学校に来ると、すでに、校庭には誰も居なくなっていた。
「……」
狭い、コンクリートで固められた校庭に、ちらちらと桜が散っている。
一瞬、フラッシュバックする。……その校庭に、まるで、熟れた苺でもつぶしたように、人間の五体が散乱している様を。
軽い吐き気とめまい。ノビは校舎へと足を向けることも出来ずに、立ち尽くす。
―――ドラ衛門は、それが『未来』に起こりうることだといった。
このまま学校へと足を踏み入れて、普通に授業を受けた場合、『あれ』とまったく同じことが起こるのだと。
あの非常識極まりない『自称ネコ型ロボット』をどの程度信頼していいのかは分からなかった。だが、ノビは、さっき見た『未来』とまったく同じ行動をとる気には、どうしてもなれなかった。
爆発、死、そして、親しい友であるはずの少女の不可解な変化。
……あれが、事実だとしたら?
頭の中に思い浮かんだものは、肺を突き刺した濃いガソリン臭と、濃密な蒸気の記憶だった。
ドラ衛門は、あれを、『スプリンクラーでガソリンを散布した結果』だと、言った。
「スプリンクラー……」
ノビは傍らを見る。プールがある。なにかかすかな記憶があった。学校に配置されているスプリンクラーは、プールと水源を同じにしているという話を聞いたことがある。
ノビはしばらくためらった。だが、やがて決心する。軽く急ぎ足に、プールへと急いだ。
季節外れのプールは、汚らしい緑色に濁っていた。フェンスで隔てられていて中には入れない。ノビはやむなくランドセルを近くへ置くと、フェンスをよじ登る。普段からあまり施錠が厳密な施設ではない。中に入るのは簡単だった。
はげかけた青いペンキ。錆びたシャワー。そして、濁ったプール。
……その水面に、何かが、浮いていた。
良く見ると、何匹ものフナだった。
それだけではない。虫のようなものが無数に浮いている。良く見て気付いた。ヤゴだった。ノビは思い出す。季節外れの時期、このプールにはボウフラの発生を防ぐためにフナが放たれる。トンボが卵を産み、ヤゴも繁殖する。けれど、それがすべて死んでいる。
「なん…… で……」
ノビはよろめくようにプールに近づき、傍らに膝を突いた。まだフナの死体は腐食していなかった。浮いたのはごく最近だと分かる。生臭い臭いは感じるが、寒さのせいか、耐え難いほどではない。緑色に濁った水面に魚の屍骸。そして、無数の虫の屍骸。わずかには花びらも浮いていて、風が吹くとかすかにゆらいだ。ノビは思わず口元を押さえる。
けれど、同時に気付いた。
水面にゆらめく、わずかな、虹色の光沢に。
「!?」
ギラギラと光る、油膜の虹色。
ノビはためらった。けれども、衝動が背後からノビを突き動かす。のろのろと指を伸ばし、油膜をすくった。鼻を近づける。……異臭が、鼻をついた。
間違いなかった。
ガソリンだった。
プールの水にはガソリンが混入している。これが、フナやヤゴの大量死の原因なのだ。
だが、どうやって? ノビはプールサイドに座り込んだまま、呆然と考える。
プールにはガソリンが浮いている。虫や魚が浮いているということは、プールにまであふれるほどのガソリンを注入したということだ。おそらくどこかの配管から漏れたものが、混入したのだろう。それだけ大量のガソリン。それは相当な手間のかかる作業だということは、何も知らないノビにも推測できた。時間も、人員も必要だ。誰にも気付かれずにそんな大掛かりな作業を行う、行える、その理由はなんだ?
『災厄』という言葉が、ふいに、脳裏に浮かんだ。
あのとき、しず香は…… しず香の中に巣食った『何者』かは、言った。
これがお前のもたらす『災厄』というものだ、と。
「ぼく、を?」
自分を、殺すためだけのために、これだけ大掛かりな仕掛けを?
体がかすかに震えだす。体が冷え切っていた。ノビは、思わず自分の身体に腕を回した。油膜の浮いた水面に、メガネをかけた少年の顔が映っていた。
「なんで…… ぼくが、何を、したっていうんだよ……」
そのときだった。
ふいに、チャイムが、鳴った。
はっとして、弾かれたように顔を上げる。
授業が始まろうとしているのだ。……ふいに、フラッシュバックする。あざやかな黄金の炎を窓から吹き上げ、数万のガラスの欠片をきらめかせながら、学校が爆破される場面が。
『夢』では、すでに、爆破が始まっている時間だ!
「ど…… どうし、よう」
何が起こるのか。どうすればいいのか。まったく分からない。そもそも誰が敵なのだ? 誰が何の目的でこんなことを始めた? それすら分からない。まして、ノビはただの子どもなのだ。対応のしようがない。警察に連絡する? 先生たちに話す? ……学校のスプリンクラーにガソリンが混入されている。学校を爆破する目的だ。そして、その犯人は自分を抹殺するために、未来からやってきた幽霊。
そんな荒唐無稽な話を、誰が信じてくれるって言うんだ!
ノビは立ち上がる。思わず駆け寄ってフェンスを掴んだ。だが、無常にチャイムは響いている。思わずノビはぎゅっと目を閉じた。これから起こる悲劇。けれども、防ぐすべが無い。仮に未来を『予見』していても、それに対策を講じることが出来なくてはどうしようもないのだ。
「どうしよう…… どうしよう。助けて、パパ、ママ、おばあちゃん、神様…… 誰でもいい、助けて……!!」
ノビは、フェンスを掴んだまま、思わず、絶叫した。
「助けて、ドラ衛門!!」
その、瞬間だった。
突然、地面が、『爆発』した。
「―――!?」
配管が、破裂したのだ。
すさまじい勢いで、水が噴射する。ガソリン交じりの水だ。強い揮発臭が鼻をついた。何が起こったのか分からない。そして、呆然とするノビの前で、何者かが、噴射する水の中から、ゆっくりと立ち上がった。
190cmを超える長躯。無骨なジャケット。そして、プラスティック・ブルーの目。こちらを振り返る。超合金モノの鉄面皮と、無機質な茶色い目。
ノビは、呆然と、呟いた。
「ドラ、衛門?」
男は、ゆっくりと、地面にあいた大穴から、這い出してきた。
軽く手を振ると、手についていたコンクリートの破片を振り払う。プラスティック・ブルーの髪がぐっしょりと濡れていた。腰が抜けて、立ち上がることも出来ないノビを見下ろす。無表情に言った。
「呼んだか、ノビ」
たしかに呼んだが。
―――地面をぶち破って登場しろとは、言っていない。
「な、な、な……」
「スプリンクラーの機能を無力化するため、加圧水槽を破壊した」
ドラ衛門は無感情に言い放つ。何か、とんでもないことを。
「ど、どういうこと?」
「この時代のスプリンクラーは、水を加圧した状態に保ち、弁の部分が破壊されたときに、その圧力で水が散布されるような設計になっている。制御弁を閉じなければ、自動的に水が止まることはない」
だが、俺には制御弁の場所が分からなかった、とドラ衛門は淡々と言う。
「したがって水圧を下げるために加圧水槽に穴を開けた。これで水圧が下がり、弁が破壊されてもガソリンの散布される量は極性となる。発火はしても爆発は起こらないだろう」
ドラ衛門は、顔に張り付く前髪を無造作によけた。同じく頭からびしょぬれになったまま、しりもちをついたノビは、呆然と問いかける。
「……ど、ドラ衛門、ぼくが居ない間に、そんなこと、してたの?」
「ああ」
「な、なんで?」
ノビの問いかけに、ドラ衛門は軽く目を細めた。不可解だ、とでも言うように。
ノビは思わず口ごもる。返事をしがたい。
「さ、さっきぼく、あんなひどいこと、言って……」
守ってくれようとしていたのに、一緒に居るほうがキケンだとか、なんとか。
けれどドラ衛門はそんなことを言ったノビのために、動き続けていた。そして、助けを求めたその瞬間に…… 非常に非常識な方法でだが…… 駆けつけてすら、くれたのだ。
顔をまっすぐに見上げられないノビに、けれどドラ衛門は、こともなげに答えた。
「俺はお前を守るために未来から来た。お前がなんと言おうと、お前を守るのが俺の存在理由だ。So it goes.(そういうものだ)」
返事が出来ないノビを見て、ドラ衛門は一瞬黙った。
……やがて、言う。
「目的遂行のため、やむなく、『付いてくるな』という命令は無視した。すまなかった」
頭を、下げる。
自分の目の前に、ガソリン交じりの水でびしょびしょになった頭を下げているドラ衛門を見て、ノビは、もう、何もいえなかった。
このヒトは――― ヒトじゃなくて自称『ネコ型ロボット』だけど―――
どれほど非常識であるにしても、間違いなく、ノビを助けようとしてくれているのだ。
その確信が、痛いほどに、胸に沁みた。
「ど、ドラ衛門、頭下げないでよ!」
ノビは慌てて彼に駆け寄る。まだ破裂した配管からは、噴水のように水が噴出し続けている。冷たい。自分なんて胸の高さにしかならないような長躯の男に、ノビは、おろおろとまとわりつく。
「分かったから! もうドラ衛門のこと迷惑って言わない! ぼくのこと守ってくれようとしてるって分かったから!」
「そうか」
「うん。……その、ありがとう、ドラ衛門」
ノビが言うのに、ドラ衛門の表情が変わった。
瞬間、無表情が、崩れた。
―――不思議そうな、顔。
気付いたノビは、たじろいだ。
「……どうしたの?」
「それは…… いや」
言いかけたところで、ドラ衛門は、言葉を切った。目を上げる。プールの配管が爆発したのを見て、驚いたらしい教職員たちが、ばたばたとこちらへとやってくるところだったのだ。
「ひとまず退避するぞ。つかまれ」
「う、うん」
ドラ衛門はノビを抱き上げる。片腕だけで。あまりの怪力にノビは目を見張ったが、とにかくは横においておいて、首の辺りにしがみつく。濡れた髪が冷たい。ドラ衛門は近くのフェンスを掴むと、軽々と跳躍した。片腕でノビを抱いたまま、高さ2mのフェンスをこともなく飛び越える。
ノビは思わず絶句する。気付いたドラ衛門が、こともなげに言う。
「どうした?」
「なんでもないッ」
慌てて首を横に振りながら、このヒト、本当に人間じゃないんだ、とノビは半ば呆然と思った。自分はたしかに小学生だが、片手で抱えられるほど軽くは無い。そして、小学5年生を片手で抱えたまま、2mの障壁を、何の問題も無く飛び越えられる……
でも、ロボットだなんて思えない、とノビは思った。しがみついた首筋には、確かに血の通ったぬくもりを感じる。ドラ衛門はノビを抱えたまま走り出す。一目を避けるように校舎の裏へ。その顔を近くに見ながらノビは思う。
信じられない。
―――人間じゃない、なんて。
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