2.


 その次の、土曜日。
 講義が始まるよりも早い時間に洋介を呼び出したマリエは、めずらしくも、「なんでも好きなものを食べさせてあげるから!」と言った。常に金欠にあえいでいるマリエとも思えない発言に、洋介は耳を疑ったが、彼女は件の甘味屋があるの同じ駅で待ち合わせをするように洋介へメールを送ってきた。
 奇しくも朝、8時。駅で待っていたマリエは見慣れぬブランドロゴの入った布袋を手にしていた。すこしばかり遅刻した洋介が小走りに近づくと、耳からヘッドフォンを引っこ抜く。ひらひらと手を振った。
「おはようございます、マリエ先輩」
「おはよ。じゃ、さくさく行こうか」
「え、どこへ?」
「今回の事件に当たって、ぜひ、関わってもらいたい人がいてねー」
 マリエは歩き出す。素足にヘンプを編んだサンダル。洋介は慌てて追いかける。
「たぶん洋介君は知らないかな。日下部慈郎っていう人がいるんだけど」
「日下部さん…… ですか? 何年生です?」
「在学してても、もう卒業してる年だね。あたしより二個上だから」
 東海道五十三次なら、そのひとつ。歩いていく町は、大学からさほど離れていない。けれども歩くたびに雰囲気はがらりと変わる、不思議な町だ。
 かつては山の中、東海道でも難所と呼ばれた町である。山の中で坂が多かった。けれども、山が崩され、平地にされた土地にマンション群が立ち並ぶようになると、一気に雰囲気が変わってくる。昔から人のすんでいたあたりには古風な住宅街が残り、神社やかつての一里塚、さらには商店街なぞも並ぶ。だが、造成地にはマンションが土地計画に従って並び、桜の植えられた町並みは公園めいた優雅さだ。歩くたびに雰囲気が変わる町並みに感嘆しながら洋介が歩いていると、珍しくも若干言いよどんでいるような雰囲気で、マリエが話しかけてきた。
「あのさぁー洋介くん、驚かないで欲しいから先に言っとくんだけど」
「? なんですか?」
「慈郎先輩って、目が悪いのね」
 ……目が悪い、という湾曲表現でも、なんとなく、それが単純に『眼鏡が必要』というレベルの話ではないということは推測できた。
「でも、うちのミス研に入ってたんでしょう?」
「まあね」
「小説とか、書いてたんですか? 本を読んだり?」
「昔はね……」
 点字で書いていたのか、それとも口述筆記なのか。困惑顔を見せる洋介に、マリエは、困り顔で頭をガリガリとかいた。
「洋介くんは知ってるかなあー。何年か前、うちのサークルの人たちが乗ったバスが、事故ったって話」
「……!!」
 大騒ぎになった。知らないはずが無い。洋介が入学するよりも前の話だが、けっこうたいそうな騒ぎになっていた、という話は今でも聞くのだから。
 ミステリー研究会の部員たちがあつまって、合宿をするためにマイクロバスを借り、旅行をしていた。ところが、そのバスが高速道路で居眠り運転のバスに追突されて、横転したのだ。
 幸い死者は出なかったが、その事故に巻き込まれた中には後々まで障害が残るような重傷を負った生徒もいたと聞く。相手が大きな会社だったせいで、訴訟になったりなんだりと、けっこうな大騒ぎになったことも記憶に鮮明だ。今ではその学年自体がすでに卒業を迎えてしまっているため、事件そのものにダイレクトに関係している人はあまり在学していない。そもそも事故のせいでサークルの存続そのものが危ぶまれたというのだから、大きな話だ。
 ……つまり。
「慈郎先輩ね、事故ったときにいろいろあって目を悪くしちゃってさ、今は大学行ってないの。とりあえず目の悪い人の学校通いなおしていろいろ習ってはいるらしいんだけどね」
「……マリエ先輩、仲良かったんですか?」
「『よかった』じゃない。『いい』だよ。今でも現在進行形で仲いいもん。それに、慈郎先輩って、あたしの『師匠』だったしね」
 がさり、と音を立てて、マリエはビニールのバックを見せた。
「けっこう当分、事件のことがショックで引きこもってたんだけど…… ま、ここ数ヶ月くらい、かなり元気になってて、いろいろ積極的に出かけたりなんだりしてるわけ。家族とかボランティアの人とかには頼みにくい買い物とか、外出ってあるでしょ? そういうのに付き合ってる関係で、今でもあたし、慈郎先輩と仲良くってね」
「はあ……」
 頼みにくい買い物、とはやっぱりオタク関係なのだろうか。若干洋介は悩む。マリエはにやりとわらった。やっと笑った。
「で、その慈郎先輩は、あたしとちがってかなりミステリを読んでる人なわけですよ」
「あ!」
「覚えてるでしょ、50円玉20枚。そもそもあたしにあの店教えてくれたのって、慈郎先輩なの」
 なるほど、たしかにここはマリエの行動範囲外だ。店にしてもせいぜいが10人しか入れないような小さな店だったのに、なんで知ったのかというぼんやりとした疑問はあった。それが氷解する。
「やっぱ謎を解くには、ジモッティの協力に限るってね!」
 マリエはぐっと拳を握って見せた。
「あたしらだけだと解けないけど、慈郎先輩は一人じゃ出歩けないからね。ここでお互い協力ですよ。分かる?」
「なるほど。マリエ先輩らしくも無い、いい思い付きです」
「ふふふ。あたしはどっちかっていうとワトソンだからね」
 で、君は関口巽ね、とマリエはびしっと洋介を指差した。マリエは推理小説といえば、京極夏彦の小説くらいしか読んでいないのだった。……それっていったいどうなんだろう。思って、洋介がなんともいえない顔をすると、「ナニその顔!」と横からマリエに頭を小突かれた。
「それに、きっとおどろくよ。慈郎先輩って、実は、かなりすごい特技の持ち主だから」
「はぁ?」
 ふふふ、とマリエは笑った。なんとも含みのある感じの笑い顔だ。
「ま、会ってのお楽しみですよ」
「はあ……」
 


 マリエがたずねていったのは、瀟洒なつくりのマンションの一棟だった。子どもたちがボールを追いかけて駆け回り、休日らしく中年の男性が犬を散歩させている。インターフォンを押すと男性の声が答えた。きれいなつくりの、高級そうなマンションだった。エスカレーターをあがる。ドアが開く。
「どうも、ひさしぶりー、慈郎先輩!!」
 マリエは開口一番大声で宣言した。洋介は声を出しそこなった。そこに立っていたのは、20代はじめと思しい青年だった。
 ―――普通の人だ、というのが最初の印象だった。
 若干髪型はやぼったいが、ミス研だとこれくらいが普通だ。ひょろりと背が高くて胸板が薄い。大きな目のきょろりとした感じの顔立ち。ジーパンと、棉のシャツ。「いらっしゃーい」とうれしそうにマリエを迎える様子には、何一つとして普通の人と違うところは無い。次の発言を聞くまでは。
「あれ高見、今日誰か連れてくるんじゃなかったの?」
「いますよー。ほら、挨拶して!」
 バン、と背中を叩かれて、思わず洋介は「あ……」と声を漏らす。初めて気付いた。こっちが声を出さないと、相手は、『洋介の存在』にすら、気付かないのだ。
「どうも。一年の高橋洋介です……」
 そのとたん、相手がびっくりしたような顔をした。
「マジで!? ほんとにタカハシヨウスケ!?」
「マジなんですよー慈郎先輩! すげーウケるでしょ! そのくせこの人加納朋子みたいな小説書きたがってるんですよ!」
「うおおありえない! それナイス! いい後輩だなあっ」
 何がおかしいのか、二人はげらげらと笑い出す。洋介は完璧に置いてけぼりだ。はあ、などといいながら恐縮していると、マリエにバンバンと背中を叩かれた。
「ま、気にしないで。内輪のジョークだから。……あ、慈郎先輩、お土産持ってきましたよ。前話してたCDとか」
「おーサンキュー。とりあえずあがって。今日は親もう仕事に行ってるから」
 洋介は奥を示す。きれいに整頓されたマンションだった。窓から遠く、都心のビル街がかすかに見える。マリエはさっさとヘンプのサンダルを脱ぎ、洋介もおずおずとスニーカーを脱いだ。
 そのまま、二人は、慈郎の部屋に通された。慈郎はいちど台所へ行き、ペットボトルのお茶を持ってきた。10畳ばかりの部屋。おおきなアンプセットがよく目立つ。本棚があるが、中身は埃をかぶっていた。
「えーと慈郎先輩、これ、前話してたサンホラの『Chronicle 2nd』です。あと『Roman』の裏曲落としてきましたー」
「うあー助かる。すげーありがとう。『とらの穴』とかにも無いらしくってさ」
「今度ライブ行きたいですよねー。Youtubeとかでかなり画像落とせるんですけど」
「あれ使いにくいんだよな……」
「またCDに焼いてきますよ。聞きたいのがあったら。『じまんぐの世界』とか」
「なんだそりゃ」
 なんだそりゃ、というのは洋介のほうの感想だった。
 どうも横で聞いていると、慈郎もマリエに負けないくらいオタクであるらしい。洋介も人並み、というよりもミス研の一般部員並みにオタクではあるが、マリエの知識量は正直を言って『普通』の域を超えている。そのマリエが『師匠』と呼ぶほどなのだから、慈郎とて並のオタクではないのだろう。口をぽかんと開けている洋介を見て、マリエがにんまりと笑った。
「分からないでしょ」
「分かりません……」
「洋介くん、あんま、普通の音楽しか聴かないもんね」
「俺も昔はそうだったよー」
 慈郎も、ごく、朗らかに答えた。
「あんまし楽器とか興味なかったしね。普通にJ−POPとかだけ聞いてたけど、ほら、やっぱ本とか読まないと退屈で。マニアックな音に走るんだよな」
「そ、そうなんですか……」
「あと新しい彼女が落語とか超詳しいから、けっこう聞くようになったね。最近、落語やろうかと思ってんだ。俺記憶力はいいし、滑舌がいいから、向いてると思うんだよね」
 さっきから言ってるサンホラってのは、オタク系がかった最近のアーティストでね、と慈郎は言った。
「高見に進めてもらったんだけど、アルバム一枚がストーリーとかになってて、聞いてて楽しいんだ。ただまあ字とか歌とかがかなり変な当て字してるから、普通に聞いてても意味わかんないけど。そういう意味だとアリプロとかもけっこう聞くかなー」
「はあ」
「慈郎先輩、洋介くんがドン引きしてますよぉ」
「あーははは、すまん、すまん。俺、すげー喋るほうなんだわ。あんま気にしないで。ミス研の別の部員に会うのってひさしぶりだからさ」
 けらけら笑いながら『生茶』を飲んでいる慈郎から、なんとなく、こちらの妙な遠慮や同情を遠まわしに断るような雰囲気があった。だからやっと洋介は肩の力を抜いた。抜けた。
「うーんとね、あらためて自己紹介。俺、日下部慈郎。元ミス研今23歳。こっちの高見の元師匠」
「元じゃなくて今でも師匠っすよー」
「いやいや、お前の変態っぷりには勝てないわ。で、君は?」
「あ、俺高橋洋介って言います。ミス研の一年生です」
「好きな作家は?」
「え、ええ?」
 いきなりそこから入る。なるほど、確かにミス研の人間だ。
「え、えーと、最近だったら畠中恵の『しゃばけ』シリーズが好きかな……」
 慈郎は、いかにも感心したように一人合点でうなずいた。
「こりゃ健全だ。すばらしい。西尾維新とか言ってたら、ぶっとばすところだった」
「ンなこと言ってるから飲み会のたびに他人から絡み上戸って言われるんですよ慈郎先輩」
 あっはっは、と笑って慈郎は話を流す。そして、「さて」とさらりと話を切り替えた。
「んで、『いづな屋』に、50円玉を20枚を千円札に換金する怪人物が、毎週土曜日に現れるって話だって?」
「あ、はい」
 どうやら、話はすでにマリエがある程度とおしていたらしい。『いづな屋』というのは件の店の名前だ。「ふうむ」と慈郎は腕を組んだ。
「実物を見ないと、なんともいえないけどな。……どんなヤツだったんだっけ?」
「まあ、なんつーか、うらぶれてるっていうか、ホームレス寸前っていうか……」
 マリエが首をひねりながら説明を始める。実際、洋介は見ていないのだから、なんとも口出しをしかねる。ただ気になっているポイントは、あるにはあった。
「でも、なんであの店なんでしょうね?」
 あの店は、商店街の裏道にある。
 表通りを一本曲がり、車が通るどころか自転車の通行すら怪しい場所に、藍染の暖簾を垂らしている。店は狭苦しくて小さく、たしかにモノは美味しいが、もっぱらは地元の人間が飲食のために使う類の店だ。観光客や一見さんが入ってくるような店ではない。
「原作だと、駅前の本屋だったんだっけか」
「はい」
「ま、それよりは分かりやすいわな」
 慈郎は、あっさりと言ってのけた。マリエと洋介は顔を見合わせた。
「どういうことなんですか、慈郎先輩?」
 マリエが問いかけると、「ん」と慈郎はうなずいた。
「なんとも信じにくい理由もあるんだけど、まぁ、いちばん素直に言うと、つまり、その客は『いづな屋』の懇意だってことじゃないかって話だよ」
「えぇ? それって反則じゃないですか?」
 おもわず洋介が抗議の声を上げると、「しかたねえよー」と慈郎が答えた。
「だってさ、五十円玉を二十枚だぜ? しかも毎週だぜ? そんなうっとおしい客、普通の店だとどう見たって怪しいって。だいたい、他の土地柄ならともかく、このあたりだと商店街の人間ってのはみんな常連を覚えるんだ。だから途中で絶対に聞かれちまう。『なんでお客さん、毎週土曜日に両替に来るんですか?』ってね。……だいたい、若竹七海だって、本にするくらい、そのネタを不思議がってた」
 つまり、と慈郎は言う。
「あの客は、とにかく何らかの形で『いづな屋』の主人と親しい仲なんだよ。だから店員も何も言わずに両替するし、誰もそれを不思議がらない。お前らが気付くまでは、な」
「ウエイトレスさんは、なんにも教えてくれませんでしたけど」
「あれはウエイトレスじゃなくてあそこのオーナーの孫娘。尾崎トミノっつー珍しい名前の子だったかな。俺も通い詰めてるけど、昔っからあんまなんも言わない子だから、しかたないな。問い詰めて口を割らすのは不可能だと思うぜ」
 で、だ。と慈郎は言った。
「あそこの懇意っつーと、ある程度絞られるのよ」
「なんでですか?」
「……んー、まあ、そこはある程度おいとく。っつか説明しても信じてもらう自信ねぇし」
 慈郎は口を不可解に濁す。マリエを見るとなんとも微妙な顔をしていて、おかげで洋介は話をつっこみそこねる。慈郎はすぐに次の話に移ってしまう。
「ま、とにかく、かつ、地元の人間。五十円玉を二十枚ってことは、たぶん、相手は交通手段に金をかけてねえ。金をかけてまで来る距離だったら、そもそもそんなめんどくさいことはしないと思われる、と」
 あえて遠くに来てる、って選択肢もあるけど、と慈郎は言った。
「その場合、『なぜ地元で両替しないのか』っていう疑問がどうしても付きまとってくるね。あるいは遠くの人だとしても、50円玉を入手してる場所はこのあたりだと思ったほうがいい。だから、たぶん相手はここの近隣の人間だと思われる、と」
「……もしかして慈郎先輩、もう犯人の目星、付けてんですか?」
 マリエがそろりと聞くものだから、洋介は、仰天した。
「そうなんですか!?」
 話を聞いただけで分かってしまうなんて、本物の『名探偵』の部類だ。信じられない。けれども、そういわれている慈郎はというと、「うーん」などといいながらガリガリと頭をかいていた。
「ちょっと反則のオチだからさぁー。名探偵、っていうのはちょいと不味い」
「じゃあ、なんなんですか……?」
「強いていうなら、『榎木津礼二郎』ってとこかな……」
 榎木津礼二郎。京極シリーズ、という人気のある新本格推理に登場する探偵、というよりも超能力者だ。推理をせずに事件の真相を『視て』しまうというキャラクター設定は、精緻な作品世界が無ければ完全にファンタジーの部類である。不可解な発言に困惑する洋介に、「さて」と言って、慈郎は立ち上がった。壁の片隅に白い杖が立てかけられていることに洋介は気付く。
「じゃ、いっちょ皆で推理散歩に出かけますか」
 白杖を持った慈郎は、なれた手つきでストラップを手首に引っ掛けた。
「このあたりの地理は分かってるっけ、高見?」
「いやあ、ぜんぜん」
「じゃあ、地図がいるな。俺はわかってんだけど、いまいち説明する自信が無いのよ」
 聞き込みに行きますか。そう言って、にやりと慈郎は笑った。
「日本人ってのはね、いわゆる『消極的な』ボランティア精神ってヤツにあふれてるのよ。分かる?」
「……ハァ」
「相手が『障害者』だと思うと、あまり係わり合いになりたくないと思う一方で、過剰に親切にしないといけないと思う。それが平均的な日本人ってわけ。だから俺は聞き込みにはぴったりの要員ってことさ。白杖をもった人間に話を聞かれて答えないってのは、なんだか妙に居心地が悪い気持ちになるもんらしいからね。さあ、行きましょうか」
 飄々と慈郎は言う。洋介は思う。なんて喰えない人なんだろう。その台詞に、ここまで賞賛のニュアンスの入り込む人が居るなんて、いままで思ったことも無かった。
 そう思ってマリエを見ると、マリエはこっそりと笑って、嬉しそうに親指を指を立てた。



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