―――まだ午前なのに、校舎内に、誰も居ない。
「おぉーい、ノビ…… どこだぁー!?」
 がらんとした校内に自分の足音が響く。……それがひどく気持ちが悪い、と少年は、優は思った。背負ったままのランドセルが背中でカタカタとゆれる。
 校庭はがやがやしている。救急車やタクシー、消防車なんかがあつまってすごい騒ぎだ。さっき見たところだと、すでに報道陣までやってきてるみたいだった。ヤクザの抗争があったわけでも、全裸のシャブ中が包丁を振り回したわけでもないのに、こんなところに報道陣が来るなんて。世の中分からない。
 奇妙に校内が灯油臭い、と思う。
 校庭に出てから、あのどんくさい同級生が居ない、と気付いたのは、幼馴染の少女の言葉からだった。
 ノビがいないよ。
 ……言われて、我慢していられるような優ではない。
 ノビはどんくさい。視力が悪くて、臆病で、びくびくしていて、それでいて、妙に弱いものに優しいところがある。クラスでもあきらかに浮いている出来杉にも優しくつきあっている。優としず香がケンカをするとおろおろしながら周りを歩き回り、しまいには自分のほうが泣いているんだから興をそがれてしまう。そんなノビが、もしかしたら校内に取り残されて呆然としているかと思うと、ほうっておける優ではなかったのだ。
「ノビ! どこに居るんだよッ!! 出てこねーとぶっ飛ばすぞ!?」
 あちらこちらの教室をのぞきこむ。どこもばたばたと非難をしたせいか、ついさっきまで使っていたはずのノートや筆箱、あるいは着替えかけの体操服なんかが散乱している。可愛らしいデザインの使いにくそうなノートがおちているのを見たとき、不覚にも優はゾッとした。まるで、誰もが死にたえた後のようじゃないか。
「ちくしょーッ!!」
 大声を上げ続けていないと、足がすくんでしまいそうだ。
 ……ぱりん。
 そのとき、ふと、音が聞こえた。
 何かを、砕くような音。
 びくっ、と振り返る。そこにあるのは理科室だった。
 さらに音が続く。カシャン。ガラスの砕ける音。何を割っているのだ。
 誰かの気配。
「……の、ノビ?」
 声をかけたとき、ふいに、音が止まった。
 窓の外では、他人事のようにサイレンや周りの人々の喧騒。散りかけた桜が暖かな太陽に照らされ、花びらがまばらに散っている。校内には窓が落とす四角い光がやわらかな陰影を作っている。
 ごくり、と息を飲んだ。
 誰が居るんだろう。
「ノビかよ? 返事しろよ! せっかくこのオレが探しに来てやったんだからな!?」
 だが、言っても返事は無い。緊張が高まる。耐え切れないような衝動に突き動かされるように優が動いた瞬間、逆に、金属板のへこむ異常な音と共に、理科室のドアが、内側から吹っ飛んだ。
「!?」
 べこっ、とも、ぼごっ、とも取れるような。
 だが、誰も現れない。けれど一瞬何かが見えた。ブーツを履いた足のようなものが。
「なっ……!?」
 優は、足をすくませた。
 ドアは完全に凹み歪んで、すでに、ほとんど形をなくして、廊下に転がっていた。金属製のドアだ。それが?
 呆然としている優の耳元で、何かがささやいた。

 見に行けば?

 立ち尽くす優の背後で、再び、轟音が響いた。
 再び、ドアが吹き飛ぶ。優が立っているよりも、後ろのところにあるドアが。
 がらん、がらん、と妙な音を立てて転がるドアを、優は呆然と振り返った。
 ナニモノだ!?
「う、うあ……」
 何ものかが、理科室の中にいる。
 そして、優は、『見て』しまった。ドアが吹き飛んだ瞬間、ちかくの踊り場にある鏡に瞬間的に写った。誰が理科室の中に居るのか。それは、あきらかに場違い、というよりも、ここに存在するということが一目では信じられないような『人物』だった。
 真っ青な髪。あきらかに190近い巨躯。そして、重そうなブーツと、袖の無い黒服を着た姿。男だろう。だが。
 なんなんだ、あれは!?
 足がすくんだのは、けれど、一瞬だった。選択肢は一つしかない。
 優は、まろぶようにして、駆け出した。
「うああああッ!!」
 あれは誰だ!? 何者だっ!?
 だが、背後で、何かを破壊するような音は付いてくる。凄まじい音と共に地面がゆれた。ついで、何かが落下する音。それが、『階下』から!
 階段を半ばまで下って、優は、つんのめるようにして立ち止まった。『階下』から、声がしたのだ。
「立ち止まれ。害意はない」
 無感情な、声。
 下に回りこんだ、ということを悟った瞬間、優は、何もかもが凍りつくような思いを味わう。
 信じられないが――― 男は、おそらく、『床をブチ破って』、階下へと降りたのだ。
 そんなことのできる人間が実在しているとは思えない。けれど、優は踊り場に立ち尽くしたまま動けない。上に上がると破壊された理科室のドア、下へ行くと謎の男。どちらへ行っても追い詰められている。息が高まり、鼓動が煩いほどに胸を叩く。
 なんで、なんで、なんで……
 なんで、こんなことに?
 けれど、無機質な声は、淡々と続ける。
「お前の名はなんという?」
「おっ、おまえこそ、何者だよッ!!」
 反射的に怒鳴り返したのは、生来の負けん気ゆえだ。だが、返ってきたのは、短くも不可解な答えだった。
「『耳』はあるのか?」
「……!?」
「無いだろう。あるとしても、名乗れない理由がある」
 指先が壁を這う。心臓が痛いほどに内側から胸を打っていた。はあ、はあ、と自然と息が荒くなる。―――追い詰められている。
 相手はあきらかに、まともな相手じゃない。
 もしも相手がこのまま階段を登ってきたら、間違いなく、優など、簡単にひねりつぶされてしまうだろう。あの足を見た。鉄板をたやすくぶちやぶった足。あの力で蹴られたのなら、簡単に背骨がへし折られてしまう。ぞっと背中が冷たくなった。けれど、同時に考えたのは。
「おっ、お前、ノビをどうしたんだよッ!?」
 だが、その瞬間に帰ってきたのは、不可解な沈黙だった。
 ノビ、といっても相手には誰だか分からないだろうということは分かっていた。けれども最悪の事態を頭が考えてしまっていたのだ。あのひよわでほそっこい体が、首をへし折られて、あるいは頭を強打して人形のように転がっている姿。……相手の返事から、それはないだろうということがわかって、ふいに、かすかな安堵のようなものが胸を掠めた。
 あの男は、たぶん、まだノビと出会っていない。
「おまえ…… 誰だ!?」
 優は、震える声を振り絞る。
「この学校にガソリンを仕掛けたテロリストかっ!? もう外にはケーサツがいっぱいいるんだからな! お前なんて、すぐにタイホされちまうんだからなっ!!」
 だが、男はゆらぐ気配が無い。この言葉で動揺し、動いてくれないかと思っていたのに。優はぎっと歯噛みをする。けれども、そのときふいに気付いた。階段を降りきったところに保健室がある――― 保健室の前の手洗いに、鏡がある。
 鏡に、男の姿が映っていた。
 真っ青な髪。しなやかな筋肉に覆われた長躯。後姿だ。けれども、それだけでも男が常人とはまったく違う雰囲気をまとっているということに気付く――― だが。
 次の瞬間に起こったことは、優にとっては、完全に予想外のことだった。
 鏡越しの、男の背後に。
 子供用の、白い手袋のような…… 小さな白い手が。
 ふっ、と浮かび上がったのだ。
「!?」
 男は気付かなかったらしい。次の瞬間、手が男の肩に触れた。
「……ッ!?」
 男の反応は、早かった。けれども、その『手』は、さらに早かったのだ。

 ごきり。

 異様な音と共に、血が、飛沫した。
「な……ッ!?」
 男は鏡に気付いたようだった。その姿がすぐに消えた。それでも、優は呆然と鏡を見ていた。鏡に血が飛沫していた。
 なにが、おこったのだ?
 突然、空中に『手』が現れた――― そして、それが、男の肩の肉を、『もぎ取った』。
 優は思わず走り出す。反射だった。階段を駆け下る。すると、男が身を翻す足が一瞬だけ『視え』た。
 再び、『手』があらわれる!
 だが、今回は手は男のブーツを掴み損ねただけだった。優の視界から逃れた男に、その手は掴むものを失う。けれども、『手』は消えなかった。信じられないことに…… 優のほうへむかって、やってきたのだ。
「あ…… あ、あ」
 呆然と声を漏らす優の頬を、手は、するりとやさしく撫でる。まるでドライアイスの放つ冷気の靄のような、実体の無い、冷たい手。
『オイカケナサイ』
 耳元で、誰かが、ささやいた。
「!?」
 優は、とっさに耳元へ手をやろうとする。だが、『手』がそれをさえぎった。優の手首を掴み、地面に叩きつける。ごきん、と大きな音がした。同時に、炸裂するような痛み。
「うあぁ!?」
 手が、灼熱する。
 優は見た――― その手のひらを、何かが、貫通している。
 一本の、ボールペンシルが。
 血が流れ出す。真っ赤な血が。だくだくと流れ出した血と同時に、頭の中が、どくんどくんと鼓動するように膨れ上がるのを感じる。いまやはっきりと感じる。手首を掴み、優の手をボールペンで突き刺した手。そして、耳元にぬるりと絡み付いている奇怪な肉の塊のようなものを。
『オマエノコトハ簡単ニ殺セル』
 声は、痛みと恐怖に震えることしか出来ない優に、耳元で、嘲笑するようにささやいた。
『ダガ、アノ男ヲタオシ、Nーオリジナルヲ殺ステツダイヲスルナラ、ユルシテヤロウ』
「な…… なっ……」
 あの男。N−オリジナル。
 優にとっては、まったく理解の出来ない言葉ばかりだった。
 痛みのせいで、頭がガンガンする。貧血に近い症状。おもわず、喉がしゃくりあげるように鳴った。優の目からぼろぼろと涙が流れ出す。優は声を上げて泣き出そうとした。だが。
『ウルサイ! ナクナ!』
 次の瞬間、手は、再び優の手を掴んだ。……もう片方の手を。
 血にまみれたボールペンが、本来の用途をまるきり無視し、力任せに、優の『左手の手首』を、貫通した。
 まるで、水風船を破裂させたように、血が飛び散った。
「うあぁぁぁぁッ!!」
『イクゾ』
 声は、恐怖と絶望に絶叫する優に、むしろ楽しげに囁いた。
『『狩リ』ノ時間ダ』




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