6.
帰りに乗り換えの駅の肉屋でコロッケを買った。家に帰るともう外は真っ暗になっていた。ぽつぽつと街灯の灯った道を急いで帰り、家に帰ると乃々介は、「ただいま帰りましたー!」と玄関で大声で怒鳴った。
「ああ、おかえり……」
二階からのっそりと顔を出したのは父の多朗だった。筆が詰まっていたのか、表情がさえない。そんな多朗の顔に慌てて靴を脱ぎ、「今すぐ晩御飯を作りますから」と、乃々介は台所に走っていく。
奈子は、のろのろと靴を脱いだ。父は、そんな奈子を黙って見下ろした。やがて一言、「どうだった?」と聞いた。
「うん……」
奈子は、あいまいに答えた。
他に、答えが、見つからなかったのだ。
夕食は豆腐の味噌汁とかにたま、それに、白菜のおひたしに、買ってきたコロッケだった。姉の実子はまだ帰ってこない。食後にほうじ茶を飲んだころ、ようやく、電話がかかってきて、塾で遅くなると連絡があった。
奈子は、今の卓にノートを広げたまま、何を書いたらいいのか分からずにいる。ただいたずらにシャープペンシルを転がしてため息をついた。本当は作文は得意なほうのはずなのに。調子が出ない。それ以前に、何を書いたらいいのか、途方に暮れるような気持ちだった。
つけっぱなしのテレビで、フィギュアスケートの大会を放映していた。乃々介は台所で皿を洗っている。居間から、割烹着を来た痩せた後姿が見えた。ちいさな鼻歌が聞こえてくる。奈子は知らないような、とても、古い古い曲―――
「奈子」
ふと、かたわらから、声がした。父だった。
黒ぶちのメガネをかけた父は、人懐っこく笑った。「柿、剥くか?」と言った。
やわらかくなりかけた柿を、縁台で父が剥いてくれた。庭からは空が見える。奈子の家は山に挟まれた長谷にある。卵色の月が空に浮かんでいた。
「パパ、原稿、進んだ?」
「いーや、いまいちだった。……仕方ないから、今日は、鎌倉のほうまでうろうろしにいったりしていたよ」
「原稿が止まるたびに仏像見に行くのやめなよ。だったら携帯買えばいいのに。編集さんに怒られるよ」
「奈子や実子が怒ってくれるから、べつにいいんだ」
子どもの言い訳のようなことを言う。奈子はため息をついて、笑った。剥いて板の上におかれた柿をひとつ口に運んだ。
熟した柿はやわらかく、甘く、ゼリーのような舌触りがする。背中から、乃々介が皿を洗う水音が聞こえてくる。柿をほおばってる奈子に、父は、なにげない口調で言った。
「……今日は、誰に会いにいったんだ?」
奈子は、黙って、柿を飲み下した。
「……くそうまる、って人と、道さん、っていう人」
「そうか」
父はどちらも知っているのか、と奈子はぼんやりと思った。
「会ったことあるの?」
「いや、九爪丸は、無い。道さんには昔可愛がってもらったよ」
―――奈子は、どちらにも、会わなかった。
「その人の旦那さんだって人と、孫だっていう翼くんっていう子に会ったよ」
「そうかあ。翼くん、いくつになった」
「わかんない。二年生くらい」
「そうかあ」
父はおだやかに笑った。柿を剥いた。奈子は、黙ったまま、もうひとつの柿に手を伸ばした。
甘くて美味しい柿。今日の夕食もなかなか美味しかった。鎌倉で買ってきたカニクリームコロッケは、奈子にとっても、父にとっても好物だった。けれど、乃々介は、一口も口にすることは無い。
乃々介が食べるのは、お茶か、そうでなければ具の無い汁物だけだ。奈子はいままで乃々介が何かを食べるところを見たことが無い。乃々介はとても痩せている。背中などは骨が浮いて、あばらの数が数えられるほどだ。
乃々介はなにも食べない。おそらくは、人間の血肉以外は。人喰いだから。人を喰うから、人喰いなのだ。
いままで、奈子は、そんなことを、考えたことも無かった。
「ねえ、パパ……」
「なんだ?」
「ののっちってさ、なんで、人を食べるの?」
うつむいたままの奈子の横顔を、父は、黙って見た。奈子はぶらぶらとつま先を揺らした。
「ののっち、人間じゃん。人間となんにもかわらないじゃん。ゼリーとか、梅昆布茶とか大好きだしさ。そういうのだけでいいじゃん。そういうのだけ食べてりゃいいじゃん」
指先でフォークをもてあそびながら、それでも奈子は、自分が無理なことを言っているということが分かっていた。
今日、出会った人々が、言っていた。乃々介は角を削り爪を切っていると。人喰いとして見えぬようにと。そして奈子は少年から本を投げつけられもしたのだ。祖母の命を奪う人喰い、と。
すれ違った人が、乃々介の背中を見て、ひそひそとささやいていた。あれが人喰いだと。人喰いの化け物だと。
乃々介は、なにも、しないのに。
「……ののっちが、人を食べたりしなかったら、誰からも嫌われたりしないのに」
ぽつり、奈子が呟くと、父は柿を剥く手を止めた。しばらく、何かを考えているようだった。背後からは、調子はずれの、乃々介の鼻歌が聞こえてきた。
―――やがて、父は、おだやかな調子で言った。
「なあ、奈子。パパも、奈子くらいのころに、乃々介に聞いたことがあるんだ」
ねえ、乃々介は、どうして『人喰い』なの?
父は、わずかに背後をうかがった。乃々介は機嫌よく鼻歌を歌いながら、皿を洗っている。父は少しだけ笑った。
「……そしたらな、乃々介はパパに言ったんだ」
僕は、昔は、人間だったんですよ。
奈子は耳を疑った。
「え?」
「長い話だぞ」
父は、ゆっくりとした口調で言った。そうして語りだした。まるで、おとぎ話を語るように。
「……乃々介は、昔、寒い国の貧しい村に住んでいたんだそうだ。兄姉も、弟妹もたくさんいて、とても貧しい家だったらしい。食べるものがなくて、いつも、とてもひもじかったと言っていたよ。
食べるものといったら、稗や粟の薄い粥ばかりで、餓えたときには木や草の根をしゃぶることもあったそうだ。けれど、それは乃々介だけのことじゃなかったらしい。村全体がとても貧しくて、子どもも老人も、大人の男女も、餓えや病でぱたぱたと死んでいったそうだ」
想像できるか? と父は問うた。奈子は返事に窮した。
奈子は、餓えたことは無い。この時代の子どもとしては当たり前のことのように。家に帰ればいつも乃々介がいた。なにもしなくても、三食、あたたかな食事を給されていた。
父はしばらく、黙りこむ奈子を見ていた。そうして、また、ゆっくりと語りだした。
「それでも、乃々介は、10になるまで、家族といっしょに暮らしていたんだそうだ。けれど、10の時に、おそろしい飢饉が起こった」
「飢饉?」
「ああ。春になっても雪やみぞれが降り続いて、作物がまったく出来なかったらしい。年貢のために種籾まで差し出したら、食べるものが何も無くなった。たくさんの村人が飢えと病で死んだ。―――そうして、ある日、乃々介たちと同じくらいの子どもが、村の中心に集められたんだそうだ」
そうして、あつまった子どもたちに、大人たちが、饅頭を差し出した。
さつまいもで作った甘い餡の入った、白い饅頭―――
「あんな美味しいものを食べたことは無かった、と乃々介は言ったよ」
父は苦く笑った。
「そうして…… それは、毒だったんだ、とな」
「毒!?」
奈子は耳を疑った。「ああ」と父は答えた。
「饅頭を食べた子どもたちは、みんな、血反吐を吐いて死んでいったと。……そうして、皆、村はずれの穴のなかに投げ込まれた、と」
けれど、乃々介は、死ななかった。
井戸の中で、目を覚ましたのだ。
「地獄だった、と言っていたよ」
水の無い、空の井戸の中で。
無数の子どもたちが、血反吐を吐いて、死んでいる。
―――いっしょに遊んだ友達も、幼い弟妹も、皆。
信じられない、と奈子は思った。
そんなことは想像も出来ない。親が子どもを殺すこと。ニュースで聞いたことはある。けれど、自分の身に、身近な誰かの身に起こるとはとても思えない。それどころか、大人たちが、まとめて子どもを殺すようなことが起こるとは、信じられない。
「それで、ののっちは、どうしたの」
「死にたくなかったんだ、と言っていたよ」
父は、短く付け加えた。
「もしかしたら、あのときには、もう死んでいたのかもしれなかった、とも言ったけれどね」
その言葉で、奈子は、悟った。
乃々介が何をしたのか。
……乃々介は、人の肉を食べて、生き延びたのだ。
奈子は想像した。人の死体の詰まった、井戸の底を。
まだ10歳――― ああ、自分と同い年だ――― の子どもが、泣きながら、死体を食べる。
泥水をすすり、腐りかけた肉を…… 自分の友人や、弟妹の肉を…… 食べて、生き延びる。何日も、何週間も、何ヶ月も。誰からも忘れられたまま。とうの昔に死んだのだと思われたまま。
「……だから、ののっちは、人喰いになったの」
「ああ」
父は短く答えた。
「いつか、穴を這い出して外に出たとき、もう、村はなくなっていたと言っていたよ。それからは、旅人を襲ったり、口減らしに捨てられた子どもを襲ったりしていた、と言っていた」
奈子は黙り込んだ。
思った。乃々介は、なりたくて、人喰いになったのではなかったのだ、と。
爪が伸び、牙が伸び、角が生え。
死にたくない、死にたくないと、それだけを思って、人の肉を喰らう。
地獄だ、と奈子は思った。
そんなものは、人の生き方ではない。夜叉だ。そして、奈子は悟った。ああ、だから―――
だから、乃々介は、人喰いになったのだと。
「じゃあ、なんで、ののっちは、人を食べるのをやめたの」
「それは―――」
父が言いかけたとき、ふいに、声が、割り込んだ。
「何のお話をしているんですか?」
二人は、弾かれたように振り返った。
そこにたっていたのは、乃々介だった。二人の横にしゃがみ、熱い茶を湯のみに注ぐ。湯飲みは三つあった。
父は居心地が悪そうに身じろぎをした。上目遣いに乃々介を見る目が、どこかしら子どものようで、奈子は目を瞬いた。
「……その、乃々介」
「いいんですよ、話してくれて」
乃々介はおっとりと笑った。
「ただ、話すタイミングが見つからなかっただけですから」
昔の話ですよ、と乃々介は言った。
「あるとき、また誰かと暮らすことになって、それから、人が食べられなくなったんです。人間と仲良くなったら、僕は、自分が人間だったってことを思い出してしまったんですね。それだけです。……さあ、お茶をいただきながら、一緒に大河ドラマを見ましょうよ」
そうだねえ、といって、父は腰を上げた。奈子は奇妙に宙ぶらりんの気持ちになる。ふと傍らを見ると、板の上に一切れだけ柿が残っていた。食べる? と乃々介に聞くと、乃々介は、ありがとう、と笑顔で首を横に振った。
back next
top
|
|