7.

 ……ぶかぶかの上履きを脱ぎ、裸足になった猛が、そろりと体重計に乗る。
 体重計の針がふらふらと動き、やがて、一箇所で止まった。”40kg”。それ以上でも、それ以下でもない。
「身長は149cm、体重は40kg……」
 保険医は、ぺらぺらと記録帖をめくる。ついほんの数週間前に取ったばかりの記録。入学後の身体測定の記録だ。
「んー、こっちの記録だと、鳴神猛くんは身長186cmの、体重は81kgになってるわねぇー」
 概算にして、身長は、体重ともにほぼ『40』cmないしはkgの減少だということになる。
 小さい。
 あまりに縮みすぎというものであろう。
 無表情ながらどことなくしゅんとした顔で体重計から降りてくる猛に、保険医は「惜しい、惜しいわぁ……」といかにも悔しそうに首を横に振る。
「武術で鍛え抜かれた鋼のような肉体…… まだ成長期の16歳にして190間近…… もう、何百人に一人っていう逸材よ、それは!?」
 ……こんな喋り方をしているが、保険医、立派な男性である。
 中川洋司、32歳。有能な保険医であり、なんとスポーツドクターの資格も持っている、という理由でこの学校にスカウトされてきた男だが、しかし、校内では今ひとつ敬遠されがちな人材の一つ。その理由が、とくに筋肉質で運動神経のいい男子にたいして、必要以上にスキンシップを取りあがるあたりにある、ということを知らない鶴岡学園生徒はいない。
『中川先生って、もしかして本物なのかも……』
 猛を前に嘆き哀しんでいる中川に、信は、不謹慎にもそう思わずに入られなかった。
 ぶかぶかの上靴に足を突っ込むと、猛は、ちかくの鏡の前で立ち止まる。じいっと鏡に見入っているのは、はたして、自分の変貌が認められないからなのか。それはそうだろう。昨日までは『帝国軍人』で通っていた男、いや、漢が、今日には可憐なロリっ子と化してしまっているというのだから、アイデンティティ崩壊の危機だといったほうがいい。
 はたしてそれだけ悩んでいるのかは猛の表情からは諮りかねたが。
「でもさあー! 鳴神、いっそそれだけ可愛くなっちゃったんだったら、逆に良くね!?」
 ぜんぜん空気を読めていない男が、ここにいた。
 回転椅子の背もたれにもたれて、いかにもうれしそうににやにやと…… 否、でれでれとやに下がっている男、安藤・M・耕太郎。
 片手を当てた鏡越しに耕太郎を見て、かるく眉を寄せ、「かわいい……か?」と猛は困惑したように呟く。
「うんかわいいかわいい超かわいい! オレ的にはマジで90点以上って感じ!」
 はたしてその評価は高いのか否か。
「だってさぁー、ロリ! 和風! 剣道! そんでもって無感情系キャラ! かなり評価高ッ! って感じじゃね!?」
「……わかんないよ……」
「俺にもわからん。それに、一刀流は剣道ではなく『剣術』だ」
 ベットに座ったまま思わずどっと脱力する信に構わず、猛は傘を手に取り、すたすたと歩き出す。そして椅子の一つにちょこんと座った。足が若干地面から遠いのに、困惑したような色を見せる。
「でもねぇー、男のコを女のコに変身させる薬っ、なんて実在するのかしらぁ? あたしは聞いたこと無いわよ?」
 中川は頬に手を当て、困惑したように首をかしげた。事実、問題はそこにあったのだ。
「でも、世の中には性転換手術とかってあるんでしょう?」
「別にできないわけじゃないけどぉ、身長や体重までは操作不能よぉ。それに、あれをやっちゃうと、オトコもオンナも事実上不妊症になっちゃうケースがほとんどなの」
「そうなんですか!?」
 初めて聞いた。
 うんうん、と中川は神妙にうなづく。
「あのねぇー、女性の場合はまた別…… っていうか、ようするに子宮はそのままで『ぱおーん』だけ増設するってパターンも可能だからぁ。でも、男性の場合は『ぱおーん』を素材にして女のコの部分を作ることが多いわけだから、結局精子とかが出なくなっちゃうの。だから、いわゆるニューハーフとかオナベの人ってのは、あらかじめ精子や卵子をとっとかないと、その後、子どもを作るのはすごく難しいことになるのよぉ」
「う……」
 思わず信は股間を押さえた。想像するだけで痛い話だ。ちろりと耕太郎を見ると、こちらもかなり複雑な顔をしていた。
 一人、何を言われているのかわかっているのか怪しいのは、猛一人だ。
「……」
「鳴神くん、なんかされた記憶ない? 昨日の晩……」
「いや、特に……」
 猛は眉を寄せ、小首をかしげる。かわいい。……いや違う落ち着け信、と信は思う。
「強いて言えば、部屋に戻ったときに、なにか見知らぬ菓子が置かれていてな」
「……置かれていて、な?」
「どうやら月餅のように見えたんだが、下に敷いた紙に『私を食べて』と書いてあったから、口にしたのだが…… どうした、信?」
 どっとめりこんでいる信に、猛は、不思議そうな顔をする。
 どう説明したらいいものか。信は苦労しながら起き上がった。
「うん…… いや、ね、鳴神くん……?」
 あきらかに、そのせいである。
 そもそも部屋にあきらかに怪しい菓子が置いてあって、『私を食べて』と書いてあるからといって口にする、という行動パターンが理解に苦しむ。よく言えば素直だというところなのだろうが。
「朝起きると部屋や服がすべて膨張していて驚いたのだが、まさか、このような結果となるとは」
 猛はしみじみと首を横に振る。けれど、その瞬間、ふと、信はまずいことに思い当たった。
「……鳴神くん、今、『月餅』って言った?」
「? うむ」
 月餅。
 中華饅頭の一種、非常にポピュラーな飲茶菓子のひとつである。
 皮の中に餡子を詰め、さらに、なつめや栗などの素材が加えられることもある。この近所では横浜中華街へ行けば、掌サイズからケーキサイズのものまでお手軽に入手可能だ。
 それはともかく。
 だらだらと冷や汗を流し始める信を見て、猛は眉を寄せ、「どうした」という。
「いや、あの昨日の人…… ミョウガっていう人……」
 猛は若干顔をしかめた。
「あれが、どうした」
「あの人、鳴神くんに、『子どもを産ませる』とか言ってなかった?」
 そのとおりなのだった。
 劉溟牙という男は、二つの武術の和睦のため、猛と結ばれ、子孫を作ることを目的として日本に来た、と言っていた。
 バカを言うな、と信は思った。双方男、否『漢』、それも筋肉隆々たるマッチョメンである。どのツラさげて考えれば、二人に子宝が授かるというのか。
 しかしだ。
 今の猛は、どこからどうみても、可憐なこときわまりない少女なのだった。
「あの人…… が…… 犯人じゃないの……?」
 そろり、と信が言うと、しばらく猛は黙っていた。
 そしてやがて、「なるほど」と重々しく頷いた。
「確かに、理に適っている」
 思わず信は、絶叫した。

「納得している場合か―――ッ!!」

 なんといっても政略結婚である。さらにもっと露骨に言うならば、血縁を作るための『子作り』なのである。
 人間、子どもを作るには前段階がある。なければ子どもは作れない。
 昔、さる漫画にも書いてあったように、『妊娠は非処女のあ・か・し☆』なのである。
 信は猛を見、そして、昨日見た溟牙の姿を思い出し、おもわず、よろりとよろめいた。そこを慌てて耕太郎が支えてくれる。
「ちょっ、どうしたんだよ信! 子作りって……」
「か、かいつまんで説明するね……」
 流派がどうのこうの。さらに、そのために子孫を残すことになってああのかあの。
「でね…… 相手の男の人が…… なんていうかラオウとかケンシロウみたいな…… 世紀末覇王伝的な……」
 思い出す。劉溟牙。身長は190を突破し、太股などはまるで丸太のよう、筋肉隆々たる体格の彼のことを。
 冗談ではない。
 今の猛とは、ウエイトで50kg以上、身長でも40cmは差があるのだ。
 状況がよく理解されていないのか、きょとんとした顔で見ている猛。だが、それよりもはるかに早く想像がついてしまったらしい。耕太郎もまた、ごくん、とつばを飲み下した。
「それは…… なんていうか…… ヤバいな」
「ヤバいよね!? なんか、貞操の危機っていう以前に、命の危険を感じるよね!?」
「いや、だってそれ…… 子作りとかなんとか…… 無理だろ、あの体つきだと! ぶっ壊れちまうよ!」
 きょとん、とした顔でこちらを見ている鳴神猛、16歳。身長149cm、体重40kg。
 バンビのようにかぼそい足など、乱暴に扱ったら根元からぽきんと骨が外れてしまいそうだ。そういう下品なことを想像するのはよろしくないのは理解しつつ、信と耕太郎は同時に、『身長190オーバーの巨漢に、か弱いロリっ子が子作りを強要される姿』を想像してしまっていた。
 ―――ひかえめに言っても、『18禁』だった。
 あまりといえばあまりにとんでもない想像に、耕太郎が、先に、絶叫した。
「そ、それ犯罪! どう考えても犯罪だーッ!! 強制わいせつの前に傷害罪だッ!!」
「ちょっ、これ、なんとかしないとマズいよ!! 鳴神くん、早くもとに戻らないと!」
 友人二人が騒いでいる理由は、おそらく、猛は理解していないだろう。「うむ」と重々しく頷く。
「このままでは俺の力量は万全の三分の一がせいぜい…… 溟牙のヤツに勝つことなど不可能だろう。なんとかせねばなるまい」
 そういう問題でもない。
 でもないのだが、はっ、と耕太郎が顔を上げる。「そうだ、そうだよ!」とわたわたと手を振り出した。
「お前、さっき、傘で鉄柱をぶった切ってたじゃん! ああいうありえない技さえできれば、ラオウだってケンシロウだって……!!」
「『闘気』のことか?」
 聞きなれない言葉が出てきた。
 猛はしばらく悩んでいる様子だった。はたして外部に漏らしていい話なのか、信頼されるのか、と思っているのだろう。だが、やがてひとつの決心を固めたように、ちいさく息を吐いた。
「この場合、説明せずに済ますのは難しかろうな。よかろう。さわりについてだけ、『闘気』について話させてもらう」

 そもそも、それは、古代中国に培われた技なのだ、という。
 
「万物には『気』が存在している。気には陽の気、陰の気などさまざまなものがあるが、この際、それはよかろう。気というものは『温度』のようなもので、生きる生かざる関係なく、すべての存在にあるものだ」
「まあ、たしかに『温度の無いもの』ってのは想像しづらいけど……」
 耕太郎がガリガリと頭を掻く。猛は頷いた。
「そして人間にも『気』はある。基本的にはこの『気』の流れというものは、呼吸や血流などにしたがって流転し、それが何かに対して影響を与えることはない。……だがはるか昔、その『気』の流れを操ることによって、人間の身体をより強くする方法があるのではないか、と思いついた者がいた」
 それが、すべての『気功』の開祖だった。
「己の中の『気脈』を自在に操作し、あるいは外から『気』を取り入れることによって自分自身の体内の気の全体量を上げる。そうやって『気』を自在に操ることによって、己の肉体を極限までコントロールする。それが、『気功術』の基本中の基本だ。そのためにはまず己を知り、己の身体に流れる『気脈』を手に取るように知ることが必要とされる。だが……」
 猛はかすかに悔しそうな色を滲ませた。
「今の俺には、己の体の『気脈』が、掴みきれない」
 ちいさな手のひらを見下ろし、ぐっ、と握り締める。もとの猛の手とは、ほとんど倍ほども大きさに差があるように思われた。無論、錯覚ではあろうが。
「つまり、体が縮んじゃったせいで、『気功』がうまく操れない、ってこと?」
「その通りだ。これでもある程度の『気脈』は掴んでいる。だが、『気脈』の把握とコントロールは、己の肉体との絶え間ない対話、そして、功夫によって始めて成し遂げられるもの。その肉体を失った今、今の実力は俺にとっての最大の力には遠く及ばん。上手くいっても三分の一、というあたりがせいぜいだろう」
「……ちょっと常識だと信じがたい話ねえ」
 保険医である中川が、卓に頬杖を付く。
「現代医学を真正面から否定されてる気がするわー」
「しかし、ほんとうだから仕方が無いのです」
 猛は、なぜか、深々と頭を下げた。
「先生を不快するつもりなど毛頭ございません。だが、俺にとってはこれが真実。そして、俺にとってはこれこそが『武術』そのものだったのです」
 顎鬚のちょっとダンディな感じの中川は「いいわよぉ」とひらひらと手を振った。
「んーっ、礼儀正しくて素敵っ。ほんと残念ねぇ。はやく元に戻ってくれないかしら、鳴神くんってば〜」
「……」
 なにやら身もだえする中川に胡散臭いという以上のものを感じつつ、信は、猛の顔を心配げに覗き込む。
「でも、鳴神くん、どうするの…… どれくらいで元に戻るの」
「すまんが、見当も付かん……」
 くっ、と唇を噛み締める。そして、今はその唇すら、ふっくらとしていて桜色で、触れたい、と思うだけですら、罪悪感を感じさせずにはいられない。
『……何を考えてるんだ、ぼくはッ!!』
 煩悶する信に構わずに、猛は立ち上がる。「お」と耕太郎が声を上げた。
「どうすんだよ、鳴神?」
「授業に戻ろう」
「!?」
 何を考えているのだ、と言いかけたところで。
「学生の本分は学業だろう」
 猛が、あまりとはいえあまりにまっとうすぎることを言う。
 ……事実であることに間違いは無いのだが。
 信は深い深いため息をつくと、ぽん、と猛の肩に――― かなり下だった――― 手を置いた。
「む?」
「鳴神くん、冷静に考えて。今の自分が授業に出たら、みんながどう思うかって」
「……」
 猛は凛々しい眉を寄せて、しばし、考えていた。
「俺の後ろの席のやつは、俺が縮んだ分、前が良く見えて喜ぶだろう」
「ちーがーうッ!!  いきなり男子校に女の子が現れたら、ひっどい大混乱で授業になんてなりゃしないんだよッ!!」
 だが、そこに。
「いやあ、なんか、すでに授業とか崩壊してるっぽいぜ?」
 耕太郎のあきれたような声が、入り込んできた。
「!?」
「みろよ、校庭」
 正確には校旗を立てるポールの上、と耕太郎は言う。
 思わず窓から首を出した信は…… かこん、と顎が開くのを感じた。
 立っていた。
 男が立っていた。
 獅子の鬣のような黄金の髪をなびかせ、高さ10mはあろうかという校旗用のポールの上に、身長190は超えているだろう巨漢が、腕を組んで立っていた。校舎を睥睨していた。

「鳴神猛ッ!!」

 ビリッ、とあたりがしびれるような大音声で、言い放つ。
「ここにいるのはわかっているッ! どこへ隠れた、鳴神猛! 怖気をなして逃げ出したか!」
 ありえない。
 とてもありえなかった。
 あまりといえばあまりにありえない男の登場に、どこの教室も授業どころではない。窓には生徒たちが鈴なりになり、ポールの天辺に立っている男を一目見ようとてんやわんやの大騒ぎと化している。耕太郎は信じられないものを見るように男を見た後、二人を振り返り、「アレが例の?」と言った。
「う、うん……」
「このようなところまで…… 劉溟牙」
 猛はぎりっと奥歯を噛み締めると、カエルの傘を片手にひっつかみ、立ち上がる。そのまま出て行こうとするのを大慌てで信が止めた。
「なぜ止める、蓮室!」
「さっき言ったばっかりだろ鳴神くん! 今は万全とは言いがたいって!!」
「だがしかし、神聖なる我が校に騒擾をもたらすとは…… ヤツの所業を許すことなぞ出来ん!」
 猛の喋り方は、いちいちあまりに古臭かった。
 騒擾、というのなら、さっきセーラー服でクラスに座っていた時点であきらかに騒ぎの種である。そのあたりを自覚しているのか、しないのか。とにかく小さくなってしまった(くれた?)おかげで、猛を押さえつけておくのもずいぶん楽だ。背後から羽交い絞めにしていると、細い足がぱたぱた暴れて、ぶかぶかの上履きがいまにも吹っ飛んでいきそうだ。
「離せ蓮室ー!!」
「だから、まずいんだってばっ! 今出て行ったらいい餌食だよ、鳴神く……」
「な、な、な、鳴神ィ!?」
 その瞬間、急に、耕太郎が素っ頓狂な声を上げる。思わず二人は動きを止めた。
 耕太郎は、目を白黒させながら、猛のほうを指差している。猛と信は顔を見合わせる。耕太郎は、ごくん、と唾を飲み込んだ。そして、おそるおそる言う。
「……鳴神、今日の下着って、ナニ……?」
 きょとん、と一瞬したあと、猛はあっさりと答えた。
「俺の手持ちの六尺だが」

 六尺。
 ……いわゆる、六尺ふんどし、というヤツである。
 
 信の口が、ふたたび、オレンジが入りそうなくらい、開いた。
「他のものはサイズの合わせようが無かったから、六尺を履いてきたのだが。おかしいか?」
 ほら、といって、猛は信と耕太郎のほうを向き、無造作にスカートをめくった。
 ぺろん、と。
 ご開帳だった。
 健康的にかるく桜かかった色の、バンビのようにすらりとした足が、根元まで見えた。
 もっと上まで見えた。
 信と共に、耕太郎の口も、ケロリンの桶が入りそうなくらい、開いた。
 口をあけたまま硬直している二人に不思議そうな顔をして、それから、あらためてカエルの傘を取る。そして、「すまん」と短く言うなり、保健室の窓から飛び出していく。
 後を追うべき二人は、あまり、といえばあまりのものを見た衝撃に凍り付いて、しばらく動けなかった。
 一部始終を見届けていた中川養護教諭は、ずず、とヤクルトを一口すすって、「青春ねぇ」とコメントした。

 

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