7.



 そして奈子は夢を見た。



 たとえば夢の中では、奈子は、ひとりぼっちの子どもだった。
 灰色の空から、びちゃびちゃとみぞれが降って来る。奈子はひとりで神社の軒下にうずくまっている。手足の感触が無い。頭の中が鉛を詰めたように鈍くしびれている。
 松の枝が黒く、うすく積もった雪は白い。空の色は鈍重な灰色だ。
 奈子が着ているのは擦り切れた着物一枚だった。ここで待っていろ、と誰かに言われた。誰に言われたのかは覚えていない。それでも、その誰かは現れない。奈子は膝を抱えて空を見上げている。
 すると、ふと、ぴしゃり、と足音がした。
 見上げると、誰かがそこに立っている。足に草履が縛り付けられていた。見上げると、古ぼけた蓑を着た男だった。柿渋を塗った傘を差していた。ぼさぼさの髪が、痩せて頬骨の出た輪郭を、やわらかく縁取っていた。
 男は、しばらく、不思議そうに奈子を見ていた。やがて、にっこりと笑うと、傘をたたむ。奈子の前に膝を折る。
「こんにちは」
「……」
「こんなところで、何をしてるんですか?」
 奈子は答えようとした。けれど、声が出なかった。唇は冷えて青ざめ、ひび割れている。
 何を言えばいいのかも分からなかった。もう、ずっと誰とも話をしていなかった。この男もおそらく行ってしまうだろう。奈子のことに振り向いてくれる人など、誰もいない。
 けれど、男は、去らなかった。にこにこと笑いながら、ずっと、奈子の前にかがみこんでいた。足駄にみぞれが染みるだろう。それでも。
「……わたし」
 奈子は、やっとの思いで、声をしぼりだした。
「ひとり……」
 口にした瞬間、ぽろりと、涙がこぼれた。
 涙はあたたかだった。ひとしずくこぼれると、後から、後から、こぼれてきた。奈子は、大きく目を開き、割れた唇をかみ締めたまま、ぽろぽろと泣いた。何も言葉が出てこなかった。
「あなたのお名前は?」
 奈子は黙ったまま首を横に振った。「そう」と男は答えた。
 男は、しばらく、小首をかしげて、そんな奈子を見ていた。やがてにこりと笑うと、首元で結び合わされていた蓑のあわせを解いた。
 奈子の痩せた背中に、蓑を、かぶせかける。
 蓑は、男の体温であたたまっていた。奈子は目をまたたいた。蓑を脱いだ男はとても痩せていた。着ているのは渋茶色の着物一枚だった。
「誰かを待っているんですか?」
 奈子は、しばらくためらって、首を横に振った。迎えはもう来ない。分かっていた。
「親御さんは?」
 それにも、首を振った。
 男はしばらく考えていたが、やがて、少し微笑むと、手を差し出す。
「じゃあ、僕と来ますか?」
 奈子は、おどろいて、男の手を見た。
 ごつごつと骨の出た、痩せた手だった。爪が無かった。あきらかに爪を抜いた痕だと分かる傷跡が、五本の指の先端で、赤黒い傷跡になっていた。
 奈子は男を見上げた。
 男は微笑んでいる。蓑は温かだった。奈子に笑いかける人など、もう、ずっといなかった。奈子にぬくもりをくれる人など、もう、ずっといなかった。
 やがて、奈子は、ためらいながら、男の手に、手を重ねる。あたたかい手だった。大きな手だった。
 男は、奈子を立ち上がらせた。冷え切った膝がきしきしと鳴った。それでも、蓑も、男の手もあたたかかった。ぬくもりが、手の先から、じわりと体に広がった。
 奈子は男を見上げた。痩せた、おだやかそうな目の、もつれた髪の男。問いかける。おずおずと。
「……だれ?」
 男は少しにこりとした。目が、糸のように細くなった。
「僕は、乃々介ですよ」




 たとえば奈子は、夢の中では、若い娘だった。
 蝉が鳴いていた。雨のように声が降ってきた。縁側の板はところどころが腐って落ちていた。奈子はそんな縁側に座って、うちわで顔を仰いでいた。
 遠くで逃げ水が光っている。道はしろく乾いている。誰かがどこかで水をまいている。乳房と腋にうっすらと汗をかく。
 奈子のはだけた胸元で、赤子が、無心に乳を吸っていた。まだふやけたように赤い皮膚をした赤子だった。奈子の子だった。奈子は片腕で赤子を抱きながら、もう片手のうちわで蚊を追う。
「乃々介」
 振り返ると、家の中の薄暗がりで、乃々介が、傘を張っていた。きゃあきゃあと騒ぎながら向こうを走っていくのは乃々介の拾ってきた子どもだった。
「なんですか?」
 乃々介は、傘を張る手を止めないで、振り返る。奈子は赤子をゆっくりとゆすった。
「昔からひとつだけ聞きたかったの」
「はい」
「なんで、乃々介は、あたしを育ててくれたの?」
 赤子が生まれて、はじめて思った疑問だった。
 無心に乳をすっている赤子は、奈子の初めの子どもだった。奈子の肉がちぎれて出来た分身だった。いとしいというよりも、何故自分の一部ではないのかということが不思議なくらいだった。赤子は今も、体の一部のようにぴったりと身を寄せて、奈子の乳を吸っている。
「そうですねえ、なんででしょうねえ」
「あたしを食べるためじゃないの」
 器用に傘を張っていく乃々介の指には、爪が無かった。昔、小さく、凍えていた手でふれたときから、ずっと、爪の無い手だった。今では奈子は知っている。乃々介が爪を抜くのは、生えてくる爪が、触れるものを傷つける鋭い鉤爪だからだ。
 拾われたとき、この赤子ほど小さかったわけではない。けれど、やはり、奈子の手はちいさく、やわらかかった。もしも乃々介が爪を抜いていなければ、鉤爪が深い傷をつけただろう。けれど、もしも食べるためだったのなら、関係ないほど小さな傷だ。
 奈子は、寒い神社の境内で乃々介に拾われてから、ずっと、この家で暮らしてきた。
 朽ちてかしいで壊れかけた家だ。乃々介は傘を張り、奈子を育てた。朝にも夕にもあたたかな食事があった。けれど、奈子は、乃々介が何かを食べているところを、一回も見たことが無かった。
「ねえ、お腹はすかないの」
 一生懸命に乳を吸っている赤子を見ていると、ふと、そんなことが気に掛かった。いままで何回か問いかけて、そのたびにはぐらかされてきた答えだった。そして今もまた。
「みんながご飯を食べているところを見ているだけで、僕はお腹一杯になるんですよ」
 笑いながら言って、乃々介は、傘の骨に糊をつけた。
 嘘だ、と奈子は思った。
 何も食べないで、生きていけるものはいない。草木ですら水を吸い土を食って生きるのだ。ましてや人間と同じなりをしている乃々介は。
 ふと、からん、と音がした。軒につるした竹の暖簾が鳴る音だった。奈子の夫が帰ってきたのだ。
「やあ、暑いなあ」
 やがて、男が、首にかけた手ぬぐいで汗をぬぐいながら、こちらの座敷に回ってくる。男は手に大きな瓜を下げていた。
「やあ、大きな瓜ですねえ」
「瓜売りがうまそうなのを売っていたから、つい、買って来てしまったんだよ。切ってくれないかい」
「そうですね。じゃあ、先に、ちょっとだけ井戸で冷やしましょうか」
 乃々介は立ち上がり、笑顔で、男から瓜を受け取った。そうしてそのまま部屋の奥へと引っ込んでいく。瓜だ、と子どもの誰かが歓声を上げるのが聞こえた。
 男は奈子の傍らに座った。やあ、などと笑いながら、乳を吸っている赤子の頭を撫でる。
「元気におっぱい吸ってるなあ」
 男の笑顔は優しかった。男は赤子の頭をなで、それから、奈子の頬を撫でた。奈子はじんわりと胸の中に甘いものが広がるのを感じる。
 蝉が、雨が降るように鳴いていた。風が吹くと木がざわめいた。道が白く乾いていた。



 そして、たとえば奈子は、腰の曲がった老婆だった。
 土手にたんぽぽが咲いていた。杖を突いて歩いていた。斜めになった日差しが長く影を伸ばした。かたわらを歩いているのは乃々介だった。
 蝶を追って子どもが走っていく。奈子の孫だった。夫はとうに死んだ。時間が過ぎていた。
 目がかすんで、耳も遠くなった。それでも、夕暮れのあざやかさくらいは分かった。濡れた紙に滲ませたような茜と黄金が、遠くの西の空を染めていた。
 痩せて、ぼうぼうの髪をした乃々介は、少しも変わらない姿だった。
「ねえ、乃々介」
「なんですか?」
「そろそろ、あたしを食べないかい」
 奈子がおだやかに言うと、乃々介は黙った。
 遠くに橋が架かっていた。誰かが橋を渡っていた。橋の影が、空の茜を映した川に、落ちていた。
「……食べられるってことが、どんなことか、分かってるんですか」
 乃々介は、怒ったように言った。子どもじみた態度に思えて、おかしくて、奈子はくすくすと笑った。
「わかっているよう。もう、こんな年だもの」
 ふと思い立って手を伸ばすと、乃々介の手を取った。爪の抜かれた手を。
 人間の手だった。痩せて細い指をした、若い男の手だった。
 乃々介に育てられた子どものいくらかは、逃げていなくなった。乃々介が人喰いだと知って、喰われることを恐れたのだった。餌にするために育てたんだろう、そういって乃々介を罵った子もいた。けれど奈子は、一度も、乃々介が人喰いだと思ったことは無かった。
「ひもじくないかい、乃々介」
「……」
「そろそろ何かを食べないと、死んでしまうよ」
 乃々介は何も答えなかった。奈子は、杖を突きながら、ゆっくりと歩いた。長い影が土手に落ちた。
「あたしはもう十分に生きたもの」
「それを言うなら、僕だって、十分すぎるくらい生きています」
「違うよ。あんたは、まだ、生きられるもの」
 自分の寿命は分かっていた。おそらくもう長くはあるまい。夫に会えるのもそう遠いときのことではない。それならば。
「あたしを食べておくれよ」
 皺だらけになった手で、手を握ると、無言で握り返してきた。
 ひとりぼっちの子どもだったときと、何も変わらない手だった。
「あんたが人喰いなのはね、あんたのせいじゃないんだよ」
 奈子は言った。乃々介は何も言わなかった。
 それでも乃々介は、自分を食べるだろうと奈子は思った。明日か、明後日かは分からないけれど、それほど遠くないときに。
 乃々介はそれだけ餓えていた。餓えるということは、生きたいということだ。乃々介は、まだ、死ねないということだ。
 人を喰って、乃々介は、まだ、生きなければいけない。
 おそらく、まだ、何年も、何十年も。もしかしたら何百年も。
 もしもそれが、餓えて人を喰った報いだとしたら、重すぎる報いだった。
「あたしはねえ、あんたが好きだよ。とても好きだよ」
 しばらく黙って、それからうつむいて、小さな声で乃々介は、僕もです、と言った。
 夕暮れだった。たんぽぽが咲いていた。雲が金色だった。


 そんなところで目が覚めた。




「……ののっち」
 声をかけると、乃々介が、振り返った。
「奈子さん?」
 奈子は、しめった目元を袖口でこすりながら、ぺたぺたと、はだしで階段を下った。乃々介は居間の椅子で本を読んでいた。慌てて立ち上がる。パジャマ姿の奈子のそばにくる。
「どうしたんですか?」
 ちいさな子どもにするように目線の高さを合わせて、怖い夢でもみましたか、と頭をなでてくれた。痩せた、爪の無い手だった。
 奈子は何かを言いかけて、言葉が見つからずに、ふたたび黙り込んだ。
 怖い夢、だったのだろうか。
 たとえば奈子はちいさな子どもだった。若い女だった。老婆だった。
 いつも乃々介が側にいた。いまとまったく変わらない姿で。年も取らずに。餓えて痩せた姿のまま。
「ねえ、ののっち、ののっちはお腹がすかないの」
 乃々介は手を止めた。いつも細い目が、おどろいたように見開かれる。奈子はちいさな子どもがぐずるように、ぐずぐずとした口調で言った。
「みんな食べちゃったの。ののっちのこと好きだった人みんな。そしたら、ののっち、ひとりぼっちじゃない。ひとりぼっちとお腹が空くのと、どっちが辛いの」
 乃々介はしばらく黙っていた。やがて、少し笑うと、奈子の手を取った。
「やっぱり、変な夢を見たんですね」
 手を取って、ソファに座らせてくれる。台所に消えて、しばらくたって戻ってくると、手には紅茶のマグが握られていた。やわらかい色のミルクティが湯気を立てていた。
 飲んでみると蜂蜜が入っていた。ひとくち、ふたくちと飲むと落ち着いた。
 窓の外は暗くて、居間にしか、明かりがついていなかった。
「今日はいろいろなところに行きましたし、いろんな話をしましたからね。びっくりしちゃったんでしょう」
「……子どもあつかいしないで」
 言いながら、奈子は、自分が子ども以外の何者でもないということを分かっていた。
 子どもだ。何も出来ない。守られることしか出来ない。乃々介の辛さのことなど、ほんの一割も分からない。
 頭を撫でてくれる指が痩せていた。まるで重病人のようだ。
「ねえ、ののっち。ののっちは、ののっちのこと好きだった人のこと、みんな、食べちゃったの?」
 奈子が問いかけると、乃々介は、しばらく、考え込んでいた。
 ―――やがて、頷いた。ためらいながら。
「そう、ですね」
 奈子はうつむいた。じわじわと、胸の奥に、何かが広がっていく。
 何年。何十年。何百年。
 ひとりぼっちで。餓えながら。
 奈子が最後に夢見たのは、老い枯れた自分の屍を、喰らう乃々介の姿だった。
 初めに、痩せた腿をたべた。次は腕だった。喰える肉はあまり無かった。次にたるんだ腹に顔をうずめ、くちゃくちゃと音を立てて、臓物を食べた。背骨を砕いて髄を啜った。
 食べながら、乃々介は、泣いていた。
 ごめんなさい、ごめんなさいと、泣きながら。
 ぽつんとひとしずく、パジャマの膝に、涙の雫が落ちた。
「なんでののっちだけ、そんな目にあうの」
 乃々介は、人喰いだった。けれど、望んでなった人喰いではない。
 ただ、餓えていただけだ。ひどく餓えていて、孤独だっただけだ。
 そうして、そんな時代は、もう過ぎた。
 人喰いはもう、いなくなった。生き残っているのはほんのわずかだ。乃々介にはもう仲間はいない。乃々介は、ほとんど、最後の人喰いだ。
 人間など愛さなければ、それほど辛いこともないだろうに。
 猫が鼠を狩るように、獅子が鹿を襲うように、人間を襲い、喰らっていればよかったのに。猛獣がそう定められたように生まれたように。
「奈子さんは、やさしいですね」
 乃々介は、おだやかな声で言うと、奈子の頬を撫でた。
「……なんで僕は生きているんだろうと、思うこともあります」
 うん、と奈子は頷いた。
「こんなに長いこと生きてきたのに、まだ、怖いことがたくさんあります。死ぬのは怖いし、餓えるのは苦しいです」
 でもね、と乃々介は言った。
「―――みんなが、僕のことを愛してくれていたから、僕は、やっと、生きてるんです」
 だから泣かないでください、と乃々介は言った。
「奈子さん、僕は、みんなに愛されてきたんです。こんな幸せなことはありませんよ。だから、奈子さんが悲しむようなことは、なんにもないんですよ」
 頭を撫でる手は、痩せているのにあたたかで、おおきかった。夢の続きのようだった。
 乃々介は幸せだと言っているのに、涙は止まらなかった。
 部屋は暗かった。月はもう沈んでいた。部屋のそこかしこに闇が凝っていた。台所で、音を立てて、ひとしずくの水がシンクに落ちた。
 奈子は、乃々介の手を頬に当てて、しばらく、泣いた。





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