2.

 猛と信の付き合いは、まだ、そう長くはない。高校に進学してからほんの一月。それからさらに半年ほど前、進学のため、近くの学習塾に通っているときからの仲だ。
 猛の第一印象は、一言で言うと、『怖い』の一言に尽きる。
 私服姿はほとんど見ず、ほとんど常に制服、それも、この鶴岡らしい伝統的な学校の詰襟の学生服である。それにいまどきかぶっている人のほうが珍しいような学帽をかぶった姿は、ほとんど、『学生』というより『軍人』といったほうが正しい。そして、猛は『一刀流』という名前の古い道場の一人息子だった。
 そして、猛の正体が、ここらでは知らないものの方が珍しい、『帝国軍人の亡霊』である、ということを信が知ったのも、それから間もないことだった。
 常に一部の隙も無い黒い詰襟の学生服姿。そして、学帽をかぶった姿は、確かに学生というよりは『帝国軍人』といった風な風貌である。もとより怪談などの多い鶴岡市という風土の元で、異常なまでの強さと、そして、片手に竹刀を引っさげたという独特の風貌を持った人々は、彼のことを実在の人物ではなく『亡霊』であると誤解する。そして猛は悪を正す人だった。みだりに人に暴力を振るうようなもの、弱いものを虐げるようなものを、猛は決して許さない。そして、『触れただけで』相手を倒すという奇妙な術を身に付けた猛は、その結果、信が知り合ったその時点で、ほとんど伝説の存在と化しつつあったのだった。
 しかし、猛はこれでも立派に生身の人間だった。そして、見た目だととても信じられないが――― 間違いなく、まだ、16歳になったばかりの、少年であったのだ。
 不良少年たちを倒した猛は、けれど、そのままコンビニにも立ち寄らず、まっすぐに歩き出す。信は慌てて後を追った。歩幅がまるで違うから、ほとんど信は小走りになる。
「ね、ねえ、鳴神くん、ありがとう」
「礼にはおよばん」
 ぼそり、つぶやく。恩に着せるようなところがまるでない。
 寡黙でとっつきにくい、もっと言うのなら『怖い』印象のある猛だが、けれど、それが彼の性根ではないということは、今までの付き合いの中で、信は十分に承知していた。だから続けて話しかける。
「でも、すごく助かった。相変わらず鳴神くんってすごいね…… どうやってるの、あれ?」
 たしかに猛は純粋に身体能力でも常人離れをしている。だが、さきほど見せた『技』は、それをさらに凌駕していた。単に触れるだけに等しい掌底で、あるいは肘で、次々と男たちが倒れていく。常人の技ではない。
 だが、信の問いに、猛は答えない。ふと、ぴたりと足を止めた。ほとんど人影も無い、街灯が丸く輪を落とすばかりの夜道である。五月の若緑の匂いが、むせ返るほどに濃厚に立ち込める。
「すまん、蓮室」
 短く、猛は言った。
「巻き込んだ」
「え、なに、それ」
「俺の後ろに隠れていろ。……来る!!」
 なにが、と信が問いかけようとした、瞬間だった。
 闇を切り裂くようにして、銀色に光るものが、飛来した!
「!!」
 ギィン、ギィン、ギィン、と甲高い金属音を立てて、眼にも留まらぬ速さで振るわれた猛の竹刀が、飛来したものを叩きとおす。弾き飛ばされたものの一つが近くのアスファルトへと飛んだ。アスファルトがはじけ、半ばほどまで地面に食い込む。信は目を疑った。それは、外周を刃と加工した、丸い刃の輪のような、奇妙なものだったのだ。
「な、……な」
 猛は正眼に竹刀をかまえていた。竹刀には傷一つない。アスファルトを切り裂くほどの威力を持った、刃の輪を弾き返したにもかかわらず。
「出て来い」
 猛は、低い声で言った。
「俺は逃げも隠れもせん。貴様らにも武人の誇りというものがあるのなら、正々堂々と姿を見せろ!」
 その声は周囲の闇を圧するように凛と響いた。そして、ややあって、闇の中から、奇妙極まりない姿の男たちが、次々と、剽悍なすばやさで現れたのだ。
 信は目を疑う。それは、『ここにいる』ということのほうが冗談のような姿の男たち。その姿は三つ。
 それぞれが黄色い繻子(しゅす)で出来た、ゆったりとした中華服のようなものを着ていた。功夫服、とでも言うのか。そして、皆が顔に極彩色で彩られた、京劇で用いるような仮面をかぶっている。手にはそれぞれの得物。鎖を持ったもの、棒を持ったもの、刀を持ったもの。
 軽やかな所作は、まるで体重というものを持たぬよう。いっそ、軽業めいて見えた。彼らは森を背にし、そして、信を背にした猛の様子を伺うように、じりじりと輪を詰めてくる。猛は正眼に構えた竹刀、そして、あたりを油断無く見回す眼に、強い闘志を光らせていた。
「本家の刺客…… 戦う意思はない、といっても、もはや無駄なようだな」
 いや、と猛は呟いた。その薄い唇の端が吊りあがる。信にとって、はじめて見る表情だった。
 それは、笑み。
 闘いの喜びに満ちた、いっそ、獰猛といっていいほどの笑みだ。
「一刀流、鳴神猛…… 参る!」
 踏み込んだ――― ほとんど、10mほどの距離を、『一歩』のうちに踏み入ったように、信には見えた。
「な……ッ!?」
 信は知らぬ。それは、剣術の奥義がひとつとされる、『縮地』という技。まるで地を縮めるがごとく、常人の一歩には到底不可能なほどの距離を、一気に肉薄する。
 肉薄されたのは、棒の男である。男はふいをつかれたようだった。だが、その棒を横に構えて受けようとする。だが、猛の竹刀は、さながら刃を備えた業物のごとく、男の棒を『一刀両断』にした。
 真っ二つに叩き切られた棒―――
 男は猛の振りぬいた竹刀を、肩から受ける。血が飛沫することはない。だが、その衝撃はあまりに大きい。ぐらり、とよろめく男。だが男も功夫を極めていた。竹刀である、と見て取って、猛の竹刀に両手で掴みかかったのだ。
 意識もすでに朦朧としている。猛ならばたやすく振りほどける程度の抵抗である。だが、その隙を残りの二人は見逃さない。剣の男と鎖の男、二人の男が鮮やかな連携で飛び掛る。
 分銅鎖が、宙を舞う。
 鎖は、猛の首に絡みついた。両腕は竹刀、首は鎖。動きを封じられる。そこに剣の男が踊りかかる。刺突。猛の胴を串刺しにしようと、まっすぐに向かった。
 だが、猛は。
 その瞬間、片手を竹刀から、離していた。
 左腕が、剣を受けた。
 剣が、腕に突き刺さり、血がしぶく。
「!!」
 思わず信は声を上げそうになった。
 だが、猛の表情は、闘争本能に充たされたまま、揺るがない。猛の胴を貫通するはずの力が込められていた剣は、だが、猛の腕を貫き通すことすらできなかった。剣はそこで止まる。
 猛は、己の負傷をものともせず、己が剣を猛の左手に奪われた男の胴へと……
 足が、勢いよく、振り上げられる。
 鈍い音がした。
 男は己の剣を信じ、ガードを失っていた。猛の中段の蹴りは剣の男の腹に、正面から食い込んだ。
 勢いのままに男は背後に吹き飛ばされる。地面に倒れこんだ。鎖の男の顔は仮面に覆われている。表情は見えない。だが、そこにはあきらかに狼狽の色があった。
 彼らはあきらかに、猛の実力を、過小評価していたのだ。たかが16歳の少年、しかも、武器といえそうなものならば、殺傷能力を無くすことを目的とした竹刀一本だと。武器を手にした己ら、しかも複数でかかれば物の数でもないとでも思っていたのであろう。
 あきらかに、間違いであった。
 猛は棒の男の手から竹刀を奪い返すと、鎖の男のほうへと『正面から』一歩を踏み込んだ。踏み込みがそのまま一気に距離を詰めた。『縮地』。同じく、まるで瞬間移動したかと思うほどの速さだった。鎖がたわむ。首に絡んだ鎖がゆるむ。鎖の男はそこであきらかに判断を間違えた。
 鎖を解くことなく、引き絞ることによって、『猛の首を絞め潰そう』としたのだ。
 だが、男が鎖を引く早さが、そのまま、猛の踏み込みのスピードを、倍化した。
 片手で構えられた竹刀。それが、上段に振りかざされる。
 信は、猛の顔に、明らかに『闘いの喜び』を見た。

 パァン、という高らかな音が、闇に響いた。

 男の、笑みをかたどった極彩色の仮面が、真っ二つに割れ、落ちる。
 現れた男の顔は――― あきらかに、驚愕の色を浮かべていた。
 鎖の男の体が、ぐらりとゆらぎ、倒れる。
 猛は、振りぬいた竹刀を、ゆっくりと戻した。
 三人の男が、アスファルトに倒れ付していた。
 信は、あまりのことに、声も出ない。
 左腕から血が流れている…… 猛は、わずかに顔をしかめた。これでは両腕で満足に竹刀が握れぬ、と思ったのだろう。
 キッ、と顔を上げた猛は―――
 闇へ向かって、吼えた。

「劉溟牙!!」

 なにを、と信は思った。
 だが、ややあって、パチ、パチ、パチ、という拍手の音が聞こえてくる。
「―――腕は衰えてはいないようだな、鳴神猛」
 声が闇に響いた。美声であった。まるで古く芳醇な酒のよう、あるいは手触りの滑らかな天鵞布のよう。あるいは…… 研ぎ澄まされた刃が、血に滑って帯びる、輝きのよう。
 闇の中から、一人の男が歩み出してくる。
 信は、顔を厳しく引き締めて立つ猛の前で、ただ、呆然と『男』の登場を見た。
 巨躯――― と言っても、よいのかもしれない。
 艶のある黒い絹繻子に、同じく黒い絹糸で縫い取られた龍がきらめく。ゆったりとした洋袴は銀鼠色だった。けれど、その高価だが控えめな衣服が、さらに華美を際立たせる。それは、そういう類の男であった。
 猛よりも、さらに上背があろう。どう見ても190cmは超えている。
 にも関わらず、まるで、傾城さながらの妖艶さすらそなえた、それは、男だった。
 獅子の鬣にも似た豊かな髪は、黄金。
 膚は白磁器もかくやと思わせるほどの滑らかさ。
 そして、猫科の獣のように、きつく吊りあがった瞳の色は、紅蓮。人に在らざる鮮やか過ぎる色彩。
 信は呆然と男の美貌に意識を奪われる。その美貌ゆえに意識に上らぬが、それは、逞しく鍛え抜かれた巨躯の男である。
 ゆったりとした衣服に隠れていても、鍛え抜かれた筋肉で鎧われた身体は分かった。二の腕の太さなど、ほとんど、女の太ももほどもあろう。にもかかわらず、男の所作は滑らかだった。巨漢にありがちな鈍重な印象など、欠片も無い。
 猛は、ぎりぎりと奥歯を噛み締めて、男を睨みつけている。
 そこにある表情もまた、今まで、信が猛の面の上に、見たことの無いものだった。
「鳴神猛」
 男は、その美声に嘲りを滲ませて、猛を呼ぶ。
「これでも、それなりに『出来る』つもりの連中だったのだがな? 貴様にとってはたやすかろう。……その血は少々見苦しくはあるが、な」
「何をしにきた」
 猛の声は堅い。
「何の予告もなしに刺客を差し向けて、何のつもりだ。俺は貴様らにかかずらうつもりなどない」
「そう嫌ってくれるな、鳴神猛よ。これは俺の配下ではない」
 男は、そう言って、無造作に足元に転がっていた男の一人を踏みつける。ごきり、と鈍い音がした。信は思わず手で口を覆い、猛はわずかに眉宇をゆがめる。
「『本家』で、こちらの意向に沿わぬ連中の差し向けた手合いよ。俺は貴様に手助けをしてやろうと来たのさ」
「……?」
 猛の顔に、いぶかしむような色が浮かぶ。ますます分からないのは信だ。頭の中が混乱して、何が起こっているのやらさっぱりわからない。
 ――-ええと、僕は今日、天体観測に出ようと思って外に出たら不良に絡まれて、それを猛くんがやっつけてくれて、それから猛くんに変な格好の人たちが襲い掛かってきて、それからこの人が猛くんになにか関係のある人で……?
 そもそも、『中華服を着た、金髪超美形の、筋骨隆々たる大男』である。
 現代日本にそんなのがいること自体が、間違っている。80年代の少年漫画ならともかく。
 猛は、彼の名を、『劉……』なんと呼んだか。
「りゅう、みょうが?」
 こころもとなく信が呟いた瞬間、男の紅蓮の目が、信を見た。
 信は蛇に睨まれた蛙のようにすくみあがった。
「『それ』はなんだ」
「俺の友人だ」
「……ふん。貧相なガキだ」
 すごく失礼なことを言われた気がするが、なにせ、相手が相手である。文句をつけることすら恐ろしい。猛の後ろでガタガタ震えている信をゴミでも見るような眼で一瞥して、それから、男は猛に目を戻した。
「あのおいぼれから、まだ話は聞いていないのか」
「祖父がどうした」
 くくっ、と男は哂う。そして口を開こうとした。そのときだった。
「そこから先はワシが話そう」
 背後から、また、一つの人影が現れる。
 今度は、老人であった。
 髪が白い。背はまっすぐに伸びていたが、小柄だった。身長だけならせいぜいが信と同じ程度だろう。いかにも好々爺然とした風貌で、渋い茶色の作務衣を着ていた。「祖父上」と猛が眉を寄せる。
「な、鳴神くんのおじいさん…… なの?」
 猛はわずかに顎を引いた。老人は、ほっほっほ、と笑った。
「いやあ、これはずいぶん。だが一太刀喰らったか、猛。修行が足りんぞ」
「……」
 猛は苦虫を噛み潰したような顔になる。老人はぐるりと三人を見渡した。
「まあ、このような場所で話すようなことでもない。拙宅へいらっしゃれ、溟牙殿。粗茶の準備も御座るでな」
「よかろう」
 男…… 溟牙はあくまで傲然と答えた。
「猛も…… あと、そちらのお前さんも来なされ。今宵はどうにも剣呑じゃ。また誰やらに絡まれでもしたら事だからの」
 事実だ。ほかにまだ、さっきの仮面の連中みたいなのがうろついていないとも限らない。信はためらいながら、うなずいた。
 
 


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