4.


 親切な男に礼を言うと、タクシーを呼んで研究所を離れた。駅前に出ると丁度昼過ぎだったから、昼食をとろうかという話になった。
 駅前には噴水があって、犬を連れた老人が、鳩に餌をやっていた。駅のレストランの二階からよく見える。奈子はカレーライスを頼み、乃々介はオレンジジュースを注文した。
「ののっち、誰にあってきたの?」
「知り合いですよ…… とても、古い知り合いです」
「ふうん……」
 奈子は、カレーのさじを咥えたまま、ぼんやりと、乃々介を見た。
 ぼさぼさの髪。栄養失調のような顔色の悪さ。こげ茶色の着流しの肩。
 ごくん、とカレーを飲み込むと、奈子は、問いかけた。
「その知り合いって、人喰い?」
 乃々介は一瞬黙った。……にこり、と笑った。
「そうですよ」
「ふうん」
 乃々介はそれきり何も言わなかった。だから奈子も黙ってスプーンを口に運ぶ。レストランの二階の窓から、鳩がいっせいに飛び立つのが見えた。老人は犬を連れて歩き出した。
 甘いカレーを食べながら、奈子は、頭の中で考える。人喰いについて。……人を喰らうという、化け物について。
 『人喰い』という生き物について、奈子が知っていることは、とても少ない。
 彼らは人を喰わなければ生きていけないのだという。そうして、人間には想像も付かないような長い時間を、元の姿のままですごす。奈子の家のアルバムには、奈子の祖父母の結婚式にも、父の幼少時にも、今とまったく同じ姿で写っている乃々介の姿がある。そんな古い写真の中でも、乃々介は、今と同じ、ひょろりとやせた青年のすがたのままだ。
 ―――そして、乃々介は、奈子の母親を食べたのだという話を、聞いたことがある。
 奈子の母親は、奈子が生まれたときに死んでいる。難産のせいだという話だった。けれど、それとは違う話…… 噂話で聞いたのだ。奈子の母親は、乃々介に食べられてしまったのだと。
 顔も知らない母親のことを恋しがることは難しい。だから、奈子は、母親の死の真相について、そんなに詳しい興味を持ったことは無い。けれど、今日、初めて気に掛かった。……奈子の母親は、乃々介に食われてしまったのだろうか、と。
 陶器の皿にスプーンをおろすと、チン、と小さな音がした。
「ねえ、ののっち」
 乃々介は振り返った。
「なんですか?」
 ……奈子は、思い切って、問いかけた。
「ののっちはさ…… あたしのお母さんを、食べちゃったの?」
 乃々介は、しばらく、黙った。
 沈黙の後、乃々介は、すこし笑った。途方に暮れたような笑みだった。
「……ええ、いただきました」
 奈子は、一瞬、息を止めた。
「どうして?」
「佳也子さんが…… 食べてください、と言ったからです」
 佳也子。奈子の母親の名。どういうことなのだろう。奈子は黙り込んだ。乃々介は、ジュースの最後の一口を飲むと、立ち上がった。
「出ましょうか」
 そして、少し笑った。
「次の目的地までは、電車ですこしかかりますから。……その間に、お話しますよ」





 東京駅で乗り換えた電車は、各駅停車のローカル線で、客の姿もさほど多くは無かった。窓からは初夏の日差しが降り注ぎ、光の四角を落としていた。ごとん、ごとん、という規則正しい音。乃々介は、穏やかな表情で、少しだけ、うつむいていた。
「僕はもともと井戸道の家の人たちと一緒に暮らしていました。……知ってますね?」
「うん」
「そこに、多朗さんのお嫁さんにきてくれたのが、佳也子さんだったんですよ」
 奈子は、写真を思い出した。
 小柄な、まるで小学生みたいな人だった。大学時代の父の隣で笑っている写真を見たことがあった。ウエーブのかかったやわらかそうな髪を流して、白いワンピースを着ていた。手に持っていたのはバスケットだった。どこかにピクニックにいったときの写真だった。
「佳也子さんは、僕が、人喰いだということを知らなかったんです。……最初は」
 乃々介は、ぽつり、ぽつりと、穏やかな口調で語った。
 佳也子に、乃々介が人喰いだということを話すまでに、父の多朗がどれだけ苦心したかということ。多朗はずっと、誰にであっても、乃々介が人喰いであるということは隠していたから。けれど、ついに思い切ってそれを告げたとき、佳也子が、どんな反応をしたのか。
「佳也子さん、なんて言ったと思いますか? ……『おなかが空きませんか?』って言ったんですよ」
 奈子はなんと返事をしたらいいのか分からなかった。乃々介はさも可笑しそうにくすくすと笑う。たしかに、奇妙な答えだ。
「『おなかは空いてます』って答えたら、『私を食べたいと思いますか?』って聞かれたんです。で、僕が、『多朗くんのお友達は食べられません』って答えたら、『なら、私たち、お友達になれますね』って佳也子さんは言ったんです」
 佳也子は、実に柔軟な心の持ち主だったのだ。
「……ののっち、『人喰い』だから嫌われたことって、あるの」
「……そうですねえ……」
 乃々介は、困ったように笑った。
「だれも、食べられたい、なんて思いませんからね」
 それでも、佳也子は、多朗と結婚して、井戸道の家の嫁になった。一人目の実子を産み、二人目の奈子を身ごもるまでは、幸せに暮らしていたのだ。
「おかあさん、あたしを産んだせいで、死んだの」
「……とっても、むつかしいお産だったんです」
 体の小さな、華奢な佳也子にとっては、出産の負担は、あまりに大きなものだったのだろう。長い難産の末、奈子を産み落としたとき――― 佳也子は、もう、生きていくことが出来ないくらい、疲れきってしまっていたのだ。
 そして、佳也子は、言ったのだ。
 私のことを食べてください。そして……
「その分も、この子を、大切にしてあげてください、とね」
 奈子は黙った。
 思い出そうとした。顔を見たことも無い母親のことを。けれど、面影すらも思い出すことは出来なかった。だから、代わりに、聞いた。
「そういわれて、ののっち、どう思ったの」
 乃々介は、さみしそうに笑った。
「……ものすごい大変なことを頼まれた、と、思いましたよ」




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