5.
電車がたどり着いたのは、海に程近く、ほとんど県外に近いような駅だった。
電車を降りると、もう、半ば日が暮れかかっていた。藍色と紫がゆっくりと近づいてきて、空の色は白から茜、藍から青の描くグラデーションへと変わる。薄い雲が金色に光っていた。海辺は風が強く、防風林の向こうに、ゆっくりと日が暮れていく海が見えた。
駅を降りて少し歩くと、そこが、病院だった。
短く刈り込まれた芝生に、入院患者や、見舞いに来た客が、思い思いの様子でくつろいでいた。花壇にはまだ花の咲かない向日葵が揺れていた。
面会時間ギリギリだった。乃々介が受付で何かを言うと、看護婦に止められ、しばらくの間、二人は待合室で待たされた。
「ののっち、誰に会うの?」
奈子が問いかけると、乃々介は、不思議な微苦笑を浮かべた。
「……知り合いです。古い、古い知り合いです」
やがて、数人の医者と、看護婦が姿を現した。医者の一人が乃々介の前に立つ。着流しを来た、ぼさぼさの髪の乃々介を、上から下まで、検分するように眺め回した。
「……主治医の四辻です」
「乃々介です」
乃々介が立ち上がり、頭を下げても、医者は、会釈すら返さなかった。嫌な感じだ。奈子は思わず顔をしかめる。
「葛西さんは……」
「病室でお待ちです。どうぞ」
「あ、あの、あたしは?」
医者は、乃々介一人を連れて、さっさと行ってしまおうとする。奈子は慌てて立ち上がった。けれど、医者に冷たく言い放たれる。
「お連れの方は、待合室で待っていてください」
「ごめんなさい、奈子さん」
乃々介は、申し訳なさそうに言った。財布を取り出し、奈子にいくらかの小銭を手渡す。
「ジュースか何か飲んで…… しばらく待っていてください」
医者は、乃々介の回りを取り囲むようにして、連れて行ってしまう。奈子一人がぽつんと待合室に残される。しばし、奈子は、呆然とした。
「……なにそれっ!」
怒りに任せて床を蹴っ飛ばすと、近くを歩いていた松葉杖の患者が振り返る。奈子は、イライラのままに、大股で歩き出した。
ここまでつれてこられて、また、奈子一人が留守番だ。これではなんのために日曜日をつぶして付いてきたのかが分からないではないか。とはいえ、残されてしまってはすでにどうしようもない。しかたなく、奈子は、ちかくの自動販売機の側まで行く。
とはいえ、コーラはさっき飲んでしまったから、今ではあまり喉が渇いてもいない。仕方ない、売店でアイスでも買うか――― そう思ってきびすを返しかけたときだった。
「おい、お前」
唐突に、横から、声がかけられた。
振り返ると、そこにたっていたのは、奈子よりもいくつか年下だろう少年だった――― 少年はきつい目で奈子を睨みつけると、鋭い声で言う。
「お前、さっき、あの人喰いといっしょにいたやつだな?」
「ののっちのこと?」
少年は、ぎっと、奈子を睨みつけた。
「……わっ!?」
次の瞬間、奈子に向かって、何かが投げつけられてくる。本だった。あやうく顔の前で受け止めて、奈子は目を白黒させる。少年は怒鳴った。
「ばかやろう! 化け物! 消えろ!」
「ば、ばけもの…… って」
「ばーちゃんに近づくな!! さっさと帰れ!!」
何の話かさっぱり分からない。けれど、少年は、さらに何かを投げつけてくる。次はカバンだった。今度はよけきれずに肩に痛みが走った。奈子は慌てた。
「ば、ばけものって、何、ちょっと待っ」
「帰れよぉ―――っ! っつ!?」
言いかけた言葉が唐突に途切れる。いきなり、少年が、背後から襟首を掴まれたのだ。
「なっ」
「ばかやろう、翼、お客さんになにいってんだ!」
奈子は本をもったまま目を瞬いた。少年の後ろに、いつの間にか、知らない男が立っている――― 老人だ。
なおも少年はぎゃあぎゃあと怒鳴っていたが、老人の拳がごつんと頭に当たると、とたんに大人しくなる。奈子はそんな様子を半ば呆然と見ていた。少年をようやく黙らせて、男は、奈子に向かい合った。
「いやあ、孫が煩くてすまねえな。……お嬢ちゃんは、乃々介の知り合いかい」
「え、はい…… ええ?」
「おお、なるほど」
にんまり、と老人は笑った。奇妙に人懐こい笑顔だった。
「そうか、そうか。……お嬢ちゃん、アイスクリームでも食べるかい?」
病院の外のベンチに座ると、遠く、潮騒の音が聞こえた。
日が沈みかけて、空は藍色だ。そろそろ面会時間も終わるころだからだろう。面会客の姿も減り、広い庭は静かになり始めていた。
奈子が買ってもらったのはイチゴのアイスクリームだった。バニラのほうを買ってもらった少年は、ふてくされた顔のままだ。ちらちらとそちらをうかがっていると、チョコレートのアイスをつついていた老人が言う。
「お嬢ちゃんは、乃々介ン家の子かい」
「あ、うん。いっしょに暮らしてる」
「そうかあ。じゃあ、多朗くんは元気かい。たまに本も出してるみたいだけれど」
「うん、元気だよ。あいかわらず締め切りでヒィヒィ言ってる」
老人は声を出して笑った。奈子の頭をぐりぐりと撫でる。
「そうか、そうか。お嬢ちゃんは多朗くんに似てるな。女の子はお父さんに似るって言うもんなあ」
「帰れよ、ブス」
老人の向こうで、少年が、また、悪態をついた。
「翼!」
老人は拳を振り上げた。少年はぎゅっと目を閉じる。だが、口は閉じない。憎憎しげな調子で言葉を吐き出す。
「疫病神! 死神! だってお前ら、ばあちゃんを喰いにきたんだろう!!」
奈子は、はっとした。
少年はアイスに手をつけていなかった。膝の上で握り締められた指の関節が、力がこもりすぎて白い。うつむいた目がどうしようもない力でつま先を睨みつけていた。奈子は悟った。
……なぜ、乃々介が、この病院に来たのか。
「あの……」
老人は、にこりと笑った。
「お嬢ちゃん、なんて名前なんだい」
「……奈子」
「そうか。奈子ちゃんは佳也子ちゃんにも似てるな」
奈子はうつむいた。自分の膝の上の、食べかけのアイスを見下ろした。
なぜ、乃々介が、この病院に来たのか。
この人たちは、乃々介の、いったい、なんなのか。
「……おじいちゃんは、ののっち、じゃなくて、……」
「乃々介の、古い、古い知り合いだ」
老人はくれていく空を見上げた。
「大昔、まだ、俺らが子どものころに、乃々介の世話になったことがあるのさ。ずいぶん昔だ。奈子ちゃんには想像もつかねぇだろうな」
奈子は黙った。老人は懐かしそうに言う。
「あのころは食うもんもなにも無くってなあ。俺らには親もなかったし、このままだと野垂れ死ぬしかないって思ったよ。そういうときに、乃々介が、助けてくれたのさ」
―――あのころは、国中が、貧しかった。
子どもは、飢えや病気で簡単に死んだ。悪い大人の食い物にされる子どももいた。
そして、当時の、老人も。
「悪いことしちゃあいたが、それでも食ってくにはかつかつだった。あのままだったらゴロツキに殺されるのがオチだっただろうな。そんなところに声をかけてくれたのが乃々介だったんだ」
……大丈夫ですか?
おなかが空いてるんですか。だったら、僕の家に来るといい。
おなかいっぱいとは言えないけど、少しぐらいだったら食べさせてあげることもできますよ。
老人は懐から煙草を取り出すと、火をつける。奈子は黙っていた。
「それから、どれくらい世話になったかなァ。ばあさんも俺とおんなじように乃々介の世話になって飯食ってたんだ。でも、そのうち板金工の仕事覚えて、独立して…… まあ、それからはいろいろだわな」
老人は煙を吐いた。
「あれからずいぶん時間はたったが、乃々介の恩を忘れたことはいっぺんもねぇよ。なんつっても、命の恩人だからな」
「……だから、ののっちに、食べられてあげるの?」
老人は奈子を見る。灰が落ちそうになる。
奈子は、うつむいたまま、押し殺した声で言った。
「もしかして、おじいさんの奥さん、ののっちに食べられてあげるって…… そう言ったんじゃない?」
老人は奈子を見た。……やがて、笑った。
「よくわかったな」
「わかるよ」
老人の向こうでは、少年が、黙り込んでいた。膝の上でアイスが溶けていく。それにも気づかないように、ただ、うつむいて。
「……俺の連れ合いは、もう、長かねぇんだ」
老人は、やがて、言った。奇妙な微苦笑を浮かべながら。
「脳に腫瘍が出来て、手術するのも難しいって言われてる。成功してももって一年だ。そしたら、あいつ、言いやがった。……だったら、あたしは、乃々介に食べられてあげたい、ってな」
「でも、食べられたら、死んじゃうんだよ?」
「分かってらぁ。……俺は、乃々介が、佳也子さんを食ったときのこと、知ってるからな」
奈子は、弾かれたように顔を上げた。
まじまじと老人の顔を見る。老人は少し笑った。
「葬式のときに見たんだ。あいつのことをな。……ごめんなさい、ごめんなさい、って泣いてたよ。人を喰わないと餓えて死ぬくせにな」
老人は、大きく、煙を吐き出した。
「あいつは、そういうヤツなんだよ」
乃々介は、しばらくすると、病院を出てきた。お待たせしました、といってやってくる。そして、老人の姿を見て、目を丸くした。
「お待たせしました、奈子さん…… あれ、宗次さんですか?」
「ひさしぶりだァなあ、乃々介」
老人は肩越しに振り返り、ぶらぶらと手を振る。乃々介は、嬉しそうな、驚いたような顔をして…… それから、老人の隣に座っている少年を見て、目を瞬いた。
「あれ、もしかして、宗次さんのお孫さんですか?」
「ああ、翼ってんだ。……あ、こら!」
少年は、何も言わずに、ぱっと立ち上がると、走っていってしまう。老人は苦々しい表情でその後姿を見つめていた。乃々介は目を細め、思いの分からない表情で、それを見送った。
「ったく、礼儀のなってねぇ孫で…… 悪いな」
「いえ。……道さんに会ってきました」
「なんつってた?」
「元気そうでしたよ。いろいろ、思い出話をしてきました」
「そうかぁ」
老人は照れくさそうに笑った。……それから、聞いた。
「で、どうなった」
「……一ヵ月後はどうか、という話になりました」
「そうか」
「それまで、いろんなところにいって、いろんな人と、お別れをしておいてください。……後悔の無いように」
「わかった」
老人は、よっこらしょ、と立ち上がった。そうして乃々介の前にたつと、まぶしそうに見上げる。
「あんたァ、変わらねえなあ」
「ええ」
乃々介は微苦笑を浮かべた。何も言わなかった。老人は最後に奈子をみた。頭の上に、ぽん、と手を置いた。
「じゃあ、元気でな、お嬢ちゃん。……多朗や姉ちゃんにも、よろしくいっといてくれや」
「……うん」
奈子はためらいながら頷いた。老人はまた笑った。
「じゃあな、乃々介。また一ヵ月後にな」
「ええ、さようなら」
老人は、最後にもう一度だけ、まぶしそうに二人を見ると――― 踵を返す。孫の走り去っていった方向へと、ゆっくりと歩いていく。海にはもう日が暮れていた。空は藍色だった。その後姿を、奈子と乃々介は、見送った。
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