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帰りに乗り換えの駅の肉屋でコロッケを買った。家に帰るともう外は真っ暗になっていた。ぽつぽつと街灯の灯った道を急いで帰り、家に帰ると乃々介は、「ただいま帰りましたー!」と玄関で大声で怒鳴った。 「ああ、おかえり……」 二階からのっそりと顔を出したのは父の多朗だった。筆が詰まっていたのか、表情がさえない。そんな多朗の顔に慌てて靴を脱ぎ、「今すぐ晩御飯を作りますから」と、乃々介は台所に走っていく。 奈子は、のろのろと靴を脱いだ。父は、そんな奈子を黙って見下ろした。やがて一言、「どうだった?」と聞いた。 「うん……」 奈子は、あいまいに答えた。 他に、答えが、見つからなかったのだ。 夕食は豆腐の味噌汁とかにたま、それに、白菜のおひたしに、買ってきたコロッケだった。姉の実子はまだ帰ってこない。食後にほうじ茶を飲んだころ、ようやく、電話がかかってきて、塾で遅くなると連絡があった。 奈子は、今の卓にノートを広げたまま、何を書いたらいいのか分からずにいる。ただいたずらにシャープペンシルを転がしてため息をついた。本当は作文は得意なほうのはずなのに。調子が出ない。それ以前に、何を書いたらいいのか、途方に暮れるような気持ちだった。 つけっぱなしのテレビで、フィギュアスケートの大会を放映していた。乃々介は台所で皿を洗っている。居間から、割烹着を来た痩せた後姿が見えた。ちいさな鼻歌が聞こえてくる。奈子は知らないような、とても、古い古い曲――― 「奈子」 ふと、かたわらから、声がした。父だった。 黒ぶちのメガネをかけた父は、人懐っこく笑った。「柿、剥くか?」と言った。 やわらかくなりかけた柿を、縁台で父が剥いてくれた。庭からは空が見える。奈子の家は山に挟まれた長谷にある。卵色の月が空に浮かんでいた。 「パパ、原稿、進んだ?」 「いーや、いまいちだった。……仕方ないから、今日は、鎌倉のほうまでうろうろしにいったりしていたよ」 「原稿が止まるたびに仏像見に行くのやめなよ。だったら携帯買えばいいのに。編集さんに怒られるよ」 「奈子や実子が怒ってくれるから、べつにいいんだ」 子どもの言い訳のようなことを言う。奈子はため息をついて、笑った。剥いて板の上におかれた柿をひとつ口に運んだ。 熟した柿はやわらかく、甘く、ゼリーのような舌触りがする。背中から、乃々介が皿を洗う水音が聞こえてくる。柿をほおばってる奈子に、父は、なにげない口調で言った。 「……今日は、誰に会いにいったんだ?」 奈子は、黙って、柿を飲み下した。 「……くそうまる、って人と、道さん、っていう人」 「そうか」 父はどちらも知っているのか、と奈子はぼんやりと思った。 「会ったことあるの?」 「いや、九爪丸は、無い。道さんには昔可愛がってもらったよ」 ―――奈子は、どちらにも、会わなかった。 「その人の旦那さんだって人と、孫だっていう翼くんっていう子に会ったよ」 「そうかあ。翼くん、いくつになった」 「わかんない。二年生くらい」 「そうかあ」 父はおだやかに笑った。柿を剥いた。奈子は、黙ったまま、もうひとつの柿に手を伸ばした。 甘くて美味しい柿。今日の夕食もなかなか美味しかった。鎌倉で買ってきたカニクリームコロッケは、奈子にとっても、父にとっても好物だった。けれど、乃々介は、一口も口にすることは無い。 乃々介が食べるのは、お茶か、そうでなければ具の無い汁物だけだ。奈子はいままで乃々介が何かを食べるところを見たことが無い。乃々介はとても痩せている。背中などは骨が浮いて、あばらの数が数えられるほどだ。 乃々介はなにも食べない。おそらくは、人間の血肉以外は。人喰いだから。人を喰うから、人喰いなのだ。 いままで、奈子は、そんなことを、考えたことも無かった。 「ねえ、パパ……」 「なんだ?」 「ののっちってさ、なんで、人を食べるの?」 うつむいたままの奈子の横顔を、父は、黙って見た。奈子はぶらぶらとつま先を揺らした。 「ののっち、人間じゃん。人間となんにもかわらないじゃん。ゼリーとか、梅昆布茶とか大好きだしさ。そういうのだけでいいじゃん。そういうのだけ食べてりゃいいじゃん」 指先でフォークをもてあそびながら、それでも奈子は、自分が無理なことを言っているということが分かっていた。 今日、出会った人々が、言っていた。乃々介は角を削り爪を切っていると。人喰いとして見えぬようにと。そして奈子は少年から本を投げつけられもしたのだ。祖母の命を奪う人喰い、と。 すれ違った人が、乃々介の背中を見て、ひそひそとささやいていた。あれが人喰いだと。人喰いの化け物だと。 乃々介は、なにも、しないのに。 「……ののっちが、人を食べたりしなかったら、誰からも嫌われたりしないのに」 ぽつり、奈子が呟くと、父は柿を剥く手を止めた。しばらく、何かを考えているようだった。背後からは、調子はずれの、乃々介の鼻歌が聞こえてきた。 ―――やがて、父は、おだやかな調子で言った。 「なあ、奈子。パパも、奈子くらいのころに、乃々介に聞いたことがあるんだ」 ねえ、乃々介は、どうして『人喰い』なの? 父は、わずかに背後をうかがった。乃々介は機嫌よく鼻歌を歌いながら、皿を洗っている。父は少しだけ笑った。 「……そしたらな、乃々介はパパに言ったんだ」 僕は、昔は、人間だったんですよ。 奈子は耳を疑った。 「え?」 「長い話だぞ」 父は、ゆっくりとした口調で言った。そうして語りだした。まるで、おとぎ話を語るように。 「……乃々介は、昔、寒い国の貧しい村に住んでいたんだそうだ。兄姉も、弟妹もたくさんいて、とても貧しい家だったらしい。食べるものがなくて、いつも、とてもひもじかったと言っていたよ。 食べるものといったら、稗や粟の薄い粥ばかりで、餓えたときには木や草の根をしゃぶることもあったそうだ。けれど、それは乃々介だけのことじゃなかったらしい。村全体がとても貧しくて、子どもも老人も、大人の男女も、餓えや病でぱたぱたと死んでいったそうだ」 想像できるか? と父は問うた。奈子は返事に窮した。 奈子は、餓えたことは無い。この時代の子どもとしては当たり前のことのように。家に帰ればいつも乃々介がいた。なにもしなくても、三食、あたたかな食事を給されていた。 父はしばらく、黙りこむ奈子を見ていた。そうして、また、ゆっくりと語りだした。 「それでも、乃々介は、10になるまで、家族といっしょに暮らしていたんだそうだ。けれど、10の時に、おそろしい飢饉が起こった」 「飢饉?」 「ああ。春になっても雪やみぞれが降り続いて、作物がまったく出来なかったらしい。年貢のために種籾まで差し出したら、食べるものが何も無くなった。たくさんの村人が飢えと病で死んだ。―――そうして、ある日、乃々介たちと同じくらいの子どもが、村の中心に集められたんだそうだ」 そうして、あつまった子どもたちに、大人たちが、饅頭を差し出した。 さつまいもで作った甘い餡の入った、白い饅頭――― 「あんな美味しいものを食べたことは無かった、と乃々介は言ったよ」 父は苦く笑った。 「そうして…… それは、毒だったんだ、とな」 「毒!?」 奈子は耳を疑った。「ああ」と父は答えた。 「饅頭を食べた子どもたちは、みんな、血反吐を吐いて死んでいったと。……そうして、皆、村はずれの穴のなかに投げ込まれた、と」 けれど、乃々介は、死ななかった。 井戸の中で、目を覚ましたのだ。 「地獄だった、と言っていたよ」 水の無い、空の井戸の中で。 無数の子どもたちが、血反吐を吐いて、死んでいる。 ―――いっしょに遊んだ友達も、幼い弟妹も、皆。 信じられない、と奈子は思った。 そんなことは想像も出来ない。親が子どもを殺すこと。ニュースで聞いたことはある。けれど、自分の身に、身近な誰かの身に起こるとはとても思えない。それどころか、大人たちが、まとめて子どもを殺すようなことが起こるとは、信じられない。 「それで、ののっちは、どうしたの」 「死にたくなかったんだ、と言っていたよ」 父は、短く付け加えた。 「もしかしたら、あのときには、もう死んでいたのかもしれなかった、とも言ったけれどね」 その言葉で、奈子は、悟った。 乃々介が何をしたのか。 ……乃々介は、人の肉を食べて、生き延びたのだ。 奈子は想像した。人の死体の詰まった、井戸の底を。 まだ10歳――― ああ、自分と同い年だ――― の子どもが、泣きながら、死体を食べる。 泥水をすすり、腐りかけた肉を…… 自分の友人や、弟妹の肉を…… 食べて、生き延びる。何日も、何週間も、何ヶ月も。誰からも忘れられたまま。とうの昔に死んだのだと思われたまま。 「……だから、ののっちは、人喰いになったの」 「ああ」 父は短く答えた。 「いつか、穴を這い出して外に出たとき、もう、村はなくなっていたと言っていたよ。それからは、旅人を襲ったり、口減らしに捨てられた子どもを襲ったりしていた、と言っていた」 奈子は黙り込んだ。 思った。乃々介は、なりたくて、人喰いになったのではなかったのだ、と。 爪が伸び、牙が伸び、角が生え。 死にたくない、死にたくないと、それだけを思って、人の肉を喰らう。 地獄だ、と奈子は思った。 そんなものは、人の生き方ではない。夜叉だ。そして、奈子は悟った。ああ、だから――― だから、乃々介は、人喰いになったのだと。 「じゃあ、なんで、ののっちは、人を食べるのをやめたの」 「それは―――」 父が言いかけたとき、ふいに、声が、割り込んだ。 「何のお話をしているんですか?」 二人は、弾かれたように振り返った。 そこにたっていたのは、乃々介だった。二人の横にしゃがみ、熱い茶を湯のみに注ぐ。湯飲みは三つあった。 父は居心地が悪そうに身じろぎをした。上目遣いに乃々介を見る目が、どこかしら子どものようで、奈子は目を瞬いた。 「……その、乃々介」 「いいんですよ、話してくれて」 乃々介はおっとりと笑った。 「ただ、話すタイミングが見つからなかっただけですから」 昔の話ですよ、と乃々介は言った。 「あるとき、また誰かと暮らすことになって、それから、人が食べられなくなったんです。人間と仲良くなったら、僕は、自分が人間だったってことを思い出してしまったんですね。それだけです。……さあ、お茶をいただきながら、一緒に大河ドラマを見ましょうよ」 そうだねえ、といって、父は腰を上げた。奈子は奇妙に宙ぶらりんの気持ちになる。ふと傍らを見ると、板の上に一切れだけ柿が残っていた。食べる? と乃々介に聞くと、乃々介は、ありがとう、と笑顔で首を横に振った。 back next top