ドラ衛門は、ただ、まっすぐに校内を走り抜ける。
 肩の肉を一掴みほど抉り取られた――― だが、損傷は軽微だ。傷口からはジェル状の物質が滲み出して、すでに血は止まっている。左腕の稼働能力に若干の問題発生。出力が10数%ほど低下。たいした問題ではない。
 だが、問題になるのは、『エージェント』が、自ら現れるのではなく、人質をとって現れたという事実だった。
 ドラ衛門が見たのは、ノビと同年代と思しい、小柄で色黒の少年だった。けれども彼は気付いていなかったが――― その肩に、『エージェント』の一部が、絡み付いていた。
 『幻肢痛』。
 『妄想』の症状は非常に多彩で、どれとして同じ物はないと言ってもいいほどだ。だが、ドラ衛門が推察した限りでは、あの『エージェント』が持っている能力は、特殊なバリエーションには欠ける代わりに、非常に効果範囲の強いタイプの『妄想』であるように思われた。
 『幻肢痛』の症状は、簡単だ。その名の下になった精神症状と同じように、『自分の一部の器官』が、『あるはずのない場所にある』ように振舞わせるように出来る。
 一番簡単な方法としては、自分の『手』の幻覚を作り出し、それを自由にあやつることができる。ただし、この幻覚は自分自身の『手』の身体感覚に依存している。つまり、幻覚の『手』を発言している間は、実際の手はぴくりとも動かすことが出来ないし、痛みも感じない。
 そして――― 『幻肢痛』で動かすことが出来る身体器官は、『腕』や『足』といったものだけではないのだ。
 声帯と、手と…… そして、『目』。
 通例、『幻肢痛』は、『自分の感覚が範囲する以内』でしか、発動することが出来ない。
 一番一般的なのが、『視覚』だ。そして、実はその次に依存する感覚は『触覚』である。
 ドラ衛門は自分の肩に触れる。そして、防弾防刃のジャケットをノビへと渡しておいて、本当によかった、と思った。
 あの手は、『触覚』を利用して、ドラ衛門の肩をえぐりとったのだ。
 肩に触れる。そして、指に皮膚の感覚が伝わってくるのを感じる。その感覚を頼りに、『手』を、皮膚の内側へともぐりこませる。
 実際、その過程は非常に短期間に行われるものだから、外から見れば『指が皮膚にもぐりこんでいく』とでもいう風にみえることだろう。実際には違うのだ。あの手はあくまで『皮膚の表面』から内部を推察し、そこへと攻撃の手を進入させてくる。
 致命的なのは胴体部への攻撃だろう、とドラ衛門は冷静に思った。
 普通の人間であっても、人間の腹に手を当てれば、そこに『胃』や『心臓』や『肺』などの存在を感じ取ることが出来る。そして、『幻肢痛』の持ち主にとっては、それはつまり、『直接に臓器を握りつぶすことが可能になる』ということを意味するのだ。
 自分にはスペアの臓器が存在する――― とドラ衛門は思う。
 仮に心臓を破壊されても、即死することはない。スペアの器官が動き出すから、その間に逃げおおせることが出来れば、心筋を再生し、元通りに行動できる。だが、こういう戦場においてはその隙は文字通り致命的なものだ。
 相手の、『視界』に入ってはいけない。
 特に、胴体や頭などの部分を『視られて』しまったら、チェックメイトであると思ったほうがいい。
 けれど―――
 あの少年は、どこに、『目』を持っているのだろう?
 後ろから、しゃくりあげるような泣き声と、ほとほとという足音が、近づいてくる。
 ドラ衛門は、とっさに左右を見回した。教室。中へと転がり込む。窓に映るガラス越しに、向こうの姿をうかがった。
 少年…… おそらくは、ノビと同い年くらいの少年。
 それが、今は、ひどい姿となっている。
 両手から血が流れ落ち、体中が、真っ赤に染まっている。拷問を受けたのだろうか。両手にひどい怪我をしていて、そこから今も血が流れ続けていた。ついさっき、一度視たときには無かったはずの怪我だった。
 目は涙で腫れあがり、しゃくりあげるようにして、必死で涙をこらえている。顔を左右にめぐらせているのは、おそらく、ドラ衛門の姿を探しているのだ。
 『目』は、どこにあるのだろう?
 彼の『目線』に捉えられたなら、すぐに、『手』の攻撃が続くはずだ。彼の体のどこかに『目』がある。それを確かめねばならない。
 そう自分に確かめて、ドラ衛門は、腕に手をやった。かすかな音と共に腕輪が変形する。篭手のような形状。『空気砲』とノビの呼んだ、圧縮空気を発射する非実弾の射撃武器。
 横様に身体を転がし、視線に隠れるようにして、一撃を、放つ!
 パァン!
 大きな音と共に、天井から、液体が滴り落ちた。
「!?」
 ドラ衛門が撃ったのは、スプリンクラーの『栓』だった。
 すでに圧力が下がっているから、水が放射状に蒔き散らかされることはない。だが、つんと鼻を付く刺激臭は注意を引かずには居られない。少年は案の定、ぎょっとしたようにそちらを振り返る。その背後を音も立てずに駆け抜ける。隣の教室へと。転がり込むようにして滑り込むのと、驚いた少年が激しく左右を見回し始めるのが、ほぼ、同時だった。
「だ、誰だよっ、誰なんだよッッ!!」
 間違いない、とドラ衛門は悟る。
 『エージェント』の目は、少年の顔の前面についている。そして、おそらくは『ひとつ』しかない。片目は本体の保護のために残されているのだろう。本体であるエージェントは今も外に居るはずだ。そして、彼も自分の身を守る必要を感じているはず。そして、眼球という非常にデリケートな器官を保護しつつ、かつ、その機能を十全に生かすことができる場所というのは、あまり数が無い。
 すなわち。
 ガシャン、と小さく音を立てて、『空気砲』の形状が変わった。
 より――― 緻密性の高い形状へと。
 同時にドラ衛門は、自分のガンベルトから『除霊ペン』を何本も抜き放ち、左手の指に挟みこんだ。彼の手は両方が利き手だ。
 戦略は決まった。
 あとは実行するのみだ。
「『エージェント』!!」
 叫ぶなり、教室から走り出る。少年は驚いたように振り返ろうとする。だが、ドラ衛門のほうが早かった。生じた『手』が顔に触れようとした瞬間、それを強引に振りほどく。手が、少年の薄い頭蓋骨を掴んだ。強引に前を向かせる。
「う、うああああああッ!!」
 少年が絶叫する。だが、それに同情心を持たせられるようなドラ衛門ではなかった。手が顔の前に伸ばされる。右。違う。左。そこに触れようとした瞬間、『手』が生じた。
 こちらが正解だ!
「すまん」
 短く、呟く。
 その瞬間、ドラ衛門の手にしていた『除霊ペン』が、少年の眼窩の中へとねじ込まれた。
 ぶしゅっ、という短い音。

「―――――ッッッ!!!」

 凄まじい悲鳴。
 だが、同時に、『手』も消滅した。
 少年の体が、硬く戒められて、ドラ衛門の手の中、釣られた魚のようにビクビクと痙攣している。その首に絡み付いていた肉の紐のようなもの…… 『声帯』をドラ衛門は無造作に引きちぎり、遠くへと投げすてた。
 『除霊ペン』を用いられたショックで、少年は意識を失ったらしい。すでに身体はぐったりとしていて、ドラ衛門の腕の中にある。両手を貫かれた傷跡に、目に突き刺さった短い棒、という無惨な姿。―――けれど、その眼球は見る間にかすむように消えていき、支えるものを失った『除霊ペン』が、ぽろりと落ちた。
 最初から、この少年は、眼球を抜かれていたのだ、とドラ衛門は思う。
 エージェントは、彼の眼窩の中に、『目』を隠していた。
 元々存在している器官の上に『幻肢』を書き込み、割り込ませる。神経細胞のうえにまで『幻肢』を書き込み、その痛みをかきけして。自分自身を無事な場所に置いたまま行動するのなら、考えられた方法だ。実際にダメージをあたえられたショックは本体には及ばない。だが、痛みはたしかに本体にも波及しているはずで、おそらくは、左のほうの『目』はしばらくは使えまい。けれども。

 まだ、終わりじゃない。

 ドラ衛門は、少年の身体をかばうようにして、全力で飛びのいた。その瞬間、地面に『手』が激しくぶつかる。そしてドラ衛門は気付く。
 『手』が、一本ではなくなっている!
 投げ捨てられた肉の塊のような『声帯』の中に、眼球があった。おそらくはもう片方、右の眼球だ。
「くっ!」
 狭い廊下。逃げ場は無い。声帯の中に隠れた眼球がギラギラと異様な光を放っていた。片腕には気絶した少年。ドラ衛門はとっさに少年をかばうように飛びのく。手が飛んでくる。その爪が、じゃっ、と頬を切り裂いた。
 声帯はほとんど自分では動く力を持たない。その視界から逃れるように左右へと飛び逃れる。肩から教室のドアをタックルするようにしてぶちやぶる。転びこむようにして逃げ込んだ教室へ、けれど、ドラ衛門は信じられないものをみた。
 声帯が、腕を生やし、這ってくる!
 奇怪な化け物じみた姿。ただ、眼球と肉の紐だけが絡みあったものに、足が生え、指が生え、蜘蛛のような姿で這い回ってくる。その速さのあまりのスピードに舌を巻いた。再び廊下へと逃れる。ガラスを叩き割った手が、廊下の床へとガラスの破片を無数にバラ巻いた。膝を突いて身をたわめる。次の瞬間、ドラ衛門は凄まじい勢いで前へと飛び出す。
『ナゼ、邪魔ヲスルッ!!』
 猫科の獣の筋肉繊維は伊達ではない。瞬発力、瞬間的な最高速度だと、ドラ衛門は並の人間をはるかに凌駕する。追いかねるのだろう、エージェントは這いずって後を追ってくるが、間に合いそうに無い。このままだったら確実に逃げ切ることの出来る速さ。けれども。
 ふいに、ドラ衛門は、立ち止まった。
『!!』
 何を見たのか。ドラ衛門は振り返る。そして、無表情に言い放った。
「……N−originalを守る。それが、俺の『存在理由』だ」
 言った瞬間、その腕が上へと伸びる。そして、エージェントは『視た』。
 そこに、自分が学校を爆破するために設置した『雷管』がある!!
 そうして、はじめてエージェントは、自分の過ちに気付いた。
 己が刈るべきものは、『N−original』であり、こいつは、ターゲットですらない。ならば、『N−original』はどこにいる!?
 ドラ衛門は、無感情に、言い放った。
「お前はターゲットを間違えた。だから敗北する。So it goes.(そういうものだ)」
 『空気砲』が圧縮空気を射出する――― 雷管が、甲高い音を立てて、はじけ飛ぶ。

 次の瞬間、轟炎が、空間を舐めた。




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