8.

 
 有象無象が喧しい。
 ポールの上に立って睥睨する溟牙を、校舎から顔を出したガキどもが騒ぎながら見上げている。どれもこれも惰弱なヤツばかり、己が真に望んだのならば、指一本触れただけで殺すことすらもたやすいようなひ弱な人間ばかりだ。
 平和ボケ、とも揶揄される現代日本。武器で武装すらしておらず、まして、身体を鍛えすらしていないのならば、人間というものは実に壊れやすい。ただ怠惰に生きているばかりの命に価値を見出すほど、溟牙は親切な人間ではなかった。己の怠慢のために命を失うのならばそれもまた生き様であろう。だが溟牙はその生き様に一抹の砂ほどの価値すら覚えない。それだけだ。
 だが、この土地に吹く風は、存外に心地のよいものだ。
 はるか過去、ここでたくさんのものたちが、怨嗟と無念のうちに命を失ったという臭いがする。それは余りに昔、すでに数百、もしかしたら千年の過去のことやもしれぬ。だが、溟牙にとっては古く芳醇な憎悪の残り香、それすらも美しい蜜となる。胸いっぱいに吸い込めば、それが『陰気』として体内に取り込まれる。そして、溟牙は今にもまして、己の中に存在する血に餓えた渇望の存在を、愉しむことが出来るのだ。
 ふと気付くと、ポールの下に誰かがやってきて、怒鳴っている。黄金の蓬髪を風になびかせながら、溟牙はそれを見下ろした。
「そこの人! なにをやっているんだ、降りてきなさい……!!」
 中年の男。服から見れば、警備員だろうか。だが、『気』をみれば一目瞭然。ただの素人だ。
 相手にしてやるほどの価値も無いが、ふと、遊んでやってもいいか、という気分になった。

 溟牙は無造作に、ポールの上から飛び降りた。
「―――!!」
 高さ、10mあまり。
 とん、とかすかな足音がした。
 それをなんのためらいも無く飛び降りた溟牙は、かるく膝を屈しただけですべての衝撃を受け流して、平然と男の顔を見る。男の顔の位置は溟牙の目線よりかなり下にあった。
「お、おっ、おまえ、なにを、ここで……!」
 見苦しい。溟牙は軽く嘲るように顎をそびやかした。
「鳴神猛はどこだ」
「な、なるかみ……っ!? そ、そんなことより、どこから校内に入った! 不法侵入だぞ!?」
 かすかに不愉快になる。このような無礼な口の聞き方を、誰が許したというのか。
 溟牙の右手が、『消えた』。
「!?」
 男が視認できるスピードをはるかに超えて、溟牙の手が、いつのまにか、男の顔をわしづかみに掴んでいた。
「……がッ!?」
「もう一度問おう。鳴神猛はどこだ」
 ギリギリ、と伸ばされた爪が顔に食い込む。男はピンで留められた虫のように手足をばたつかせた。見苦しい。溟牙は腕をゆっくりと持ち上げる。男の体が宙に浮く。
「知らぬのか」
 溟牙は紅蓮の瞳を僅かに細める。
 男の目に、恐怖が宿った。
「しっ…… しらな……ッ!!」
 ふん、と溟牙は侮蔑の息を漏らした。
 このまま握りつぶしてもいいが――― いささか後が面倒だろうか。
 ならば。
「ならば、我が糧となれ」
「―――!?」
 男の手足が、電気を流されたカエルのように、びくんっ、と痙攣した。
 痙攣するように手足が跳ねるたび、そこから血の色が失われていく。が土気色に変わり、手から、握り締めていた警棒が落ちた。男の顔に無惨な隈が浮かび、吐き出された舌が青黒く変色する。
 やがて溟牙が無造作に手を開いたとき、男の身体は、まるで水を詰めた人形のように、ぐにゃりと地面に倒れ落ちた。
「ふん―――」
 溟牙はかるく手の指を曲げ伸ばしする。表情は快感とは程遠い。
「不味い、な」
 仕方があるまい。あいてはたかが普通の人間…… 若くも無ければ強くも無い、美しくも無い、ただのくだらない人間なのだから。
 地面に転がった男は、衰弱にこけた頬、青黒い隈を目の下に浮かばせたまま、しかし、まだ生きていた。ひゅーひゅーと細い息を漏らしながら、必死で這い、逃げ出そうとする。見苦しい。溟牙はかるく眉を寄せ、男の首に無造作に足を当てた。踏み折れば見苦しい動きも止まる。
 だが。

「劉溟牙ッ!!」

 ふいに、凛、という高い声が、溟牙の背を打った。
 溟牙は振り返る。そして見る。表情に驚愕がよぎり、一瞬の不審がよぎり、そして――― 歓びが、満ちる。
 紅い唇が、笑みの形を浮かべた。
「貴様…… 鳴神猛か」
 そこに立った猛の足からは、いつのまにか、ぶかぶかの上靴は、どこかへと飛んでいってしまっていた。
 紺サージのスカート、臙脂色のスカーフのセーラー服。大き目の学生帽。そして、手に握り締めたカエルの柄がついた傘。
 頬をほの赤く上気させ、黒目がちな瞳にキラキラと怒りをきらめかせる。噛み締められた唇は珊瑚。小さな頭に、小さな手の、小柄で細身の少女―――
 溟牙の足元に倒れている警備員を見て、少女は、キッ、と唇をかんだ。
「非道な!」
「何が非道だ。貴様が現れぬから、少々退屈していたところよ」
 溟牙は声を出さずに笑い、男の身体を軽く蹴った。
「しかし――― 変わったな、鳴神猛よ。ずいぶんと可愛らしい姿となったものだ」
 くくく、と溟牙は哂う。
「我が花嫁にはいささか貧弱な体よ。だが、これからは俺手づから、たっぷりと思い通りに育ててやろう」
「断る!」
 弾き返すように、猛は叫ぶ。正眼に傘を構えた。
「力減じようと我が体、貴様の思う道理になどなるものか! 俺は貴様の不埒な行い、見過ごせぬゆえ参じたのみ!」
 古風な言い回しも、凛とした声色も、けれど、可憐な少女の声となってしまっては、不釣合いな印象のほうが先に立つ。それが可笑しいのだろう、溟牙は哂う。哂う哂う。声が響いた。
 猛は思わず眉を吊り上げた。
「何が可笑しい!」
「くく…… 鳴神…… いや猛。お前は真に東夷の女となったのだな。その愚かしさ、その無謀さ、その傲慢さ…… 気に入った」
 ふいに、溟牙は笑い声を途切らせる。
「育てるなどとまどろっこしい事は止めだ。すぐにでも…… その腹にこの俺の子を、孕むがいいッ!!」
 猛は思わず、正眼に構えていた傘をわずかに下げた。そのとっさの判断は正しかった。とっさに振り下ろされた猛の傘の先端が、溟牙が放った蹴りを受け止めたのだ。
 ぐっ、と思わず声が漏れた。
 まるで鋼の棒でコンクリートの塊でも殴ったよう。手がしびれるほどの衝撃。
 だが、それに続いて、中段蹴りが寸暇も空けずに放たれる。猛は片手を竹刀から離していた。思わず腕で受ける。腕が砕けるかと思うほどの衝撃が、骨を通して肩まで響く。
「くぅッ!!」
「脆い、脆いぞッ!!」
 そもそも、身長さからしてすでに大人と子どもほどの差がある。か細い体の猛には、溟牙の猛攻はあまりに過ぎた。一撃一撃を受け止めていたら体が持たない。だが、避ける隙を見せようものなら、次には必ず致命的な突きが己の急所を狙いに来るだろう。
 いなすのが背一杯だ。あまりの猛攻を傘と左腕とでしのぎながら、猛は、一つの決断をした。
 すっ、と利き足が下がった。
「!?」
 溟牙がそれに気付くのが、一瞬、遅かった。
 ふいに、まるで舞踏の振り付けのように、小柄な体が膝をたわめながら反転する。溟牙に背を向ける――― それは一瞬だった。
 次の瞬間、猛の踏み出した一歩が、信じられないほどの距離を踏み越えた。
「! 『縮地』か!」
 気付いたときには、もう、猛の姿がはるか遠くにある。もう一歩――― それも『縮地』だった。猛はさらに遠ざかる。常人では視認すら不可能なスピードで、あっというまに校庭を横切り、学校を囲む森の中へと消える。
 逃げる気か、と溟牙は思った。同時に閃くように思ったのは、猛らしくない、という考えだった。まさか彼…… いや、彼女が正々堂々とした戦いの場から遁走するとは。
 しかし。
 周囲を見回したとき、はじめて溟牙は、猛の真意に気付いた。
 ざわざわと、生徒たちのざわめきが聞こえてくる。
 校舎の中で騒ぎあう生徒たち。中にはどこかへと連絡をしているらしきものもいるし、無謀にもさらに近くで見ようと校舎からこちらへとはせ参じようとするものたちまでいる。成る程、このまま仕合を続ければ、必然的に彼らを巻き込むこととなろう。猛はそれを忌んだのだ。
「……ふん」
 面白い。
 溟牙は、紅い唇に、獰猛な笑みを刻む。
 あくまでここに集まった愚昧な連中に手出しは許さぬ、と言ったところか。
 溟牙はゆっくりと考える。猛の思惑に沿うのもつまらぬ話だ。逆にここに集まった人間どもを虐殺し、そこへ、怒りに燃えた少女が戻ってくるのを待つのもいい。けれど、これから夫婦として共に過ごす時間の長さを考えると、そこまでの『怨み』を持たせておくということはあまり得策とはいえまい。
 溟牙は思い出す。少女――― 猛の面差しを。
 控えめな奥二重であっても、瞳は大きく、そして、ひどく黒目がちだった。
 東洋人独特の、桃色珊瑚を磨いたような色彩の、すべらかな頬。 
 ふっくらとした唇を怒りに引き締めて…… けれど、まるで春の花のような可憐な色彩は隠せない。
 短く切ってはいたが、髪の色も漆黒に近かった。
 小鹿のような細い足。簡単に腕の中に納まってしまうだろう腰。小さな肩。
 ―――思い出して、ふと、哀しみのようなものが胸を刺す。
 溟牙はすぐにそれを打ち消した。
「……いずれ、我が花嫁にふさわしい」
 いまだ幼さのほうが印象深いが、あのままに磨き上げれば、さながら、東洋の真珠とも謳われるほどの美女ともなろう。それほどの美質があの娘にはあった。当然だ。それをあらかじめ知っていたからこその、この『婚姻』なのだから。
 あの娘に――― 確かに、己の子を孕ませてやろう。
 溟牙はばさりと黄金の蓬髪を靡かせる。そして、王者のように悠々と立ち去っていくその後姿を、鶴岡学園の生徒たちのほとんどが、その窓から、唖然として見送っていた。


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