4.



 男はそれでもきっちりとカウンターで50円玉を千円札に換えた。少女はかたくなに口を引き結んで誰の顔も見ようとしなかった。店を出ると、真珠母色の雲が、まだらに空をいろどって、明るい光を降り注がせてくる。
 男はうつむいたまま、早足に歩いていく。三人は後を付いていく。洋介には訳が分からない。マリエの顔を見て、慈郎の顔を見る。慈郎は見えない目で、まっすぐに男の後姿を見ていた。
 付いていくのには若干骨が折れた。それでも三人は商店街を横切り、古い町並みを通り過ぎて、ふたたび、さきほどの稲荷神社へと戻ってくる。神社からあと数十メートル、というところで男が立ち止まり、「すいませんが」と言った。
「ここで待っていてや、くれませんかね」
 しゃがれた声だった。どことなく古風な言い回し。
「アタシぁちょいと正体を知られたくないんでさ。兄さんがたには、後できちんとお相手をいたしやす」
「わかったよ」
「いたみいりやす」
 男は、そのまま境内へと歩いていく。三人は…… 正確には二人は、その後姿を、なんともいえず、複雑な顔で見送った。
「どういうことなんですか、慈郎先輩?」
 耐え切れず、先に口火を切ったのは、洋介のほうだった。
「お稲荷さんって……」
「正確には違う。っていうか、正直ブラフだったんだけどな」
「どういうことです?」
 眉を寄せる洋介に、慈郎は、うっすらと微苦笑を浮かべた。
「信じるか信じないかは任せるよ」
 軽く後ろを手探りする慈郎に、洋介は、腰掛けたいのだろうと察した。軽く手を貸してそのあたりの石に座らせる。マリエも長いスカートをたたんだ。洋介も日のあたって温かい石に腰掛ける。
「……大島弓子の『夏の夜の獏』ってマンガ、知ってるか? 高野文子の『田辺のつる』でもいいけど」
 どちらも知らない。洋介は首を横に振る。気配を察したのだろう。慈郎はへらりと笑う。
「基礎教養だぞ。どっちも読んどけ。高見が持ってるから」
「ダメですよ、慈郎先輩。だって洋介くんが好きなマンガって、最近だったら『ワンピース』とか、『PLUTO』とかだし」
「健全だなあ」
 半ばあきれたような声。洋介はぶうと頬を膨らませるが、マリエは可笑しそうにくすりと笑っただけだった。
「ま、それはいい。どっちのマンガも同じテーマでなあ、ようするに、人間が『精神年齢』で書かれてる、っていう技法を使ったマンガなんだわ」
 慈郎は杖を手首に引っ掛けたまま、膝に頬杖を付いた。
「痴呆老人がかあいらしい5・6歳の女の子に見えたり、あるいは小学生が20の青年に見えたりな」
「それが、何か……」
「俺、それなんだわ」
 あまりに唐突に言われたので、洋介はその意味を図りかねた。
「……え?」
「人間…… いや、人間以外もそうなんだけど、本性っぽいもんしか見えなくなっちまったんだ。小説っぽいカッコいい言い方で言うと、『心の姿を見る目』ってとこ?」
 こんな目になってからな、と慈郎は自分の目を押さえた。まっすぐに前を見たまま、ほとんど眼球を動かさない眼を。
「信じても信じなくてもいいし、ぶっちゃけ、俺もはっきり言うと信じられない。でも、俺には、80過ぎのご老人が15・6歳の可愛い女の子にしか見えないし、そうとしか思えない、っていうことが実際にあったりするんだ。……そうなってから外を出歩いたりすると、世の中、以外に人間だけが暮らしてるんじゃねぇんだなあ、って気がしてきてなあ」
 信じるかい? そう言って、慈郎は洋介を見た。見たつもりだったのだろう。視線は若干ずれていた。目線は動きもしなかった。
 洋介は返事に窮し、マリエを見る。だが、マリエは笑いもしない。普段ならばいわゆる『トンデモ』に対しては厳しい発言をするたぐいの人間であるはずのマリエが、今回に限っては懐疑的なコメントの一つもさしはさまない。
「……マリエ先輩は、どう思うんですか?」
「んー、あたしは、慈郎先輩の言うことだから、信じようかなって言うスタンスかな」
 マリエの口調は、普段と同じくしゃれめかしていたが、はっきりとしていた。
「あたしは自分が見たものは、信じることにしてるからね」
「……」
 マリエの返事に、洋介は言葉を失う。
 ……やがて、神社のほうから、さきほどの男が戻ってきた。
 洋介はつくづくと男を見つめた。ただの男だ。どことなくホームレス風とでもいうのか、みすぼらしい服装の、これといって目立つところの無い男だった。切れ長な目が狐目だということはあるが、それとて『人間らしくない』というレベルのものでは決して無い。
 男もまた、さも、不思議そうに三人の事を見る。
「お兄いさんたち、なんでアタシのことがお分かりになったんで?」
「いや、まあ、ホント言うとまだわかっちゃないんですけど」
 慈郎は明るい口調で言う。手を、すっと差し出した。男の前へ。
「とりあえず確証が欲しいんで、手を貸してもらえます?」
 男は困ったようにマリエや洋介を見るが、やがて、ためらいがちに手を出した。その手をきゅっと握った慈郎は、「ああ」とうっすらと笑みを浮かべる。
「うん、この毛並み、この爪、たしかに『化け狐』だ」
「……!?」
「『いづな屋』のあのお嬢さんも、狐ですよね? それも、あの子は半狐というか、半分は人の血が入ってるんじゃないかと思ってるんですけど」
 男は目をむいてしばらく慈郎を見ていた。けれどやがて、なんともいえずなさけのない笑みを浮かべて、「お兄いさんには適わねえや」とつぶやいた。
「一体何者なんですかィ、お兄いさん? アンタ、飯綱使いか、それとも、陰陽師の類ですかィ」
「いや、俺はただの人間ですよ。ちっとばかり、普通と違う意味で『目がいい』だけの、ね」
 男はしばらく黙って慈郎を見ていた。やがて、ぼそりと呟いた。
「だったら、お兄いさんに、見てもらいてぇヤツがおりやすんですが」
「……うん?」
 あの上でさあ、と男は言った。
 鳥居が連なり、トンネルのようになった道。その頂上。
「今、あそこにいやす。あいつを見てやってはくれやせんかねぇ…… あいつが、ほんとうに」
 きちんと人間でいられるているのか、と男はつぶやいた。




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