6.
校庭の片隅。
人目に隠れたその場所で、少女はやっと足を止める。信も周りを見回して、誰も居ないことを確認して、なんとかやっと息をついた。チャイムが鳴っている。教室だと、たぶん大騒ぎだろうが、『女の子が教室に紛れ込んでいた』などという言説は実物がいなければ信頼されないだろう。おそらくはHRが始まっているはずだ。
少女はちいさく息をつくと、顔を上げた。
……あらためて気が付くと、その少女の顔は、小柄な信の目線よりも、さらに下にあった。ありていにいうと『小さい』のだ。学生帽をほぼ見下ろす形になる。
そして、そのさらに下には、少女の足に、耕太郎がしがみついていた。
「いい加減にしてくれよっ!」
あわてて信は少女から耕太郎をひきはがす。耕太郎はマンドラゴラが引きぬかれるときのように不気味な叫び声を上げたが、しかし、数分の格闘の後に、なんとか少女の足から離れる。
「足が〜、足が〜、すべすべのふくらはぎが〜、キュッとしまってて細い足首が〜」
「だからセクハラだってば!!」
耕太郎をどやしつけている信に、ふいに、少女がくすりと笑みを漏らした。「なに!?」とそっちをみると、「いや」とすぐに無表情に戻る。
「お前らはいつもと変わらんな。安心した」
「……」
『鳴神猛』だったら、いかにもいいそうな台詞だった。
信は、複雑極まりない気持ちで、少女を見る。
同い年…… と思うには雰囲気が幼い。黒目がちな大きな目が少しうるんでいるように見えて、『守ってあげたい』オーラをかもし出していた。桜色のちいさな唇。ほんのりと紅のさしたやわらかそうな頬。大き目の帽子がぐらぐらしているのが、さらにその雰囲気を増している。折れてしまいそうにかぼそい肩と、カエルの傘を握った小さな手。
これをどこをどういじくれば、あの、冷静沈着にして質実剛健な『帝国軍人』が出来上がるというのか。
少女は、ため息をついた。
「説明をすると信じがたい話になるのだが…… 今朝起きると、なぜか、こうなっていてな……」
「……信じろっていうほうが無理だよ」
「分かっている。俺自身、どうにも納得がいかん」
だが、と少女はいい、凛々しい眉を引き締めた。
「家にいてはどうにも具合が悪い。だから、学校に来させてもらった。ここならば人目がある。溟牙のヤツもやすやすと手は出せまい」
「溟牙…… って、昨日の人のこと?」
彼がどうこの話に関わっているというのか?
そこで、耕太郎が、やっと口を挟んだ。
「お前、本当に鳴神なのか?」
信は思わず耕太郎を振り返る。耕太郎が真面目な顔になっていた。信は思わず聞き返す。
「安藤くん、信じるの、この子が鳴神くんだって?」
「いや、真面目な話、やつの腰のあたりには、たしかに痣があったぜ。体育の授業の着替えのときとか、見たような気がするし」
桜の花びらのような形をした、赤い痣、と耕太郎は言う。
「んで、昨日の怪しい連中がどうこうって話は、たしかにお前も朝に言ってたよな?」
「うん……」
「話は合うじゃん。この子が鳴神じゃなかったら、その話を知ってるはずが無い。だいたい他の誰か、しかも女の子が鳴神のふりをして、なんか得をする理由でもあるのか?」
「……」
信が返事に窮すると、耕太郎は少女に向き直る。そして、「痣を見せろよ」と言った。
「見せてくれたら、信じる」
「うむ」
少女はセーラーの上着をたくしあげ、さらに、スカートのウエストをわずかにずり下げる。思わず信は赤面した。腰骨の辺り、なだらかな下腹の下のほう、腰骨のあたりに、たしかに、親指の先くらいの大きさの、赤い痣がある。桜の花びらのような形、といえないことも無い。
「ううむ……」
耕太郎は、ぐっ、と顔を近づけた。少女は真剣な顔で耕太郎を見下ろす。問いかけた。
「納得してくれたか?」
いや、と耕太郎は真面目な顔で首を横に振った。
「……だが、これを舐めればもっと確実に……」
信は無言で背後から耕太郎の膝の裏を蹴った。膝を折られた耕太郎は、そのまま、顔から地面に突っ込んだ。
話はどうあれ、とにかく、この子の行動パターンはたしかに猛に似ている、と信は思った。地面にめりこんだ耕太郎の赤毛頭を止めのためにぐりぐりと踏みながら、ふと、思いついて問いかける。
「その帽子、いつもの?」
「ああ。こればかりは代替が利かんからな」
「なんで傘……?」
しかも、ファンシーなカエルの。
ああ、といって少女は傘をわずかに持ち上げた。
「いつもの竹刀を持ってみたのだが、体が縮んでしまったせいか、どうも尺が合わん。家にあるものではこれくらいでしか代用が効かなかったものでな」
その結果が、ファンシーなカエル模様の雨傘なのだろうか。
そこで、信は考えた。
―――猛が、昨日見せた奇妙な技。
竹刀を持って、まるで鋭利な刃物を用いたごとくに、モノを両断する。
「じゃあそれは、護身用……」
「一刀流は剣術だ。長物がなければ、俺はどうにも勝手が悪い」
「それで戦うの? 昨日みたいな刺客と?」
「うむ」
あっさりと、少女は答えた。信はしばらく黙った。傘である。それも、持ち手の部分はプラスチック製でデフォルメされたカエルの頭をかたどり、つぶらなおめめがぱっちりと開いている。傘本体も広げれば、たぶん、全体にファンシーなカエル模様がひろがっているのだろうと思われた。両生類の癖になぜかレインコートとかを着ているカエルとかが、陽気に踊っているに違いなかった。
竹刀以上に無茶だった。こんなものでモノを叩いたら、あきらかに、傘のほうが壊れてしまう。
そんな風に思っていることに、おそらく、気付いたのだろう。少女は傘の持ち手を若干握りなおすと、「証拠を見せよう」と短く言った。
背後を振り返る。そこには、車止めの太い鉄柱が何本も立っていた。公園の入り口などによくあるものだ。少女はつかつかと…… というよりも、ちょこちょことそちらへと歩いていく。そのヒヨコのような後姿を見て、やっぱり自分が考えたのは何かの誤解じゃないかと信は思った。あんな可愛らしい女の子が、『鳴神猛』であるはずがない。
だが。
少女は、すっ、と傘を正眼に構えた。
「……練気がままならん。上手くゆくか分からんが……」
あたりまえだ、と信は言いかけた。変なことをしなくてもいい、と止めかけた。
だが。
次の瞬間、風が、一閃した。
キィン、という鋭い音が響いた。
その一撃を、信は、満足に視認することすらできなかった。
少女は傘をすっと降ろす。その一拍後、背後で、がらん、ともごとん、とも付かない、重い音がした。
太い…… 大人の足ほどの太さもありそうな鉄の棒が、斜めにの断面を見せて地面に転がっていた。
完全な鉄柱ではない。中は筒状に虚ろになっている。だが、その断面は、まるでバターでも切った後のように滑らかだった。
信はぽかんと口を開けた。
少女は振り返り、重さをたしかめるように傘をかるく振ると、鉄柱を見る。そして可憐な面差しにかすかに苦いものを滲ませて、呟いた。
「今ではせいぜい、この程度が限界だ」
地面と熱烈なベーゼとしていた耕太郎が、顔を上げた。そして妙にいい笑顔で親指を立てた。前歯がキラリと光った。
「オレの言ったとおりだろう、蓮室?」
「……」
本人確認にかこつけて、女の子のおなかを舐めようとしていた男にだけは、言われたくなかった。
だがしかし――― 認めざるを得まい。
「鳴神くん…… なの……?」
おずおずと問いかける信に、可憐な少女改め、鳴神猛は、重々しくうなずいた。
「ああ」
信は、認めざるを得なかった。
『帝国軍人』こと、一刀流後継者、鳴神猛。
彼はなぜか…… 今日付けを持って、愛らしいこと極まりない、小柄な女の子になってしまったのだ。
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