪うような、醜く、汚らしいものたちだった。
 Yはたとえば、梅毒で鼻の腐り落ちた街娼の顔を、詳細に紙に書いてみせた。神経を衰弱させてビルヂングの天辺から飛び降りた男を見たときは、普段は大人しげに伏せている目をぎらぎらと光らせて、注視していたということを覚えている。おそらくYは、恐ろしいもの『視る』のが好きなのだ。その『人でなしの眼』こそが、おそらく才能と立場に恵まれていたはずのYをして、光の当たる路から離れさせたのだろう。そして、そのYの眼は、そのような奇態な依頼を逃すということを、どうしてもYに許さなかった。
 夜だった。Yは車に乗せられて、目隠しをされた。Yはその車のスプリングが利いた座席のやわらかさに驚いた。おそらく上等の、洋行の車であったろうとYは思った。そして、それほどの高価な買い物をする人が、どのような人物なのか、ということに、ひどく興味をそそられた。
「車は、そうだね、一・二刻ほども走ったよ。乗っている感じでも、途中で路が変わったから、おそらく、遠くに来たのだろう、と思ったよ。そしてたしかにおれが眼を醒ましたとき、目の前にあったのは、森閑たる木々に覆われた屋敷の姿だった」
 モダンな様子の建物でもなかった、とYは言う。
「洋館ではあったが、窓がひどく小さくて、そうだね、まるで『箱』のような建物だったよ。そして件の男は、おれを、使用人を住まわせるためなんだろう小さな裏の屋敷に連れて行って言った。これからしばらくは、貴方はここに住んで、娘をモデルに画を描くのだと。ほしいものがあればなんでも言いつければいいといった。筆も何もおいてきたというと、小間使いに取りに行かせるという。屋敷に上がりこんでみると、疲れたでしょうの一言も言わずに、女が茶漬けを出してくれた。それを食うと外を見るとそろそろ空が明けてきていたから、もう、面倒くさくなって、おれはすぐに、小間に敷いてあった布団にもぐりこんでしまったよ」
 翌日になると、例の銀縁めがねの男がまたあらわれた。男は黒い洋装に、まるで蝙蝠のようなインバネスを着込んでいた。おそらくは若いのだろうがよくわからない。色の白い、無表情な男だった、とYは言った。
「男は、まず、おれの前に、たくさんのトランクを持ってこさせた。あけると、中からたくさんの服が出てきた。おれは本当にあきれてしまったよ。洋装もあったし、和服もあった。金糸銀糸を縫い取ったぜいたくな振袖から、それこそ華族の令嬢が夜会に着ていくような天鵞布のドレスまで、信じられないくらいの服が出てきたのさ。そして男はおれに言ったんだよ。これが、その娘のいままで着てきた服だって」
 娘は見せられないが、服ならば見せられる、と男は言ったのだという。この服を見れば、娘がどのような娘かわかるだろうと。
 これも含めて、四回、トランクを見せると男は言った。
 四回、トランクの中身を見れば、あなたならきっと『娘』が描ける――― と。
 それだけをいいのこして、男はまた消えた。あとにはYと、そして、部屋ひとつを軽く埋めてしまうような、高価な服のうずたかい山だけが残された。
「仏蘭西製だという、高いレエスの服があった。腰を絞ったドレスがあった。かと思えば、紅絹の裏を付けて、髑髏に絡み付いて花を咲かせる曼珠沙華なんていう、猟奇じみた柄の服も合った。玉虫色に光る絹の支那服もあった。ガラスの南京玉を縫い付けたきらきらした服、縫い取られたダリヤの花がきらきらしい金襴の帯、天女の羽衣のような薄い薄い紗の着物もあった。手で撫でてみると、どれもしっとりと手になじむ。鼻を近づけて嗅いでみると、絹や亜麻や木綿の匂いと一緒に、かすかな麝香の匂いと、それと、くだんの娘のものらしい、かすかに乳臭いような臭いがした。そこでおれは悟った。ははあ、その娘というのは、どうやら、まだあまり年端も行かぬ小娘だろうとね。気付いて見みると、服はどれも、大人の女ではとても着られないような、ちいさくて薄い縫製のものばかりだった」
 男はそれからしばらく、現れなかった。書くものの一つも与えられず、山奥の鄙びた屋敷に閉じ込められたYは、しばらくは不安がっていたものの、じきにすっかり退屈してしまった。Yの世話をしていた女は、無口なのかと思っていたら、どうやら唖でつんぼであるようだった。女はYのために飯を炊き、かいがいしく立ち働いてくれたが、さりとて、唖を相手に世間話をするわけにもいかない。自然、Yは昼間は館の周りをうろつきまわり、あるいは、無数の衣服をひとつひとつ検分し、じっくりと眺めることで日々をすごすこととなった。
「おかしいものだが、衣服というものも、よくよく見ていれば人間の皮膚のようなものなのだね。おれのような仕事をしていると、はだかの女を見ることも少なくは無いが、『はだか』の女というものはいても、完全な意味で衣服をぬいだ女というのはいないのだよ。女は服を脱いだとき、『はだか』というもうひとつの服を着る。たとえばカストリ雑誌の写真などで、女が服を脱いでいるではないか。あれを見ればよく分かるだろう。猿が何も着ないで恥じることは無い。だが、女は『はだか』になれば、自らの『はだか』がどれだけ美しいかにひどく気をもむのだ。さしずめ、あれは『はだか』という一張羅が、どれだけ上等かということに気をもんでいるといったところなのだろうね」
 Yに渡された服は、どれも、あまり着崩れていないものばかりだった。けれどその中に一枚だけちがう服があった。それは蛇の皮のようにすべらかな、白絹の裏のついた着物だった。若い娘にはふさわしくも無い納戸色をしていてね、けれど、良く見ると地模様で千鳥が無数に舞っている。それも裾から肩にかけて千鳥が雁のような群れを作っているという凝ったつくりの小袖だった。
 その袖の裏に、とYは言った。
「ひとつ、ちいさな血の跡が残っていたんだ。袖のあたりだよ。もう錆茶色になっていたが、まるで、猫の足跡のようなかたちをしていた。おれはじっとそれを見た。匂いを嗅いでもみた。手で絹をなでさすった。―――妙なものだね、女の服というものは、ずっと近くにおいていると、次第にそれが女の皮膚であるかのように思えてくるのだよ。おおかた、昔の絵物語で小袖から手が出るとなど言ったのは、あのあたりが理由なのだろうと、不思議と得心がいったものさ。チュッチュッと鳴る滑らかな絹を抱いて、絹の匂いを嗅いでいると、しだいに女でも抱いているような気持ちになってくる。それも、ただの女じゃない。眠った女、あるいは、死んだ女だ。何も言わず、くたりとしていて、手触りが良くて、ひどく薄っぺらい女だよ。俺は血の沁みを舐めてもみた。何の味もしなかったがね」
 そして、さらにその数日後――― 男がふたたびやってきた。
「今度は、その男は、箱いっぱいの櫛や宝石を置いていったよ。あまり無造作に置くので驚いたけれども、信じられないことに、宝石のなかには本物の宝石がいくつも混じっているようだった。櫛だって馬の爪などじゃない、鼈甲や青貝を入れた蒔絵、珊瑚使いの本物だ。両手ですくうほどに数があった。若い娘が使うどころじゃない。国賓館で泰西からの大使を迎えるときにだって、装えそうな品物が、いくつもあった」
 男は言った。すでに貴方なら答えは分かっているでしょうと。短い言葉だけ残し、男はすぐに車で去った。その後姿を見て、Yは、「ポオの書いた『大鴉』という詩編を思い出した」と言った。
「あれだけ贅沢に装える小娘というものは、いったい何者なのだろうと、ほとほと俺はあきれはてたよ。英国の女王の指を飾るようなおおつぶの金剛石の指輪が、まるで小石のように放り出してあるじゃないか。ためしにつけようとしてみても、指輪はおれの指には嵌らなかった。エメロウド、ルビイ、サファイア…… いったい、宝石というものは、無造作に放り出してみて、はじめて本当の美しさがわかるというものだね。あれはムカデの目みたいに小さく削って、せせこましく小さく飾ったってしかたがないんだ。飴玉のようにおおきなのを、そのまま、放り出すようにするといいんだ。おれはためしに真珠の首輪でおはじきをしてみたよ。そうしたら、あの中から虹の湧いてくるような石が、ころころと畳を転がっていくんだ。この首飾りを飾るのは、どんな首だろうと、おれはつくづく考えたよ。これほどの宝石にふさわしい娘とは、どんな娘だろうって。そのうえ、おれにはそれまでのあいだに、その娘がまだほんの小娘だということが分かりきってしまっていたんだからね!」
 男はやはり数日は帰ってこないだろう、とYは悟っていた。だからYは、服をじっくりと検分したように、今度は宝石や櫛を検分した。ひとつひとつを取り上げ、太陽の光やラムプの火にかざし、そのきらめきと、色彩に、感嘆した。
「宝石というのは無口なものだ。服ほどには、持ち主を語ってくれない。けれども、おれは次第にその光りのなかに、ひとりの娘が見えてくるような気がしてきたんだ。これほどの贅沢なよそおいをする娘はどんな娘だろうと。おそらくはあの箱のような館のなかに住んでいるのだろうが、けれど、きっと贅沢で高慢な小娘だろうとね。おおつぶの金剛石や、エメロウドや、ルビイを、まるで小石のように無造作にぶちまけてみて、思ったんだ。宝石というのは何よりも贅沢でなければいけない。そして、ほんとうに贅沢なものというのは、退屈でなければいけない。成金のようにもったいぶって、見せびらかすように宝石をつけるのでは、違うんだ。誰にも会わず、家にいるときに、無造作に髪を掻き揚げるのに、おおつぶの血紅さんごの玉のついた櫛を使う。ただ服の襟を止めるだけのために、金剛石のブローチを使う――― そういう無造作な贅沢というもの、贅沢ですらない贅沢というものこそが、ほんとうに宝石をうつくしくみせるんだ」
 やがて、Yは、ひとつの櫛に、目を付けた。それは蝶々を模した櫛だった。揚羽の蝶の上の翅は翡翠を彫ったものでつくられていて、下の翅は蛋白石を彫ったもので作られていた。高価な細工だと一目で分かった。けれど、Yをひきつけたのは、そんなものではなかった。
「その櫛はね、夜会巻きなんかをするときに差すような、二本足のものだったけれど…… その足の先が、不自然にとがっていたんだよ。ざらざらした細工を見れば、もとからじゃないとすぐに分かった。なにか、ざらざらした石か何かで丹念に研いだ細工だった。おれはすぐに思ったよ。ははあ、これはおそらく、件の娘がやったのだろうと」
 宝石を彫った蝶の櫛を、Yは、何度もいじくりまわした。そのうちに、指に櫛の先端が刺さってしまった、とYは言う。
「ぷつりと赤い血の珠がふくれあがるのを見たとき、おれはぞっとした。血を見ることは珍しいことじゃない。だが、その血は…… なんといえばいいのか、特別だった。まるでその小娘が、きかん気の子猫がひっかくように、おれの手をひっかいたかのように思えた。猫というものはね、子猫であっても、殺されるときには死に物狂いでもがくんだ。長屋のおかみが、猫が産みすぎた仔に水雑炊を使っているときに見たんだがね、まだ眼もあかないような子猫が、それこそ、死に物狂いでもがき、ひっかいてくるのさ。おかみは手から血を出していた。がさつな下町の女房の手だったが、あの血というものは、なんとはなしに美しかったようにおもえたよ」
 尖らせた櫛で、娘はいったい誰を刺すつもりだったのだろう? その想像はYを夢中にさせた。Yは日のあるうちは館のまわりをうろうろと歩き回り、暗くなってはドレスや振袖、宝石や櫛とたわむれつづけた。たわむれる、というにはいささか異常なほどの執着だっただろう。Yは自分が鬼となるのを感じた、という。Yの、あの、人でなしの眼が、餓えていた。Yは、素晴らしいご馳走を並べられたテエブルを前に、よだれをたらして待ち続けている客だった。そして、服を見せ、宝石を見せるという男のやり方が、Yの眼を餓えさせ、Yの手を餓えさせ、より美しい絵を描かせるための手腕なのだということは、わかりきっていた。
「おれは待ちかねたよ――― また男が来た。今度のトランクはたったのひとつだった。あけると中から靴が出てきた。金の留め金で留め上げる革靴、金襴の鼻緒をすげた草履、萌え出でる草花をびっしりと刺繍した靴、かあいらしい駒下駄、つやつやした赤いエナメルの靴、赤い漆に蒔絵を施して縮緬の鼻緒を付けた下駄もあった。それと、極楽鳥の刺繍を施して、翡翠の珠を縫い付けた支那の靴」
 けれど、その靴は、どれも異常だった、とYは言った。
「どれも、小さいんだ。おれの手に乗るほどしかない。あんな靴は赤ん坊しか履けない。おれはそう言った」
 その瞬間、はじめて、男が表情を変えるのを見た、とYは言う。
「ほんのかすかなものだったから、きっと、見ても気付かぬものがほとんどだろうよ。冷たい、蝋人形のような、残忍に満ちた笑みだった」
 そして、男は言ったのだ。
「『娘は、纏足をしているのです』とね」
 纏足、という。支那女たちの間に受け継がれていた奇態な風習だ。幼い子どものころから、女の足を変形させ、人工的に、手のひらに乗るほどに小さな足を作り出す。『三寸金蓮』と呼ばれる足の持ち主は、一人では満足に歩くことすらも出来なかったという。そのような女たちは、閨房のためにあったのだ。いうなれば背びれの無い蘭鋳、自らの首だけでは支えられぬほどの花をつける牡丹のようなもの。ただ美しいということだけを追求するために奇形にされた女、という想像は、Yの心を異様な熱情で満たした。Yは何足もの靴を散らばし、夢中で弄繰り回し、先端を舐り、匂いを嗅いだ。靴の中には錦模様の蛇の皮を使ったものまであった。ぬめぬめと光る蛇の革はYの目を眩ませた。
 このような靴を履く娘というのは、どのような脚をしているのだろうか? ある夜など、Yは、周り中に散乱した靴の中で、奇態な形に変形した小さな足が、ほと、ほと、とよろめきながら歩む音を聞いた。Yが眼を醒ますとそれはただの夢で、窓の外では、霙がほとほとと軒下の石を叩いていた。
 Yの渇望はいやましに増した。Yはほとんど『画鬼』だった。ほどなくして画布が届けられ、筆が届けられた。用意された墨は最高級の古墨だった。瑠璃や辰砂や藍銅、目もくらむような高価な絵の具が用意された。Yは画布を見た。あとはそこに、『娘』の姿を描くのみだった。
 だが、Yは、『娘』を見てはいない――― 『娘』と、出会うことすら、許されていない。
 Yは『娘』を見たいと心の底から願った。高慢で美しく、それでいて無力で、憎悪に満ちた娘。生まれてすぐに水につけられて殺される猫のような、弱弱しい、怨みに満ちた、哀しい存在。
 Yは男に懇願した。どうか一目でいいから娘を見せてほしいと。見ることが許されないのなら、触れるだけでもいい。それすらも許されぬのなら、声だけでもいい。だが、Yの懇願に男はつれなかった。

「男は言ったよ。『はじめから娘は見せぬという約束だったはずです』……とね」

 思いあまったYは、ある晩、屋敷への進入を企てた。




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