え、と唇から声が零れそうになった。
 だが、その声を、百万の鈴が一斉に鳴らされるような音が、さえぎった。同時だった。出来杉がノビをかばい、抱きしめるようにして地面に押し倒す。視界に空が見える。『青』が視界をさえぎった。
 だが、その一瞬前に、ノビは見た。
 見てしまった。
 眼下の窓がいっせいに砕け散り、無数の水晶のようにきらめきながら、紅い炎に飲まれ、校庭へと飛び散る光景を。

 な、に?

 轟、と空気が渦巻く。フェンスが捻じ曲がり、倒れてきた。けれども出来杉の体にかばわれて、ノビは無事だった。骨の砕ける嫌な音がした。眼前の整った顔が苦痛に歪んだ。
 目が閉じられない。
 何が起こったのだ?
 視界いっぱいに広がった空に、ふいに、コーヒーにミルクを垂らしたように、黒煙が混じった。それは間違いだったろう。その色彩は形容のものとはかけ離れている。むしろ逆だといってもいいだろう。真っ黒な煙が空を舐める。春の始まりの青い空を。
 やや遅れて、悲鳴が聞こえてきた。悲鳴というのすら生ぬるい。それは絶叫だった。ノビは今まで聴いたことがなかった声――― 命を奪われていくものたちの、断末魔の絶叫だった。
「ぐ、ッ」
 すぐ側で、声が聞こえた。出来杉の声だ。ノビは我に返った。その瞬間、全身の血が凍りついたかのような感覚が襲い掛かってきた。
「な……ッ!! 出来杉くんッ!?」
 慌てて起き上がる。身体に覆いかぶさった薄い体温は、出来杉のものだ。ぱた、ぱた、と血が流れ落ちる。白い頬を血が伝っていた。指でソレをぬぐって、きょとん、とした顔をする。
 何をいったらいいのか分からない。何が起こったのかも分からない。とにかくも、ノビは震える膝を叱咤して立ち上がった。倒れたフェンスの下から出来杉を引きずり出す。
 頭上へと原油のような真っ黒い煙が昇っていく。ふいに濃密なガソリンの臭いが鼻を突いた。悲鳴は途切れ途切れに聞こえてくる。震える足で屋上のふちに近づき、見下ろすと、すべてのガラスが砕け散り、校庭に散乱していた。―――そして、熟れすぎてつぶれた苺のようなものも、いくつか、校庭にへばりついていた。
 思考が理解を拒んだ。だが、理性がそれを告げた。
 あれは、にんげんだ、と。
 ふいに、喉の奥から、大きな塊のように、吐き気がこみ上げた。ノビは口元を押さえる。口の中に胃液の酸っぱい味が染み出し、目に涙がにじんだ。
「な、に。……なん、なの」
 なにかが、爆発したのだ。そう悟る。
 だが、何が? ここは小学校だ。爆発するようなものなどあるのか? ……しかも、この臭いから推測すると。
「ガソ、リン?」
 誰かが、ガソリンをまいて、学校を爆破した?
 けれど――― 何のために?
 そこで、小さくうめき声が聞こえた。ノビは我に返る。
「で、出来杉くんっ!?」
 頭を押さえてうずくまっている。顔が苦しげに歪んでいた。頭を打ったのか。ノビは慌てて駆け寄った。けれど何も出来ない。知識程度はあった。人間は、頭に怪我をした場合、どれほど軽症に見えても、死に至ることすらあるのだと。
 助けを、呼ばないと。
「待ってて、すぐ、人を呼んでくるからっ!」
「の、ノビ、くん」
 弱弱しく出来杉が呼ぶ。けれど、ノビは振り返らなかった。全力で走り出す。階下へと。―――黒煙の渦巻くほうへと。


 階下へ降りた瞬間、喉を焼く煙が、視界をさえぎった。
「うッ……」
 割れた窓ガラスから煙が流れ出している。けれど、それすら僅かな気休めにしかならないほどの濃密な煙の中、床にガラスが散乱し、廊下は黒い煤にまみれていた。
 途中、六年生の教室の前を通りかかる。全身がじっとりと濡れた。濃密な水蒸気が立ちこめ、校内はまるでサウナのように暑い。否、熱い。部屋の中には濃密な煙が凝り、けれど、その向こうでも、床に折り重なって呻いている人影が見えた。全身にガラスの欠片を突き刺したもの。体が真っ黒く焦げたもの。後ずさった拍子に何かを踏みつけた。くしゃりとつぶれた、それは、たしかに五本の指をもっていた。
「―――ッ!!」
 胃袋がせりあがってくるような吐き気を、歯を食いしばってこらえる。代わりに目から、ぼろぼろと涙が零れた。 
「誰かっ…… 誰か! 先生、せんせい!!」
 返事はない。ただ、ぱりぱりと何かが燃える音が聞こえ、天井からぶら下がっていた蛍光灯が、何かに答えるようにぼたりと落ちた。この校内で五体満足で立っているのは自分だけだ。そう自覚した瞬間、脊髄の中を、凍てついた血が流れ落ちる。
 なぜ、誰もいない?
 なぜ、誰も返事をしない?
 これだけの大災害なのだ。絶対に誰かが気付くはず。まして、小学校は都会の真ん中なのだ。すぐに大人が来てくれる。そう思って、ノビは、込みあがる吐き気を、必死で飲み下した。
 足元でぱりぱりと何かが砕ける。よろめいた手が壁に付くと、指が真っ黒になった。
 とにかく、みんなを探さないと。みんなはどこだ? しず香は? 優は?
 必死で吐き気をこらえながら、階段を下っていく。濃密な煙のせいで激しくむせ返った。呼吸すら困難だった。―――けれど。
 目の前で、割れた蛍光灯の脇から垂れ下がった電線が、ぱちりとスパークした。
 その瞬間、煙のむこうに、人影が揺らめく。
 誰かが、立っている。
「しず香、ちゃ……!」
 そこに立っていたのは、少女だった。無事だ。ピンク色のセーターと、短いスカート。黒のニーハイソックスといういでたち。
「無事だったんだね、しず香ちゃん!?」
 ノビは、駆け寄ろうとする。けれど。
 そのとき、少女が、ゆらり、と手をもたげた。
 ―――その、瞬間だった。
「……!?」
 何かが、頚部を、強く圧迫した。
 白熱。まぶたの裏がスパークする。ノビはなすすべもなく背後に倒れた。地面に散乱したガラスが肘を切った。メガネが落ちた。かしゃん、と小さな音がする。
「かっ、はっ……!?」
 苦しい。
 何かが、首を、締め付けている。
 必死でその拘束を振りほどこうと喉を掻き毟ろうとする。その手が何かに触れた。―――それは、手だった。
 ノビは、『感じたもの』への激しい違和と共に、悟った。
 誰かの手が、首を、絞めている!!
「ふん」
 少女が、くすり、と小さく笑った。前に踏み出す。ぱきん、と裸足の足がガラスの欠片を踏み割る。
 ゆっくりとかざした手の優美さは、さながら、舞踏に定められた動作のそれのよう。その瞬間、頚部の圧迫が外れる。急速に肺へと空気が入り込む。油煙交じりの空気が。ノビは、全身を引きつらせながら、激しく咳き込んだ。
「便利だな、『幻肢痛』というものは」
「げん……? なに、言って、しず香ちゃ、」
「分かるかい、N−original。これが未来、貴様のもたらす災厄というものだよ」
 少女の顔が、憎憎しげに歪んだ。それは激しい怨念に歪まされた、ひどく醜い笑顔だった。少女は顔にかかる髪を払いのける。その目には凄惨な憎しみの色があった。ノビは全身が凍りついたように感じる。こんな目など知らない。このような目で見られるような思いなど、一回も、したことがない!
「N、オリジ…… 何言ってるんだよ!? ぜんぜんわかんないよ、しず香ちゃん!!」
「無邪気で愚かなN−original、教えてあげよう。これは貴様が未来にもたらす災厄なのだよ。より正確に言えば、君の子孫…… N−cloneT、そして、N−cloneUがね」
 少女はゆっくりと踏み出す。ノビは本能的な恐怖を覚える。思わず、後ずさると、ガラスの欠片が肘を切った。鋭い痛み。意識を明確にしてくれる。嫌でも現実を悟らされる。
 相手の目には、明らかに、『殺意』がある。
 ぼくを殺すつもりなんだ――― しず香ちゃんが!?
「何なんだよっ、しず香ちゃんッ!!」
 その呼び名に、少女は、なんら反応を示さなかった。それどころか、唇の端を歪めすらした。彼の愚かさを嘲笑するように。
「……ふむ。だが、この死に方では、少々具合が悪いな、N−original。貴様だけが殺人では困る。まったく不都合だ。貴様は『事故死』しなければいけない。この小学校を狙った、悪質なテロ行為によってな」
 また、少女が、手をもたげた。
 とっさに、ノビは、体が反応するのを感じた。意識するより早く、横に転がる。頬が切れる。けれど、同時に見た。
 宙に――― 何も無いはずの空中に、『手』が、生まれた。
「な……!?」
 チッ、と少女は舌打ちする。もう片腕を持ち上げる。その瞬間、ノビは、何かが自分の足をつかむのを感じた。そのまま、ものすごい力で振り回される。顔が地面に叩きつけられる――― そして、見た。
 宙から生えた『手』が、足を、つかんでいる!!
「ひ」
 ひたり、と、もう一本の手が、同じように足をつかんだ。力が篭る。逃れようと必死で床に立てた手は、虚しく地面をつかんだだけだった。必死で床を掻き毟る。だが、手は、人間とも思えない、凄まじい力で、ノビを引きずっていく。無我夢中でもがいた手が、何かを握り締めた。ガラスの欠片だった。ノビは、とっさに身体を翻し、その『手』に、ガラスを突きたてた。
 その瞬間、少女が、悲鳴を上げた。 
「くッ!!」
 少女は顔をゆがめ、自分の『手』を、抱え込んだ。
 だが、足をつかむ『手』は消えない。むしろほっそりとしているといってもいいその手。手首よりやや下辺りから、空に溶け込むようにして消えている手。ノビは、信じられない思いと共に、うっすらと理解する。あるいは、理解というには程遠い、ただの、直感というものだったのかもしれない。
 自分の足をつかむこの『手』は、まさか、少女の『手』なのか?
 少女は、また、チッ、と舌打ちをした。その瞬間、『手』はノビの身体を宙へとつかみ上げる。逆さ釣りに。ノビは必死でもがいた。だが、抵抗のしようがない。『手』はがっちりと足をつかんで固定している。半ば天井から吊るされるような形になったまま、ノビは、呆然と少女を見る。
「N−originalが……! 『不活性』のくせに、手こずらせる! くそっ、だから子どもの身体は嫌なんだ」
「なに、言ってん、の…… しず香ちゃん」
「N−original。貴様に罪は無い…… だが、『貴様の存在』は、それだけで災厄だ!」
 少女は憎しみに満ちた顔で、ノビを睨みつけた。
「貴様を消す! そして、おれは…… 平和な未来を取り戻すんだ!」
 ノビは、しばし、呆然としていた。
 彼女は一体、何を言っている?
 『罪』『災厄』?
 ぼくが、いったい、何をしたというのだ?
 ノビの視線がふとずれた。……そして、その瞬間、心が凍りついた。
 廊下に、小柄な少年が、倒れている。
 その、アーモンド・アイズが、吃驚したように丸く見開かれていた。褐色の肌が血にまみれていた―――
 ……そして、その首には、大きなガラスの破片が突き刺さり、大きな血溜まりの中に、彼自身をひたしていた。
 ノビは、声にならない声で、つぶやいた。
 ジャイアン。
 どうしたの、ジャイアン。
 なにをやってるの、そこで? なんで目を開けてるの? その血は何?
 ノビの視線の先に、少女が、なにげなく目をやる。そして、また、にやりと笑った。憎しみで歪んだ笑みを浮かべる。
「……これで、多少は理解できるか、N−original?」
「なんの、こと、なんだよ」
「これが、『災厄』というものだ」
 その瞬間、ノビの頭の中で、何かが、弾けた。
 ノビはぎりっ、と奥歯をかみ締めた。小さな火のようなものが胸の中に点る。それは、この悪夢のような状況の中で、たったひとつ、ノビに許されたもの――― 『怒り』だった。
 なんなんだ、この状況は?
 なぜ、ジャイアンが、死なないとならない?
 出来杉が――― クラスメイトたちが、他の生徒たちが、こんなにも酷い目にあわなければならない?
 その怒りがこみ上げるままに、ノビは、絶叫した。

「誰なんだよ、おまえ!!」

 少女は、ハッとしたようだった。ノビは吼えた。血を吐くように。
「おまえは、しず香ちゃんじゃない! 誰だ、お前!!」
 やや、少女が、呆然としたような顔をした。
 ……ややあって、くすり、と笑みを漏らした。歪んだ笑みを、ふたたび、唇に浮かべる。
「……ほう……」 
 ノビは硬く硬く歯を食いしばる。憎しみに歪んだ表情は、たしかに、自分の知っている少女のものではないと、あらためて確信する。
「さすが、子どもとはいえNシリーズだな。ならばお前はこの状況をどう解釈するんだ、N−original?」
 ノビは必死で考える。彼らは、さっき、なんと言った? 聞いたことも無い無数の単語。状況はほとんど理解を超えている。けれども。
「みんなを、殺したのは、おまえだ……」
「それで?」
 少女が、むしろ面白げに後を続けさせる。ノビは、拳を握り締めた。殺されるかもしれない。その怯えも、恐怖も吹き飛ばすように、腹の底から、声を絞り出す。絶叫する。

「しず香ちゃんの身体をのっとってるのは、お前だ!!」

 その瞬間――― パン、と鋭い音がして、赤いものが、はじけた。
「―――ッ!?」
 少女が、驚愕に顔をゆがめて、耳を押さえた。その瞬間、足を押さえていた『手』が消滅する。音を立ててノビの身体は地面に投げ出された。ノビは見た。少女の額が割れ、赤い血が流れ出していた。足元に落ちていたのは小さな瓦礫の欠片。少女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに、弾かれたように振り返った。
 キッ、と見上げた視線の先で、誰かが、壁によりかかるようにして、立っていた。線の細い、色の白い少年。血まみれの顔。
「できすぎ、く……」
 彼の手の中には、どこから外してきたのか、細長く裂かれた布のようなものがあった。彼はそこに手にした石を手挟み、勢い良く振り回し始める。ノビは知らなかったが、それは、ありあわせのものでとっさに作られた投石器(スリング)だったのだ。そして彼は、その有り合わせの武器で、間違いなく、少女の顔を狙うことが出来た。信じられない精密さ。
 出来杉は無表情に言った。
「"Neurological Zombie"にも行動原理は存在する」
 彼は、近くに落ちていた鉄の棒を拾い上げる。やや端の方をもって構える。それは、彼がその武器に熟達しているということを知らしめるほどに滑らかな動作だった。気付いた少女が顔色を変えた。その瞬間、出来杉は、叫びと共に、駆け出した。
「すなわち――― 世界歴史の求めるモノ!」
「チッ!!」
 まるで猛獣のようにしなやかな動作で跳躍する。ひといきに自らの手にした棒を、少女へと叩き込もうとする出来杉。それと少女が手をかざすのがほぼ同時。
 その瞬間、ノビは、反射的に、動いていた。
 まるで、『これから起こることを知っているかのように』。
 立ち上がり、地をけり、さえぎろうとする。
 出来杉へと向けられた、少女の、『視線』を。


 ―――そして、すべては、停止した。


 ノビは見た。
 自分の頚椎が砕け、喉が裂け、血が、いましも飛び散ろうとしている。既に飛沫した血の細かい粒が、ビーズのようにきらめきながら、宙に留まっていた。
 頚椎を握りつぶしているのは、『手』――― 少女の『手』。手首より下で消滅している、実在しない『手』。
 狙いは明らかに自分ではなかった。出来杉だった。だが、自分は確かに彼女を妨害した。……どうやって? 理解できない。
 すべてが見える。半ばよろめいた不自然な姿勢の出来杉も、空中で停止しているガラス片も、背後で顔をゆがめ、手を突き出している少女も。
 ぼくは死んだ――― とノビは思った。
 頚椎を完全に破壊されている。間違いなく、死んでいる。
 でも、死んでいるのだとしたら、なぜ、ぼくはものを考えられるんだろう?
 身体は動かない。指一本として動かせないけれど、縛り付けられているのでも、麻痺しているのでもない。痛みも無い。ただ、身体感覚そのものが、すっぽりと抜け落ちている。
 なぜ、時間が停止しているのだろうか、とノビはぼんやりと思った。
 声にすらならない問いかけに、なぜか、答えが返った。……低い、かすれたバリトンが。
「それは、これがお前の『世界崩落体験』が作り出す、イメージに過ぎないからだ」
 ノビは視線を動かせない。けれど、確かにその存在を、『感じた』。
 誰かが立っている。その存在感。おそらく、190cmを超える長躯。鍛え抜かれた全身の筋肉。精悍な顔立ち。そして、まるでプラスチックのような、異様なまでに鮮やかなケミカル・ブルーの髪。
 見たことのある男だった。誰だろうか。
「N−original」
 男は、ゆっくりと歩いてくる。地面を踏みしめる足の強靭さ。その狂いの無い正確さ。
 ノビは男の足音を聞く。正確なリズムを。そこから伝わってくる、猫科の獣のような、しなやかな全身の動きを。
「……俺はお前を『守る』ために、ここに、来た」
 稟、と何かの音が響いた―――
 その瞬間、すべてが、解凍された。



back next
top