3.

 
 猛の家をたずねるのは、初めてだった。
 山間の日本家屋である。梅が青い実をつけている。傍らには道場があり、建物自体は由緒正しい…… というより、ひどく古いものだと知れた。
 通された一間は、客間らしい部屋だった。床の間には信には読めない字の掛け軸がかけられており、片付いているが、畳は日焼けし擦り切れていた。塗りの卓の前で茶を進められた信は、肩をすくめながら左右を見回す。上座に溟牙が座り、下座で猛が苦虫を噛み潰したような顔をしていた。ちなみに学帽はかぶったままだ。
 正しい日本家屋――― 溟牙がいることが、いかにも、不釣合いである。
 座布団の上にちょこんと座った老人は、「さて」と口火を切った。
「ワシは一刀流なら現当主、鳴神重次郎と申す。老骨ではあるものの、息子にも、嫁にも先立たれての。先代はうちの女房だったんじゃが、あれももう十年も前に逝ってしもうた。……さて、余計なことじゃの」
 ず、と老人はお茶をすする。
「さて、ここにおるのが次代当主のわが孫よ、名は鳴神猛、年は今年で16になる」
 きちりと膝をそろえて端座した猛は、しかし、卓越しに強く溟牙を睨みつけている。傍らには竹刀が置かれ、今にもそこに手を掛けそうだ。お茶を飲みながら四方山話、という雰囲気ではとうていない。
 その猛を見ながら、逆に溟牙は、唇に嘲るような笑みを浮かべ、どうどうと胡坐をかいて座っていた。
「俺は劉溟牙。青華龍神拳の師父と呼ばれる身分のものよ。武闘派の筆頭に数えられてもいる。いわば、流派を継ぐ身だ」
 傲慢、というよりも、そこには矜持の色が濃い。確かに己で言うとおりの身の上なのだろう、と思わせる空気がそこにあった。紅い唇に片笑みを浮かべて猛を見る。軽く顎をそびやかすと、猛が僅かに眉を動かした。
 まさしく、一触即発。
 信ははらはらしながらそこに座っていることしか出来ない。
 しかし、猛の祖父こと重次郎は飄々としたものだ。
「さて、我らが一刀流は古き流派よ。一子相伝を貫き通し、今の世に至っても陋屋に住まってはいるが、開祖は今を去る室町の世にまでさかのぼる。そうして開祖、鳴神天牙は、元々は中国より渡ってきたと伝えられておる」
「劉天牙は、我らが流派の裏切り者よ」
 あえてその名を呼び変えて、溟牙は侮蔑するように言い放った。
「功夫を極めた武仙と讃えられながら、何が不満だったのか、東夷に行方をくらまして、その奥義も共に散逸した。……ところが、その劉天牙の奥義が、このような東の果てに伝えられていたと後に知れた」
 猛が短く言った。
「一人を失う程度で損なわれるような流儀ならば、所詮、其程度だったということだ」
 眼を上げると、溟牙を睨む。溟牙もまた笑みを消して猛をねめつける。漆黒の瞳と紅蓮の瞳、その眼差しが交錯した。空気に緊張が満ちる。
 今にも猛が立ち上がり、抜き打ちに溟牙に撃ちかかるのでは、と信は心臓がバクバクと撃ち始めるのを感じる。そうなったら双方無事では済むまい。そういう雰囲気がそこにはある。
 だが、重次郎が次に言ったのは、まったくその逆とも言える言葉だった。
「しかし、いまさら戦いの世でもなかろう」
「……え」
「猛、溟牙殿は、和睦のためにいらっしゃったのじゃ」
 祖父の言葉に、猛はややあっけにとられたような顔をする。溟牙は唇を吊り上げると、懐から巻き紙のようなものをだし、卓の上においた。錦で彩られた華美な文書である。大時代にも、絹の打ち紐には、翡翠の飾りが付けられている。
 重次郎はすでにその中身を知っているのだろう。だが、形式のため、といったしぐさで巻物を受け取る。くるりと開くと紙は純白。水茎のあとも麗しく、つづられた文字の最後に、誰のものかよく分からない印がはっきりと押されていた。
「ここにはこう書いてある…… 青華龍神拳は我らが一刀流を分派と認める。よって、双方の今後の功夫を極めるためにも、二つの流派を一つとするがよろしいだろうと」
 そのために、と重次郎は言う。


「よって、その証とするために、劉溟牙、鳴神猛両名を婚姻させ、さらに、その子孫を持って双派の後継者と成すものとする」


 ―――かこん、と自分の顎が外れる音を、信は聞いたような気がした。
 かるくオレンジは入りそうなくらい、口が開いた。
 今、このご老体は、一体何を言ったのだ?
 重次郎はくるくると巻物を巻きなおしながら、うってかわって、カジュアルな口調で言った。
「まあ、つまり、この溟牙殿と猛が結婚し、和平のために子作りせよ、と言うことじゃのー」
「ちょっ…… まっ……!?」
 思わず信は立ち上がる。空になっていた茶碗が倒れた。
「けけけけけ結婚!? 鳴神くんとこの人が!?」
「やかましいぞ、小童が」
 溟牙は不快そうに言うが、しかし、この衝撃ばっかりは、溟牙の怖さも退けた。
 信は首を左右にぶんぶんとめぐらせて、猛と、溟牙とを見比べた。
 片や、さながら明治の帝国軍人さながらの、凛々しくも逞しい武人である。
 片や、獅子の金髪を持つ、身長は190cmも超えたと思われる、筋骨隆々とした武芸者である。
 男である。……否、漢である。
「気に入らない」
 ぼそり、猛が呟いた。信は思わず顔を輝かせて猛を見る。よかった。猛くんは正気だった。
 しかし。
「貴様は気に入らん。ならば、信と結ばれるほうがまだ良い。ほかのヤツならいざ知らず、貴様だけはごめん蒙る」
 信のはかない期待は、木っ端微塵に打ち砕かれた。
「―――-ッ!?」
 男だってところには、突っ込まないのか!?
 ふむー、と重次郎は腕を組んだ。
「気に入らんか、猛」
「気に入らん」
「貴様の身分で伴侶が選べるとでも思うのか、鳴神猛」
 ニヤニヤと笑みを浮かべている溟牙の唇から、とがった八重歯が、むしろ、牙のように覗いていた。
「本家の決めたことに貴様ごときが逆らえるとでも思うのか。逆らえばこのような弱小流派など簡単に潰せるわ。貴様は何も逆らわずさっさと俺のものになり、俺の子を孕むがいい!」
 寸暇入れず、猛が怒鳴り返した。
「断る!」
 断らなくたって、最初から無理である。
 猛が抜き打ちで立ち上がると、同時に、溟牙も立っていた。双方、とにかく身長がデカい。天井に頭が付きそうな大男である。家がミニチュアに見える。太股など、ほとんど丸太のようである。双方身体を布で覆っているから分からないが、脱がせればアーノルド・シュワルツネッガーも裸足で逃げ出すような堂々たるマッチョであるのは間違いない。
 信は思わず泡を吹きそうになった。
 結婚?
 この二人が、なんで結婚?
「やかましいのう」
 重次郎は若人二人の険悪な空気を気にもせず、いつの間にやらもふもふと最中を食っていた。
「まあ、ケンカするほど仲が良いとも言うからのー。まあ、幸先の良いスタートって所かのう」
「ぜッッたい違いますッ!!」
 思わず絶叫する信に、重次郎は、同情するような目を向けた。
「と、言うわけで、猛はすでにいいなずけが決まってしまってるのじゃよ…… すまんのう。まあ、猛のことだからきっと清い交際をしていたと思うんで、思い切って、犬に噛まれたと思ってきっぱりと手を切ってくれないかのう」
「……」
 くらあっ、と世界がゆれた気がした。
 重次郎は、いかにも同情するような風情で、うんうんと一人合点にうなずく。
「まあ、年は離れておるが、ワシだってまだまだ捨てたモンじゃない。猛の埋め合わせはワシがしよう。ちゃんと誕生日プレゼントだってプレゼントするし、クリスマスにはロマンたっぷりのでーとこーすを企画しよう! 大丈夫、すでにばあさんが死んでから10年も立っているから、不倫にはならな……」
「ぼくは男ですッ!!」
 信が怒鳴った瞬間、重次郎は、ぴしっ、と凍りついた。
「……お、男? 男なの?」
「ええ男ですよ生まれたときから立派な男ですッ!! だいたい男じゃないと鳴神くんの同級生になれないでしょうがッ!!」
 ―――何しろ、二人は同じ男子校に通う仲なのだから。
 重次郎は、あんぐりと口を開けて、信を見る。上から下までを唖然としたように見回す。
「そ、そんなに可愛いのに…… 可愛いのにっ、股間には『ぱおーん』が付いてるのかッ!?」
「ええ付いてますよッ!」
 怒鳴り返す信もいい加減ヤケクソだ。重次郎はショックを受けたようによろりとよろめいた。
 勘違いされるのはいつものことだが、今回ばっかりはしゃれにならない、と信は思った。
「表に出ろ」 
 猛が低い声で言う。
「ふふん、雑魚が。いきがるな」
 溟牙があざ笑うように答えた。
「よかろう、実力の差というものを、思い知らせてやる」
 片手に竹刀をひっさげた猛、そして、溟牙が、庭のほうへと出て行く。呆然と信はその後姿を見送るしかない。
 重次郎はしくしくと泣いていたが、この場合、老人に優しく、なんていう精神の入り込む余地が無いのは明らかだった。
「おじいさん!!」
 信はあわてて卓を回り込み、重次郎の肩をひっつかみ、がくがくと前後に揺さぶった。
「結婚って! 結婚って!! だいたいあの二人、どこからどう見たって両方男じゃないですか!!」
 ―――しかも、筋肉隆々たるマッチョメンである。
「あの人、孕ませるって…… むりですよ鳴神くんにどうやって子どもを産ませる気なんですか!?」
「いやまあ、ワシ的にはむしろ溟牙殿に産んでもらったほうが……」
「無理ですよ―――ッ!!」
 庭から、何か、モノの壊れる音が聞こえてきた。裂帛の気合が迸り、地面が割れ、岩が砕ける。
 何をやっているのか、怖くて、見る気にもなれない。
 信は、まず、息を吸って、吐いた。なんとか心を落ち着かせる。
「……そのそも、あの二人、どういう関係なんですか」
「んー、まあ、いわゆる一つの好敵手というか……」
 やっと信の性別が判明したショックから立ち直ってきたらしい。重次郎はポリポリと頬を掻く。
「ウチと向こうとは、ここ数十年ほど、ずーっと仲が悪くてのおー。何回も向こうの刺客が送られてきて、そのたびに勝つの勝たないので大騒ぎをしとったのよ」
 それなんて格闘漫画。
「で、うちのばあさんと息子…… まあ、猛の父親だわな。が、亡くなってからはこっち、猛とワシで刺客に対応しとったのよ。で、溟牙殿と猛のヤツは何回も仕合っててのー。まあ、勝率はあきらかに溟牙殿のほうが上だったんじゃが、ありゃ、年齢のせいもどうしてもあるのお。で、猛にとっては、溟牙殿は超えるべき壁的な存在だったわけじゃ」
 でも、と重次郎は言った。
「結婚しちゃえば、もう、そういうのも関係なくなるがのう…… 夫婦喧嘩以外は」
「結婚っていう前提から離れてくださいよ!」
「いや、まあ、結婚は出来ん。日本も中国も法律で同性の結婚を認めておらんからの」
 やっとまともな台詞が出てきた、と思った次の瞬間に。
「でも、いわゆる野合…… 今の言葉で言う『事実婚』ってヤツでも、子作りさえできれば、問題ないわけじゃよ。まあ、猛の年だと必然的にはそういうことになってしまうのが不憫じゃがのう。ここはひとつ諦めて……」
 信は重次郎の襟首を掴んだまま、絶叫した。
「できませんよ!! 両方男じゃないですか!!」
 だが、重次郎は知らぬふりでそっぽを向く。ぴゅーぴゅぴゅー、などと口笛を吹く。
「……まあ、猛のヤツには、溟牙殿に身ごもってもらうだけの甲斐性はないやもしれんかのー。わが孫ながら情け無い。猛のヤツ、ワシに似て顔は悪くはないんだけどのう」
 ぬかに腕押し、暖簾に釘、という言葉が頭の中をよぎった。
 何か庭だと、庭の生垣まで突き破った二人が、さらに遠くまで戦いの場を広げているようだった。電線の上を走っている巨漢の姿が見えた気がするが、信はむりやり視界から抹消した。というよりも、抹消したかった。
 あの二人が結婚――― もとい子作り。
 物理的に、どう考えても無理である。
 並べただけでも、むさくるしくて仕方がないというのに。
 ふう、とため息が傍らから聞こえた。胸の辺りに何かを感じる。何かと思ったら、ご老体が後ろからさわさわと信の胸に触っているのだった。重次郎はいかにも悲しそうに眉毛を下げて、嘆き哀しむ。
「……おおぅ。本ッ当に、なーんにも無いんじゃのぉ……」
「な……なにするんですかーッ!!」
 その手がさらに下まで来そうな気配を感じて、信は思わず絶叫した。とっさに腕を振り上げて、ぶん殴ろうとする。だが、重次郎の指がぴたりと二の腕に触れると、そこで、腕が完全に止められた。
「!?」
 何が起こったのか、分からない。
 重次郎は、ニヤリとわらった。
「お名前はなんというのかね、若いの」
「は、蓮室、信…… です」
「では信殿、今日はもう帰りなされ。あれはちょっとしばらくおさまりそうにないからのー。剣呑で仕方が無いわい」
 庭のほう…… というよりも、すでに庭ですらない。丸く巨大な月の下、屋根から屋根へと影が飛び移る。人間とはとうてい思えない身軽さである。
 はたして、何がどうなればああなるというのか。
 丸い月を背後に、さながら古代中国の武侠のごとくに、鮮やかに雄雄しく舞い踊る、二人の武闘家。
 そして二人は、家が決めた許婚。
 悪夢だと――― 思いたい。
「まあ信殿、これからも猛をヨロシクの!」
 もはや灰のようになった信の肩が、ぽん、と重次郎に叩かれる。
 

 しかし――― 本当の悪夢の始まりは、これからだったのである。




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