5.




 慈郎は、一人で、階段を登った。
 視力を失ってから一年と数ヶ月。中途失明者としても、決して長い期間ではない。その大半を家に引きこもって暮らしてきたのだからなおさらだ。足元に感じる石段が、苔ですべる。転んだらただじゃすまないな、と思う。……思った瞬間、誰かが、急に手を掴んだ。
「!?」
 声をかけられずに身体に触られると、ぎょっとする。
「な、な」
「大丈夫か?」
 無愛想な声がした。
「へ、あ、あの」
「気をつけろ。滑りやすいから」
 ……大きな、手。
 慈郎は素直にまねきに答えることにする。男だろう。たぶんそうだと思う。手を引かれて石段を登っていく。分厚い、力強い手。
 いくつぐらいだろうか――― と慈郎は思う。この点に関して、自分が信頼できないということは重々承知していた。ただ男の手は力強く、また、頑強だった。そして、と慈郎は思う。
 とても人間とは思えないような、三日月のようにとがった爪。
 何者だろう。人間だろう、と慈郎は思う。けれどこの手は人間のものではない。その事実を慈郎は当たり前のように、けれど、わずかに哀しい思いで受け止める。
 人間でありながら、『ひと』をやめてしまう存在というのは…… 存外に、多いものなのだ。





「あいつと会ったのは、もう、一年ばっかし前でしてねェ」
 神社の境内からいくらか離れて、石段のあたり。
 座り込んだ男が、ぽつり、ぽつりと語る。マリエと洋介は黙って聞いている。
「まあ、手遊びだったんでしょうさ。アタシの暮らしてるあの神社の境内にやってきましてね、まあ、泥だらけでこ汚くて、なんだろうねェこいつは、と思いましたよ」
 けれど彼は、そのとき、倒れている狐の石像に、目を留めたのだ。
 何を目的にしているのかは分からなかった。けれど、彼は木切れをてこにつかって石像を起こし、泥を落として、周りの草をきれいにむしっていった。その日はそれきりだった。それだけだろうと思っていた。けれども彼は、その翌日にも現れたのだ。
 草をむしり、ぼろ布でお社をきれいに掃除をして、落ちているゴミを拾ってくれた。雨の日にはお社の軒下に座り、ぼんやりと雨を眺めていた。男はやがて悟った。彼にはほかに行く場所が無いのだろう、と。
 ……そして、彼に、話しかけたのだ。
 何十年か、何百年かぶりに、人の姿になって。
「ヤツぁ毎日のようにここに現れやしてねェ、草を毟ったりゴミを拾ったりなんだり、まあ、いろいろとやってくれる。アタシも正直寂しかったから、うれしかったですよ。でも、アタシはあくまで稲荷様のお使いであって神様でもなんでもない、あいつになんにもしちゃあやれなかった。でも怖かった。あいつがある日いきなり飽きて、ここに来なくなっちまったら…… そいつァ寂しい、耐え切れないくらい寂しいってモンです」
 ほんの数年でいいんだ、と男は呟いた。
「あいつに居場所を用意してやりたかったし、アタシは友達が欲しかった。だからあいつに持ちかけたんですよ。こういう風にがんばってりゃあ、神様がよろこんで、きっとなんかを恵んでくださるだろうよって。……まぁ、実際のところはアタシがあいつのために金を準備してるんですがねェ。でも、いちおうはあれは『神様からもらうお金』なんですわ。そういう約束で、あたしはあいつにバイトをさせてるんです」
 ああ、とマリエが声を漏らした。
「それが、千円?」
「ええ。お恥ずかしい、正直な話、毎週定額で支払うには、アタシにゃ千円が精一杯なんですよ。あちらこちらの稲荷様のお社からお賽銭をかき集めてねえ。もう意地ですよ。50円玉を20枚。そのまま渡しゃ賽銭ドロボウと勘違いされかねねえが、千円に換えりゃあ疑われない。そんでもって、それだけあつめりゃ、あいつを止めていられる、ってね」
 男はガリガリと頭をかいた。
「いやしかし、そんなことを見咎められるとは思わなんだ。『いづな屋』のじいさんや孫もアタシとおなじ化け狐ですからね。あそこなら誰もいぶかしまずに換金をしてくれると思っていたのに、お兄いさんたちみたいな方々に不思議に思われちまうとはねぇ」
 けれど、ふと疑問になる。洋介は問いかけた。
「でも、なんで土曜日なんですか?」
 男はなんとも言えず、哀しそうに苦笑した。
「……土日は、『給食』がありやせんから」
 どういう意味かと思いかけたとき、ふと、気付く。石段を慈郎が下ってくる。
 苔むした石段に、足取りがいかにも危なっかしい。それを支えているのは、おそらく、10やそこらと思しい、痩せた少年だった。
 洗いすぎてごわごわした生地のTシャツ、安手のコットンのパンツ。履いているものはかかとを履きつぶしたスニーカーで、ぼさぼさの髪に、目ばかりが酷く強い印象だった。それが、慈郎の腕をささえて、慎重に石段を降りてくる。
 降りてきた少年は、マリエや洋介を見て、いぶかしげな顔をした。警戒の色が濃い。野良犬のような子だ、と洋介は思った。少年は言った。子どもにしては低い声。
「なんだ、お前ら」
「俺の友達だよ。ありがとう」
 慈郎は少年の肩を軽く叩き、離れた。そして洋介の伸ばした手を取る。
 少年はぐるりと周りを見回し、それから、男を見た。若干唇がゆるんだようだった。そして、それがその少年の微笑なのだった。
「なにやってんだ、おっさん」
「いやぁ、このお兄いさんたちに捕まっちまったんだよゥ。……そんで、今週は、神さんはどうだって?」
 少年はかるく肩をすくめた。首肯するにも等しい、それが、返事だった。



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