3.

 ごおおおおん、と音が響いた。
「では、お気をつけて」
「はい」
 乃々介の後ろで、鍵を持った警備官が言う。乃々介の後ろで再びドアを閉める。鉄格子のドアが閉められると、コンクリートの通路に、大きな音が響き渡る。
 地下に続くコンクリートの通路は、薄暗く、冷たい。ここは地下の何階になるのだろうか。いくつもの隔壁に厳重に閉じられた、長い階段を下った先にある場所だ。
 薄暗い通路を、天井の蛍光灯が照らしていた。切れかけた明かりが小さな音を立てていた。歩いていく乃々介の足音が、かつん、かつん、と大きく響く。
 ―――やがて。
 目の前に現れた最後のドアを開くと、そこには、小さな部屋があった。この長い通路を通ってきたということを考えると、拍子抜けをするくらい狭い部屋だった。そこの中心に、誰かがうずくまっている。鉄の鎖で何重にも戒められて、硬いベットの上に座っている。
「……乃々介か」
 低く掠れ、枯れた声がした。
 乃々介は、わずかに、眼を細めた。
「相変わらず餓えているようだな、乃々介よ。痩せ枯れて、まるで、木乃伊のようではないか」
 くくく、と低い笑い声が聞こえた。うずくまる闇の中から。乃々介が黙っていると、『それ』は、緩慢な動作で眼を上げる。
 金色の目が、闇に、光った。
 ―――そこにうずくまっていたのは、まるで、骸骨の上に皮だけを貼り付けたような、独りの男だ。
 男、というのは正しいのだろうか。乱れ縺れて、外套のように体を覆った髪の間から、短い二本の角がのぞいている。その男の腕はその先端が失われていた。かつて鉤爪を備え、その一振りで鋼すらも打ち砕いた腕は、今では切り取られ、すりこぎのような形の名残を残しているばかりだ。

 ……『それ』は、名を、九爪丸という。

「まだ生きているんですね、九爪丸」
「これを、生きていると言えると思うか?」
 九爪丸は低く笑い、身じろぎをした。じゃらり、と重く鎖が鳴った。
「腹が減って、腹が減って、たまらぬわ。内臓が互いに食い合って、腹の中が空になってしまったかのようぞ」
 ……わずかに眼を上げると、蓬髪の間で、金の眼が光った。
「それは己も同じであろうよ、乃々介よ」
「……」
 乃々介は、答えなかった。くく、と九爪丸は笑う。
「食いたやのう。水気たっぷりの若い女の腿が食いたい。孕み女の腹を割いて、引きずり出した赤子を喰らいたい。若い男の目玉をくじりだして、飴玉のようにしゃぶったら、どれだけ美味なことかと思うと…… ひもじくて眠ることすらもできぬわ」
「まだ、そんなことを言っているのですね、あなたは」
 乃々介は無感情に言った。九爪丸は、奇妙な笑いの発作に、小刻みに体を振るわせ続けていた。
「何を言うぞ、乃々介よ。うぬも人喰いであろうに…… それに、うぬからは、若い雌の匂いがするわ」
 九爪丸は、じゃらり、と鎖を鳴らした。緩慢な動作でベットから起き上がる。ゆっくりと歩いてくる。乃々介は表情ひとつ動かさなかった。
 鉄格子に顔を押し付けた九爪丸は、鼻をうごめかせた。
「ああ、甘い…… 甘いのう。やわらかくて水気たっぷりの雌の匂いぞ。食いたやのう」
「奈子さんは、僕のたいせつな友人です」
 乃々介は無感情に言った。
「僕は貴方とは違う。友人を食べたりはしない」
「嘘吐きめ」
 九爪丸は嘲笑った。
「うぬはうぬが育てた餓鬼を食い、そのまた餓鬼を喰らって、生き延びてきたのだろうが。周到な遣り口よの。俺にもうぬがような知恵があれば、このようなところにとらわれることも無かったものを」
 乃々介は答えなかった。薄暗い通路で、切れ掛かった蛍光灯だけが、かすかに音を立てていた。
 落ち窪んだ眼窩のなかで、金色の目だけが爛々と光っている。切り取られた腕を振り、悪態をはき続ける九爪丸は、ほとんど、骸骨に皮を貼り付けただけも同然の姿に痩せこけている。ここに閉じ込められて、もう、50年近い年月が過ぎている。その間、九爪丸は、一口の食物も、水も、口にしてはいないのだから。
 ―――九爪丸は、明治の闇に暗躍した人喰いだった。
 闇に乗じて子どもをさらい、若い女を襲った。子どもの腹を割いてはらわたを引きずり出し、女の頭蓋を割って脳を啜る手口の残虐さに、警察に追われ、捕らえられたのが、戦後もまだ間もないころだったか。それ以来ずっと、九爪丸は、こうして地下に幽閉されている。
 それでも九爪丸が殺されないのは、『特殊指定生物』は、みだりに殺してはいけないという決まりがあるからだ。まして、『人を喰う』という性格から人に追われ狩り立てられた人喰いは、時代がさかのぼっていくにつれて、数を減らしていったものだったから。今では両手の指で数えることが出来る程度しか生き残ってはいないこの国の人喰いは、今では、研究材料として貴重に保護されるべきでもある、という非常に矛盾した存在となっているのだから。
「うぬが移り香の雌も、いずれはうぬが喰らうのであろうよ。うらやましやのう。柔らかな肉の雌を、喰らいたやのう」
「……奈子さんが、僕に食べられるかどうかは、僕が決めることではありません」
 乃々介は、ため息をついた。
 九爪丸は、乃々介にとっては、残された数少ない知り合いだった。知り合いだったから――― 時折、こうして尋ねて来てもいるのだが。
「主はほんに意気地のない男よ」
 九爪丸は哂う。
「人を飼うは楽しいか。慣れおうた人間の肉は美味いか」
「僕は…… そんなつもりは……」
「ない、とは言えぬであろう?」
 九爪丸は、くつくつと、可笑しそうにあざ笑う。声には愉悦の調子があった。
「主が人の子を拾うて来たときには驚いたものよ。やせこけた餓鬼の骨でもしゃぶるものかと思うたがの」
「……」
 違う、とはいえなかった。
 思い出す。もう、何百年も昔。
 乃々介は、たわむれに人の子を拾った。
 痩せこけた子ども。今でも思い出す。喰らうつもりで拾ったのではない、というと嘘になる。痩せてて不味そうだったから、太らせてからたべようと思ったのだ。けれども。
「喰ってしまえばよかったのだ」
 九爪丸は、独り言のように言った。
「あれを喰っていれば、貴様も……」
 乃々介は、短く、思い出した。九爪丸と共に合ったことのころを。
 人を狩る。人を喰う。『人喰い』としての生。忘れたわけではない。甘い血と肉の味。獲物を狩り立てるときのあの興奮。けれども。
 ……埒もない思いを無理やりに打ち切って、乃々介は、短く、ため息をついた。
「僕はもう行きます。貴方も―――」
 息災で、とは言えなかった。九爪丸は、これからもこうして地下に幽閉され続けるのだから。人喰いの強靭な生命の尽きるまで。飢えがその命を奪うまで。おそらくは…… 少なくとも、あと数十年は。
 乃々介は無言で踵を返した。背後では九爪丸がけたたましく笑い出す。もう、半ば気がふれているのか。笑い声は狭いコンクリートの通路に反響した。
 鉄格子のところまで戻ると、そこで待っていた所員が、無言で鉄格子を開け、また、閉じた。
「無事でしたか」
「はい」
 所員と共に、乃々介は、エレベーターに乗り込んだ。
 この地下には、九爪丸のほかにも、人に危害を及ぼす可能性のある、危険な特殊指定生物が幽閉されている。ときおり、奇妙な叫び声や、笑い声、悲鳴が聞こえてきた。閉じ込められたものたちの声だろう。
 所員は、乃々介からも、微妙に距離を置いていた。腰のスタンガンに当てた手をずらそうとはしない。警戒しているのだろう――― 乃々介が、『人喰い』だから。
 エレベーターを降りると、窓から日光が差し込んだ。
 目の前に現れるのは、平凡なリノリウムの廊下。傍らからは日光が差し込んでいる。地下の冷気とは打って変った気温の高さ。安堵ともなんとも知れない、ため息が漏れた。
「……九爪丸を、お願いします」
 乃々介が言うと、所員は、黙ってこちらを見た。
「はい」
 事務的な返事。乃々介は――― ふたたび、ひっそりと、ため息をついた。







「あ、ののっち」
 ベンチでコーラを飲んでいた奈子は、乃々介が戻ってきたことに気づいて、振り返り、手を振った。
「ああ、すいません。お待たせしました」
「なにやってたの? うん、あたしねー、この所内を案内してもらったのー」
 いろいろ珍しいものが見れたよー、と笑う奈子に、乃々介も笑った。「すいません面倒をかけて」と傍らの男に頭を下げる。
「いえいえ」と男は笑った。
「こんな場所に来る人はめずらしいですからね、私のほうもいろいろと新鮮な発見がありましたよ。……奈子ちゃん、将来はここに勤めないかい?」
「えええ」
 奈子は口を尖らせ、男は笑った。乃々介も笑った。なぜだか、ほっとしたように。




back next
top