4.


 翌朝。
 ―――学校へと向かう信の足取りは、限りなく重かった。昨晩は一睡もできなかったのである。
 昨晩の出来事が、あまりに衝撃的過ぎて。
「結婚って…… 子作りって……」
 ぶつぶつと呟きながら緑も鮮やかな古都の道を歩む信。左右を追い越していく自転車に乗ったり徒歩だったりの男子生徒たち。彼らはみんな、信や猛と同じ、私立鶴岡学園高等部の生徒たちだった。
 私立鶴岡学園高等部。いわゆるひとつの名門私立男子校、というものである。
 創立ははるか明治も冒頭以前にさかのぼり、創始時代は何とか塾だとか藩校だったか忘れたが、とにかく、武家の子弟を教育することを目的とした学校だったと聞く。武威った風があるのは実はいまだにで、ほんの十数年前まではいまや絶滅危惧種どころか完全絶滅が認められた『バンカラ』という類の学生が生息していたとも聞く。しかし、絶滅したからといって惜しまれる類の人種ではないので、今の鶴岡学園だと、彼らのことを口にする人はいないに等しい。
 それぞれお互いに声を掛け合いながら長い坂道を歩く生徒たちは、皆が同じ、いまどきレトロな黒の詰襟学生服をまとっていた。所謂学ランというヤツだ。実は制服には制帽もセットになっているのだが、これは卒業式などの儀式の類があるとき以外だと着用を義務付けられないため、普段から身に付けているヤツはほとんどいない。―――正確には若干名しかいない。そして、その中の数少ない一人が、鳴神猛という人間だった。
 思い出すだけで、信は、ずーんと暗く落ち込んだ。
 今日…… どんな顔をして鳴神くんに会えばいいんだよ。
 信がそう落ち込んでいるときに、いきなり、背後からむぎゅっと尻を掴まれた。
「!?」
「おっはよー、マコ姫☆」
 思わず硬直する信の尻を、いまだにニギニギと握っている男がいた。信は振り返りざまに手にした学生鞄を叩きつけようとする。が、虚しくも空振り。さっさと逃げ出していた相手は、はっはっは、と嬉しそうに笑った。
「イエーイ、生ケツゲットぉ!」
「安藤くん!!」
 思わず怒声を上げる信にも構わず、ひゅーひゅーと快哉を上げているのは、真っ赤な髪をした男子生徒だ。顔立ちは実は悪くないが、しかし、この破廉恥行為ですべてが帳消し、どころかマイナスである。ちなみに髪に加えて目は茶色と双方日本人離れした色彩だが、実はこれもれっきとした地色なのだ。安藤・M・耕太郎――― 信の同級生である。
「なんだなんだ、油断してんなぁ、蓮室ー。久しぶりの白星だぜ、オレ」
「……男のお尻なんて揉んで、何が楽しいんだよ」
 信が言うと、耕太郎は、いかにも悲しそうに眉を下げて、チッチッチ、と指を左右に振った。
「違うぜ、蓮室。その逆だ。……男の身体には、『ケツ』くらいしか、揉んで楽しい場所がない」
「……」
「しかも筋肉のついた堅いケツなんて、揉んでも何も楽しくない。適度に肉がついててふくよかで、張りがあってキュッとあがっていて、こぶりながら適度なやわらかさが魅力的…… そういうケツじゃないと、揉む甲斐が無いんだよ!」
 拳を握り締めて力説する耕太郎。いつものことだが、信はすでに頭が痛くなってきた。
「ああっ、なんでウチは男子しかいないんだよー! くそー! どこにいるんだ、おなごは! おなごがいないと生きている甲斐が無い!!」
「男子校に女子がいたらおかしいよ……」
「だからマコ姫のおケツ様でせめてもこのオレの乾いたハートを慰め……」
「慰めるなーッ!!」
 今度こそ振り上げた鞄が耕太郎の顔にクリーンヒットした。しないほうが嘘である。毎朝毎朝同じやり取りを繰り返して、はや、一月…… 高等部に進学してから初めて知り合った、とは思えないほどの仲だが、しかし、これでも信と耕太郎はちゃんとれっきとした友人関係、もっと言うならクラスメイトなのであった。
 安藤・M・耕太郎。別名スケベ神。この場合の神は、『貧乏神』とか、『疫病神』の神、にあたる。
 この年にしてハレンチ行為をとがめられ、補導経験すでに数回。息子が犯罪者になることを危惧した両親が、もっともリビドーに満ち溢れた年代を(周りにとって)安全な環境で過ごさせるべくこの学校に入れた、と専らの評判のスケベ男である。
 しかし、女の子がいないからってぼくで代用しなくたって…… と思い始めたところで、信の思考回路がスタートに戻る。
 男→女の子の代用→結婚→子作り。
 がっくりと肩を落とす信に、さすがの耕太郎も怪訝そうな顔をした。
「どうしたんだよ、蓮室。痴漢にでもあったか?」
「あったよ。たった今」
 投げやりに返事をしているうちに、足はすでに校庭を横切っている。下足室は学ランの男子高校生たちでごったがえし、なにやら土臭く、また、汗臭い。朝練帰りとおぼしいユニフォーム姿の生徒たちもあちこちに見受けられる。野球部だの柔道部だのテニス部だの。鶴岡学園はスポーツの名門校としても、古くから名高いのだ。これもこの武威った校風ゆえか。
 スニーカーを脱ぎながら、信は昨日のことをどう説明しようか、とぐだぐだと悩んだ。
 そのまま言ったところで、信じてもらえるとは思えない―――
「昨日ね、鳴神くんと夜中にコンビニであったんだけど」
「へー、また星? 好きだなぁ蓮室」
「まあね。で、そこでちょっとアブナイ人達に絡まれたんだけど、鳴神くんが助けてくれたんだ」
「そりゃまた鳴神らしい」
 耕太郎もこきたないスニーカーを靴箱に押し込み、代わりにかかとを踏み潰した上靴を引っ張り出してくる。
「で、そのあと鳴神くんと一緒にいたら、なんか変な人たちが襲ってきて……」
「変なって、なんだよ。ショッカーの戦闘員みたいなのとか?」
 そうだったほうがまだマシだったかもしれない。
 信はぼそぼそと言う。信頼してもらえない、と思いながら。
「……黄色い中華服を着て、京劇の化粧みたいなお面をつけて、棒とか剣とか分銅の付いた鎖とかとか持った人達」
「へえー?」
 耕太郎はけらけらと笑った。明らかに信頼していない。
「その人たちは鳴神くんがやっつけたんだけど、その後、体がむちゃくちゃ大きくて、すごく美形で、金髪の男の人が出てきてさあ」
「なんだー男かーがっかりだなぁ。うんうん」
 信頼されなかろうが、もう、いい。信は半ばヤケクソだった。
「その人、中国にある青華龍神拳、っていうところの跡継ぎとかで、そんで、大昔に日本に流出して分派にだけ伝えられている奥義を取り戻すために、その流派の跡継ぎの鳴神くんと対立してるんだって」
「で、あとはこう、トーナメントでそこのなんとか四天王とかと鳴神が戦って、勝ち抜いたほうが本当に本家だとか?」
 耕太郎は可笑しそうに言う。信は思わずムカッとした。いや、耕太郎の反応のほうが正しいのだ。分かっている。だがしかし、こんなバカらしい話を信じてもらおうというほうが嘘なのだ。
 信は、もう、大爆笑を予想して、最後のオチをぶちまけようとする。


 その人と、鳴神くんが結婚して子作りして、二つの流派が和解する予定らしいんだって!


 ―――だがしかし、その一言は、「ん?」という耕太郎のいぶかしげな声にさえぎられた。
 古ぼけた校舎の一階、信たちのクラスである一年弐組があるはずの場所に、なにやら不可解な人だかりができている。
 出入り口にたまっているのは、クラスメイトももちろんだが、どうやら他のクラスからやってきた野次馬もたかっているらしい。窓からドアから十重二十重の人垣を作って、なにやらざわめきながら教室内をうかがっていた。
「なんだあ、ありゃ?」
 信が止めの一言を口にするより前に、耕太郎が駆け出した。そこらにクラスメイトを一人見つけて、腕を掴んで「どうしたよ?」と話しかける。
「あ、安藤。あのさあ、教室に、なんか知らない女の子がいるんだよ……」
「女の子?」
 信は思わずぽかんと口を開ける。
 私立鶴岡学園高等部。男子校である。そりゃあもう、教師にすら女性はいないというくらい、10代男子の発するY染色体と男性ホルモンの臭いがムンムンと立ち込めた、むさくるしいことこの上ない男子校である。
 女子禁制――― というよりも、こんなところに好んで足を踏み入れてくれるような奇特な女の子がいないだけだ。もともとむさくるしい校風の学校なのだから。
 だがしかし、耕太郎の顔が輝いた。
「女の子だってェ!」
 俄然、元気一杯になって人ごみに突入する耕太郎。人を掻き分け、掻き分け、奥へと入っていく姿を、信は半ばあきれながら見送った。どれだけ女が好きなのだ。
 だが。
 次に聞こえてきた奇声は、信の度肝を確かに抜いた。
「……ぬッ、ぬおッ、ぬおおおッ!!」
「!?」
 耕太郎の声であった。
 あえて『ぬおお』と表記したが、しかし、なんとも表記のしがたい声であった。半ば、人間の声とは思われない。
 何があったのだ、と信は慌てる。慌てて人ゴミを掻き分け掻き分け、自分もあわててクラスの入り口へと向かう。
「どうしたんだよ、安藤くん!」
 チビの信には厳しい仕事だったが、なんとか人ごみを掻き分けてクラスの入り口まで辿りつく。そして、思わず信も足を地面に釘付けにされる。


 教室に、女の子がいた。



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